第2話 赤い裸婦

 おんちゃんが銀細工師を自称するようになった辺りから、僕とおんちゃんとの距離は徐々に離れていった。

 世の中のしくみがおぼろげにわかってきた僕は、母のおんちゃんに対する批評を理解し始めていたからだ。僕はもう中学生になっていた。


 おんちゃんの雑然とした無秩序な部屋には大きな作業台が追加されていた。

 机の上には工具やスケッチブック、スタンド、雑誌、新聞その他諸々の小物が積み上げられ、五十センチ四方ほどの作業スぺースだけが盆地のように開けていた。

 銀細工の指輪やネックレスのは、壁の作り棚の上に無造作に置かれている。


 銀細工の本当の良し悪しなんて僕にはわからないが、おんちゃんのは贔屓目なしに綺麗で繊細でセンスの良いものに思えた。

 それなのに、ほとんど売れないらしい。

 なぜなら売る気がないからだ、と母は言う。おんちゃんは自分のの出来栄えに自信満々らしい。だから出来上がった銀細工を決してとは言わない。商品呼ばわりされると怒った。


 ――画廊で絵を買おうとするとき、絵を指して『この商品は』っていうかい? 『この作品』って言うよね。同じことさ」


 おんちゃんはそう言う。

 だから、おんちゃんのは高価だし、譲って欲しいという人が現れるまで売れない。少なくてもおんちゃんは広報活動も営業活動もしていない。ほんとに時々、気が向いたら街の片隅で「個展」を開くだけだ。


 ――おじいちゃんたちと一緒に住んでるから売れなくても困らないんだよ、あの子は。本当にのんきで無責任でろくでもない人間だよ。


 それでも母は八つ違いの弟が可愛かったようだった。

 おんちゃんの一番のお得意さんはおそらく母であったろうと思う。母はお出かけするときは必ず(微妙に似合っていない)銀の指輪とネックレスをしていた。


 

 おんちゃんの部屋に追加されたものがもうひとつあった。猥雑を極めた部屋の中で唯一、強烈なインパクトを放つもの。おんちゃんが描いた大きな油絵だ。

 額装されたその絵は、黒い線と赤の濃淡だけで描かれた裸婦像であった。

 絵のこともてんでわからないが、その絵は見た瞬間に目に焼き付いた。目にというより心に焼き付いた。

 上手いのか美しいのかはわからない。写実と抽象の混じり合ったような絵で、正直に言えば上手いとも美しいとも思わなかった。

 ただ、心に衝撃を受けたのは確かだ。

 裸婦は泣いているようにも怒っているようにも見えた。

 自信に溢れ主張しているようにも哀れに虚勢を張っているようにも見えた。

 情熱的なようにも魂を鎮めているようにも見えた。


「おんちゃん、あの絵を欲しいって人はいなかったの?」

「ん? なんで」

「なんか良い絵だなって思って」

「へぇ、どこが?」

「わかんない。どこが良いか全然わかんないけど、なんか良いなぁって」

「やろうか」

「え? お金ないよ、買えないよ」

「だから、やろうかって言ってるでしょ」

「いや、だって大切な絵なんでしょ?」


 おんちゃんが椅子を回転させて、その赤い裸婦の絵に向き合った。


「この絵を欲しいって人は何人もいたよ」

「へ? じゃあなんで売らなかったの? 売りたくないくらいおんちゃんも気に入ってる絵ってこと? じゃあなおさら貰えないよ」


 おんちゃんはふっと息を吐いて僕に顔を向けた。


「絵はね、気に入ってくれた人のところで飾られるのが一番なんだよ」

「でも僕は美術のことなんて知らないし、この絵もどこが良いのかわかってないし」

「でも気に入ったんだろ、よくわからない感覚で」

「…うん、まぁなんていうか、胸にどーんと飛び込まれたっていうか」

「作者として、最高に嬉しい感想だよ。絵を見てすぐに筆のタッチがどうとか色彩がどうとか構図がどうだとかペラペラしゃべり出すヤツは大抵、絵そのものが見えていない。審美眼とやらをひけらかしたいだけなのさ。この絵を欲しいと言った人たちはみんなそうだった。だから売らなかった。もし一億出すと言われても、それが十億円でも、そんなヤツに俺の描いた絵を譲る気はないんだ」


 ――売れなくても困らない。


 母の言葉が脳裏をかすめる。


「おんちゃんはお金、欲しくないの?」

「欲しいさ、いっぱいね。いい歳してまだ親の脛をかじってる身だし、いつまでも姉さんたちに甘えん坊のろくでなしって思われたくないからさ。でもね、魂を売ってまでお金が欲しいとは思わない。魂を売ったらさ、死んじゃうでしょ」


 僕にはそれが良い言葉なのかどうかわからなかった。かっこいい言葉ではあるが、お金がなければ死んじゃうのは一緒じゃないだろうか。


「…やっぱり絵は貰えないよ。僕の部屋には大きすぎて飾れないし」

「そう、か」


 おんちゃんが少し寂しそうに笑ったのを見て、僕も少し切なくなった。

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