第5話 親不孝

 おんちゃんはどちらかといえば寡黙で、熱を外に放出しない。そこは玲子と正反対だが、内燃する熱量の多さと強さは、おんちゃんと彼女のそれは似ているように思う。

 作品が売れなかろうが、プロ野球選手になるより難しかろうが、そんなことは彼らには関係ないのだ。彼らはそんなことを考えているのではないのだろう。

 

 彼らは自分がどうしたいのか、どうありたいのかを自己中心的と言っていいくらいに考えている。はた迷惑なくらいに。


 親の期待、周囲の目、そして自らの己の評価。


 一方で僕はいつもそんなことばかりを考えている。いや、多くの人は僕と同じなのではないかと思う。

 …いやいやいや、言ってる傍からまただ。僕は僕。他の人がどうかなんてすぐに考えるのは、逃げようとする癖がついているからかもしれない。

 でも、

 親に応える、周囲の共感を得る、己を知る、それだって間違ってはいない。僕には周りに落胆されたり迷惑をかけてまで自己中心的に我を通すことは出来そうもない。


 おんちゃんの姉である母は、厳しい文句を言いながらも弟を好きなようだ。

 

 ――おじいちゃんとおばあちゃんはどう思ってるんだろう。


 いつまでも自由気ままで、自立しないおんちゃんをどう思っているのか。


 僕は僕の心に生じたさざ波に手を束ねていた。

 この心の動揺に僕は対応した方がいいのだろうか。した方がいいのなら、どう動けばいいのか。

 わからない。

 就職活動にかまけて、僕は悶々とする気持ちを放置した。


 無為に過ごした日々を後悔するときは、思っていたよりもはるかに早くやってきた。

 おんちゃんは入院してから半月も経たずに亡くなってしまった。



 お棺に納まったおんちゃんは綺麗な顔をしていた。


 ――綺麗なお顔ね。いまにも「よお」なんて言って起き上がってきそう…


 叔母たちがそう言っているのが聞こえたが、僕にはそうは思えなかった。

 あのはにかんだような笑みで「よお」と言うには、いまのおんちゃんは白くて綺麗すぎる。

 そう思ったら泪が溢れた。


 殊更に聞いておきたかったことがあるわけではない。

 でも、別れの日がこんなにも早く訪れるのだったら、もっと話しておけばよかったと思う。

 おんちゃんを無益で幼い大人だと思って疎遠にしたのは僕だ。後悔に胸が塞がる。

 

 その塞がった胸に放置していたあのさざ波がまだ立っていることに僕は気づいた。

 不謹慎な気がして僕は部屋から出て家の横にある井戸に向かった。かつては炊事小屋のあったという場所だ。昔は母屋に炊事場がなく、炊事小屋が別棟であったらしい。その跡に井戸と長椅子があった。

 僕は内ポケットから煙草を出して咥えようとして止めた。長椅子におじいちゃんが座っていたからだ。

 おじいちゃんは僕に気づいてふわりと笑った。


「煙草、吸うのか?」

「あ、うん。すいません、生意気で」

「すいません、って、吸うんじゃろうが。じいちゃんにも一本くれんか?」

「おじいちゃんって煙草、吸ったっけ?」

「昔はヘビースモーカーじゃったわ。樹音じゅおんが真似して高校生の時から吸い始めおってな、あんまり酷いから禁煙させようとわしも吸わんからと樹音と約束して、それで止めた。もう十年近くも前の話になるかの。…最後に吸わせてやりたかったが、樹音は病気に悪いからって意地を張りおった。義理堅いというか頑固というか…。でも、もういいじゃろう。ばあさんたちに見られるとうるさいが、ここなら樹音と三人で吸える」


 おんちゃんの部屋に、吸い殻でいっぱいの灰皿が無造作に床に置かれていたのを思い出す。

 僕は煙草を三本取り出すと、一本をおじいちゃんに渡して火をつけた。おじいちゃんはそっと吸うとその煙草を皿の欠片に乗せ、隣に置いた。煙草から立ち昇る紫煙が空へ向かった。

 おじいちゃんが咥えた煙草に火をつけ、僕も咥える。

 すうっと深く吸ったおじいちゃんが旨そうに煙を吐いた。


「旨いねぇ、やっぱり」


 おじいちゃんと僕は、吐いた煙が霞みのように揺蕩たゆたいながら、やがて紫煙と交ざって空に消えるのをじっと見つめていた。

 おじいちゃんの目尻に深く刻まれた皺に沿って、泪がこぼれ落ちた。


「痛ぇなぁ、おんちゃんの紫煙が目に滲みて痛ぇわ。あいつは…親不孝だねぇ」


 おじいちゃんが手のひらでゴシゴシ顔をぬぐって、笑った。

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