セトの海

 これで、外海に出たらどうなってしまうのやら。

 足下の板の、下の下を支えるのが海の水という柔らかい物であるという状態は、いつまで経ってもヒョウは、苦手だった。


 クー・カザルを出港して、数刻。


 冬餉号は、二本の帆柱の片方で、帆を大きく開いていた。もう一方の帆柱の帆の開きかたは、半分位だった。当然、船を操る上での都合なのだろうが、どうしてそうすべきなのかはヒョウには、良く判っていなかった。

 既に二角湾を出ていたが、セトの海でもかなり奥の海域だけに依然海は、穏やかだった。が、得手不得手というのがそういった話で無いのは、言う迄も無い。


 アルトナルドは、苦にしている様子を見せた事が無かった。


 前進しつつ波に持ち上げられ、乗り越え、落ちる。又持ち上げられ、一瞬身体が軽くなり、前滑りに、落ちる。身体が、重く成る。

 軽いのは良い事の様だが、その瞬間の方が釣り合いを取るのは、難しい。

 数回なら、楽しいであろう。


 船体を作る木組みの、様々な構造からは波に揺られる度に、ギシギシした音が様々、響いた。

 しばしば帆は、風にはためいて震え、音を立てた。

 張られた綱もしばしば、唸る様な音を立てた。


 船の斜め後ろには、陸地の緑や黒が水平線上に、見えていた。

 行く手にも、幾つかの島影が存在した。

 海鳥の、拍子良い鳴き声が聞こえてくる。

 順風であるらしかった。

 船出したばかりは潮の香りを感じていたが、直ぐに鼻は馴染んで、意識しなく成っていた。ただ時々、香りが強まるのかフッと、感じる時が有った。


 冬餉号は、大型船では無い。

 荷物も旅客も似た様な扱いに、乗せられる限り乗せて船出するので、積み方は常に、美的世界であった。

 似た扱い、とは言っても無論旅客は、何段も積み重ねて船倉にしまっておくという訳にはいかない。

 つまり、人を入れる場所以外のあらゆる所に、知恵を絞って荷が詰め込まれていた。

 大きくても軽い物、小さくても、重い物。

 船には、喫水という物が有る。釣り合いという物も、有る。


 ヒョウは、無論作業そのものに関わる事は無かったが。いつも船内を見る度に、そこに至る迄の様々なやり繰り、騒ぎが見て取れ、怒鳴り合いが有ったであろう事も見て取れつつ、感心しているのだった。


 それにしても、もう少し時間が経てば一応慣れては来るのだが。久し振りの、乗船。揺られ続ける此の感じ。身体がまだ、思い出していない、受け止めきれていない!


「何でいつもそんなに、キツそうな顔してるのか不思議だよな」


 アルトナルドだった。

 二人は船首の、一段高く成っている部分に立ち、全体に目を配る様にしていた。

 時々波飛沫が、飛んで来た。

 アルトナルドは、様々な革鎧を身に着けて相変わらず、茶色尽くしだった。

 ヒョウも、革製の黒い胸当てと手甲を着けていた。

 クー・カザルに居た時と同じく、ヒョウの腰にはやや細身の剣が、アルトナルドの両腰には手斧が有った。


「そんなに、顔に出てるか?」


「そこまでじゃ、無いけどな」


「気持ち悪く無い。気持ち悪く無い。全く、気持ち悪く無い」


「どう思う?」


 問いは無論、ヒョウの気分について向けられたのでは無かった。


「やっぱり、あの二人だよな」


「そうだな…」


 三角航路は、セトの海の中でも安全とされていた。一つには単純に、内海の中でも奥に成る程無法な者も、活動しにくくなるという話でもあったが。

 護衛に雇われてもあれこれに目を配らない者達も、いない訳では無かった。

 正直二人も、徒労感も有ったのは事実だったが。

 それでも、船倉の見回りを怠った事は無かったし、乗船前から荷物や、何より旅客について可能な限り、確認をしていた。


「邪魔なんだよ!」


 一人の乗組員が、船首と帆柱の先端の間に渡された綱を締め直す為に二人の脇を、小走りに通った。が、声を発したのはその男では無かった。


「のさっと、突っ立ってんじゃねえよ!」


 甲板の真ん中に立つ角ばった身体付きの男は、操舵長という身である以上、ヒョウとアルトナルドに対して雇う側の立場ではあった。

 しかし、もし仮に護衛が、その腕を振るわなければならない状況が発生したならば常に自分達に無礼、偉そうな態度を取っている者を命懸けで守る事を最優先事項に、するかどうか?そういった事を考えてみる様子が無いのがヒョウには、不思議だった。

