第4話 文学少女
おんちゃんが体調を崩して入院したと聞いたのは、僕が大学三年の九月下旬、残暑が緩み季節が秋へと移ろいゆく頃だったと思う。僕は冒険せず学力に見合う某私立大学の文学部に進学していた。
記憶が曖昧なのはそれほど気に留めていなかったからだろう。もともとおんちゃんは腺病質なうえに、昼夜が逆転した不規則な生活を続けていたため、よく病院に通っていた。僕はとうとう身体が悲鳴を上げたか、くらいにしか思っていなかった。
思ったとおりおんちゃんは程なくして退院したというので、僕はまたしばらくおんちゃんのことは忘れていた。
大学生活は充実していた。
高校までの制約の多い生活からいきなり自由を与えられて、当初僕はどう対応していいかわからず、スケジュールに目一杯の講義を詰め込んだ。
僕は朝から夕方までをずっと大学構内で過ごすこととなったのだが、それが楽しくて仕方がなかった。
知りたかったこと、新しく知ったことが毎日脳ミソに蓄積されていく充足感。それは貯金の溜まっていく預金通帳をニヤニヤと眺める楽しみに似ていた。
二年生の時には彼女(らしき人)も出来た。玲子とは複数の講義で会い、顔見知りになった。タメ年の文学部の女の子だ。
ステレオタイプの文学少女を思い浮かべるなら、それは彼女の実像とは程遠いと言える。
文学史にやたらと詳しい活字中毒者で、字も美麗なら文章も巧みに綴る、一見クールビューティーな女の子だが、その実はおそろしくパッショナブルでアクティブでポジティブな女性だった。
意見を持てばそれが教授であろうと先輩だろうと臆することなく主張するし、売られた喧嘩は買わずにはいない、そして勝っても負けても必ずなにがしかの対価を得て笑っているような人。喧嘩と言ってもディベート的なものだが。
玲子は小説家にもエッセイストにもなりたいという。それを目指しているのだと熱く語るのだ。
僕は肯定も否定もせず言葉を飲み込んだ。
小説家で食えるようになるのはプロ野球選手になるよりも難しい。困難なことは彼女だって百も承知だろうと思うが、もう少し彼女との関係が深ければ僕は口に出してそれを言ったかもしれない。
だけど僕はもうこれ以上彼女に深入りはしないだろうと思う。
僕はキラキラとした夢を語る人が苦手だった。必要以上に熱を発する激情も、熱のこもった目で見つめられるのも苦手だ。
僕自身が低体温で、実現の可能性のある現実的な道をソロソロと辿って歩くタイプだからだろう。
まるで正反対なのに玲子に惹かれるのはなぜだろう。僕自身の七不思議だ。
大学四年生になった春。
就職活動が本格化しはじめた春。
玲子はいよいよヒートアップしてきた。彼女は連日、新聞社と雑誌社巡りをしては夜に僕の前で喜怒楽を表していた。ちなみの彼女に哀という感情はない(見たことがない)。
他人には興味がないのか、敢えて立ち入らない方針なのか、玲子は僕の就職活動には何も触れてこなかった。有難かった。僕も彼女の前で、入れてくれる会社に入れればそれでいい、とは言いにくい。
就職活動が進むにつれ彼女の熱放出に対する苦手意識と僕が低体温であることの引け目が心に澱のように積み重なり、いよいよ一緒に居るのがシンドイと思い始めたころ、おんちゃんがまた入院した。
おんちゃんはすい臓癌だった。
早期発見が難しい癌だそうで、おんちゃんの癌はもう治療が難しい段階にまで進行していた。
僕はおんちゃんの見舞いに行かなかった。
弱っている姿を、おんちゃんは見られたくないだろうと思った。
未来を語れない空疎な励ましの言葉を、おんちゃんは聞きたくないだろうと思った。
でもそれは言い訳だ。
本当は怖かった。
死を覚悟せざるを得ないおんちゃんを見るのが。
真剣に生きているかと、語りかけてきそうなおんちゃんの声を聞くのが。
――そうか。
僕はふと思った。
玲子はおんちゃんに似ているんだと。
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