 いずれにせよ二人とも、邪魔に成らない位置は、心得ていた。実際今も、乗組員の動きを妨げてはいない筈だった。


 船上から見える波の動きと、現に乗っている船が波に揺られる動きが必ずしも一致していないのも、身体にキツくなる一因だった。


 二人は改めて、船全体に目を向けた。

 両用船である。人も荷物も、運ぶ。

 クー・カザルに出入りする船としては珍しい事に、乗組員は全員人間だった。

 何か理由が有ってでは、無い。

 たまたま何となくそうなって、一旦そう成ってしまうと何となく、継続されてしまうという事らしかった。

 船客はさておき、船を管理する側で人間以外なのは、アルトナルド一人だった。


 船長は、船尾の高い所に立ちつつ、目を配っていた。

 いつも「船長」としか呼んでいないのでヒョウは、名前を覚えていない。

 肌が黒い人種だった。理知的そうな顔立ちで、学士と言われても通りそうだった。

 護衛達にも、一定の丁寧な態度を崩した事は無かった。

 自分の配下の操舵長の振る舞いも目に入っていた筈で、ヒョウの見た所、良しとはしていないと思われた。

 しかし、船長と言えど部下との関係に於いては、自由に成らない物も多い訳である。


 三角航路は、クー・カザルと対岸の「茶色の町」を結んでいる。一直線に行き来出来る位置関係だったが。海流や風や島々やら、斜めに進んで、向きを変えて又斜めに進んで、大分大回りに尖った行き方に成っていた。

 何故そうする必要有るのか、ヒョウは正直判っていなかった。

 角の部分、大きく向きを変える前後は無数の島々の間を抜けるか更に大回りするか、操船としても大変だったが護衛としても一番、気を張る場所である。


 船客は、商人達だった。自ら品物を持ち歩き売り捌く旅商人も居れば、取引のし合いに行く者も居た。二人だけ、素性が見えなかった。


 一人は人間の男で、服装はクー・カザルで普通に目にする物だったが、黒髪を頭の後で、束ねてまとめているのが異国風だった。目を引いたのは腰の剣で、見た事の無い形だった。


「ジパングの剣だよ」


 初めて目にした時にそれを言うと、アルトナルドは答えた。


「見た事無かったか?」


 曲刀だったが、反りかたは緩やかで咄嗟には、直刀と間違える事も有りそうだった。鞘に入っていたが当然、片刃と思われた。やや細身で、素早く使う事を主眼としている様に見えた。


 ジパングというのは、外海に出て更に、遥か彼方に有るという島である。ヒョウも詳しくは無かったが、そこそこの大きさは有るという事だった。その中だけで幾つもの国が勢力争いを繰り返し、暮らしも島の中だけで成り立っているらしかった。


 ジパングの出身とおぼしきその男は、剣の腕も中々なのが見て取れた。

 一番問題なのは、どういった理由、目的で乗り込んでいるのか全く、見えない所だった。


 もう一人謎だったのは、赤覇エルフの男である。

 エルフの種族の中でも、魔力に秀でた者が多く出る印象で、クー・カザルでは余り、見掛けなかった。

 それ故に、少々片寄った目で見てしまっているかもしれない事はヒョウとしても、意識していた。

 しかしとにかく、高価そうな旅装に身を包んで乗船する所を見届けていたが、こちらも、どういった身の上なのか全く、見て取れなかった。

 確認した所では、二つしか無い個室の一つに入っているとの事だった。


「どう思う?」


 ヒョウの問い掛けは、自らの上衣の胸元の内側に向けられていた。


「お前はいつも、船の上では余り喋るなと言っているではないか」


 服の内側から、声が返って来た。


「今は誰にも、聞こえないよ」


「我が領域に関しては、既に精査したではないか…何も無しだとな」


「考えを、聞きたいんだ」


 言うとヒョウは、赤い線の入ったお皿型の黒い物体を胸元から、取り出した。


「『対魔章印』の考えにも、耳を傾けようとする…いつもながら、お前の美徳であるな」


 物体が、答えた。


「それで?」


「二人とも、ジパングの者と赤覇の者の素性が知れぬと、気にしているが…」


 言葉が発せられるのに合わせる様に、赤い線上を赤い光の点が幾つか、移動するのだった。


「何か企む者は、素性が判らぬ姿でいたりせぬ…怪しまれぬ、そこに居るのが当たり前な者を装う筈ではないか。寧ろ、怪しく無い者にこそ目を向けるべきであり、素性が判らないという事は、危険な者では無いという事であろう」


「判ってるさ、そんな事は…ただそれでも、何故、此の船に乗ってるのか見えないというのは、気に成るんだ」


「いつも思うが、二本足の民は、余計な事をあれこれ考えるのが好きだな」


「船影です!」


 帆柱の上の見張りが、叫んだ。次に発せられる言葉と、船長の命令を待って船上の動きが、止まった。


「荷物です!」


 荷物専用の、荷貨船という意味だった。

 少ししてヒョウの目にも、こちらより少し大きい、内海での荷運び専用に建造された厚み有る船体が水平線上に、見えて来た。当然クー・カザルを、目指しているのであろう。

 距離を置きつつすれ違う形に成りそうだった。荷物を積みに積んで重たそうな動きが、ヒョウの目にも見て取れた。

 船長が号令して、黄色い挨拶旗が揚げられていった。ほぼ同時に、向こうの船体上にも挨拶旗が上がっていくのが見えた。

 乗組員の旗を扱う動作、海を行く者同士の礼儀、ヒョウはこういった時間が、好きだった。

 すれ違いの頻繁さを考えるとセトの海では、挨拶旗はもう揚げっ放しにしておいても良いのでないかと密かに、思ったりもしていた。


 後から考えると此の時すれ違った荷貨船は、それ自体変哲も無かったが様々な運命を大きく、変えたと言えるかもしれなかった。


「その昔、ジパングの民には何人か、会った事が有る」


 二つの船が、互いに相手を後尾方向に見る様に成って旗が下ろされた所で、黒い物体は再び、話し始めた。


「中々、面白い者達だったが…だからと言って、今お前達が気にしている者についてどうこう言えるという訳でも、無いしな」


「どう、面白かったんだ?」


 尋ねたのは、アルトナルドだった。


「適切な言葉が自分の会話情報内に無いが、彼らは体術に、優れておった」


 細かい作業は続いていたが、船上には、決まりきった段取りを繰り返しているのみといった平和な空気が、漂っていた。これまでから言うと船長はそろそろ、操船を操舵長に任せて自室に入るであろう。その前に乗組員に、半数ずつ回り持ちで休みを取る様命令を、出すであろう。船客にも、甲板に出る許可を与える筈である。

 ヒョウとアルトナルドが気にしている二人が表に出て来るか判らなかったが、姿を見せれば改めて、人物の観察も出来るという物だった。


「船影です!」


 見張りの声が響いたのは、船長が、ヒョウの読み通りの命令を下そうとしていたとおぼしき時だった。


「荷物です!」


 ヒョウの目にも、先程と同じ型の船が遠目に、見えて来た。船長が、挨拶旗を揚げる様命令を出そうとした時、再び見張りの声が響いた。


「針路を、変えました!我々に、接近せんとする様子です!」


 異例であるのは、言うまでも無い。が、取り立てて異例でも無かった。


「『便り有り』を掲げています!」


 緊急に、出来れば口頭で伝えたい何かが有る事を意味する赤い旗が、ヒョウにも見えた。


「『了解』を揚げろ!」


 荷貨船は、軽快に向きを調整しつつ冬餉号に、迫って来た。


「船長!皆に武器を取らせるんだ!」


 ヒョウの声が突然、響き渡った。叫びながら、剣を抜いていた。

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