第18話
折原 翔
二〇二四年九月
「翔! ボール持ちすぎだ! 囲まれるぞ!」和人の声がグラウンドに響く。だが、翔はその声を意に返さず、ドリブルで相手選手に突っ込んでいく。
「囲め! こいつ突っ込んでくるだけだぞ!」相手選手は三人がかりで翔を囲んだ。
「翔! こっちだ!」翔が声の方を見上げると大吾がフリーになっていた。だが、翔はパスを出さない。翔は持ち前のスキルと強引なドリブルで相手選手を引き剥がしていく。
「くそッ。なんだこいつ、取れねぇぞ」
二人、三人、四人とドリブルで抜き去っていき、ついにゴールキーパーと一対一となった。翔は大きなシュートモーションを入れる。ゴールキーパーはシュートに対応しようと飛び込む姿勢を見せるが、翔のそれはフェイントだった。飛び出したゴールキーパーの脇を翔はするりと抜け出し、無人のゴールへ豪快にシュートを叩き込んだ。
あまりに常人離れしたプレーに観客含め、ピッチに立つ選手たちは一瞬沈黙した。その後、堰を切らしたかの様に土浦ユナイテッドFCのチームメイトたちが翔に駆け寄ってきた。
「翔! なんだよ今の神プレー! 凄すぎだぞ!」
駆け寄ってきた面々に和人と大吾の姿はなかった。翔は祝福を意に返さず、無言でピッチに戻っていった。
雲が空を綺麗に覆い、少しばかり肌寒く感じる今日は県大会の初戦であった。会場は鉾田市の鉾田総合公園にあるサッカー場で、これまでの土のグラウンドとは打って変わって美しく綺麗に刈りそろえられた芝のグラウンドであった。
初戦の相手は土浦ユナイテッドFCと同様、今大会が初の県大会出場となる鉾田ジュニアSCというチームだった。相手チームも初の県大会出場ということもあり、緊張と不安と希望と、様々な感情を持って臨んできたことだろう。だが、その初々しい気持ちを翔は圧巻のプレーでズタズタに引き裂いていった。
試合はその後も翔の独壇場が続いた。群がる相手選手をものともせず、前半だけで三点を翔一人だけでもぎ取った。
前半終了間際、翔が同じような独断プレーを続けていた中で、ついに相手選手が翔からボールを奪う。翔は頭に血が上り、苛立ち、舌打ちをして、その相手選手に対して後ろからスライディングをした。翔の足はボールではなく、相手選手の足を絡め取り、豪快に転ばせてしまう。
その瞬間、ピーとホイッスル音が鳴り、主審が翔のそばまで近寄ってきた。主審は天高く黄色いカードを提示した。イエローカードだった。
「審判! 甘すぎるぞ! 今のはレッドだろ!」
相手選手たちは抗議した。だが、主審の判断が覆ることはなかった。
そしてそこで前半が終了した。翔がファールした相手は足を引きづりながら、ベンチに戻っていく。翔はその様子を冷徹な目で見ていた。
ベンチに戻ると翔はチームメイトから手荒い祝福を受けた。「よくやった」「いきなりハットトリックなんて凄すぎる」「翔いたら普通に優勝出来ちゃうんじゃない?」そんな言葉たちの間を縫うように和人が大股で翔に近寄っていき、強引に翔のユニフォームを掴んだ。
「どういうつもりだ、翔⁉︎ なんなんだ今日のプレーはよ⁉︎」
和人の顔は怒りで歪んでいた。
和人の怒声に浮き足立っていたチームメイトは押し黙った。どうして怒っているのかわからないといった様子だった。
「別に勝っているんだから良いじゃないですか」
翔は反抗するかの如く和人を睨みつけ言う。
「俺たちの力なんか借りず、お前の力さえあれば勝てるってか。お前はいつからそんな傍若無人な王様みたいになっちまったんだ? 俺たちがこれまで続けてきたサッカーはそうじゃないだろ! 今日の相手はたまたま大したことがないから、お前だけでも勝ててるかもしれないけどよ、上の相手には絶対通用しない。こんなこと続けてたら、絶対に全国なんかいけねぇぞ!」
「和人君、落ち着いて!」大吾が翔と和人の間に強引に割って入った。
「大吾! お前からもこのバカになんか言ってやれ」
翔は下を向いた。苛立ちが自身の体を蝕んで自分が自分ではないようだった。翔は大吾の視線をひしひしと感じた。
「永森監督、後半は翔を交代させてあげてください」翔は大吾を見上げた。
「そのつもりだ」永森先生が言う。
「な、まだ僕は出来ます!」
「翔、今日のお前は個人スポーツをやっているだけだ。言わずもがなサッカーはチームスポーツ。使い古された言葉かもしれないが、お前のためにチームがあるんじゃない、チームのためにお前がいるんだ。チームはお前の個人的な怒りをぶつける場所じゃない。お前に何があったのか俺はわからないが、一旦頭を冷やせ。わかるな?」
翔は苦虫を噛む思いだった。もちろん独りよがりなプレーであったことは認識しているが、どうしてここまで言われなきゃいけないんだという思いが強かった。
「翔!」大吾が翔の肩を掴む。
「俺はお前の辛さはわかっている。苛立つ気持ちもわかる。でもその気持ちを試合に持ち込むな。俺が一緒に悩むから、考えるから。だから今日はもう休め。な?」
翔は下を向いたまま頷かなかった。
そして後半開始のホイッスルが鳴った。チームメイトはピッチに戻っていく。
「翔」自分を呼ぶ声がした。振り向かずともその声は夏樹だとわかる。
「多分自分では気付いてないと思うけど、翔っていつもサッカーしている時、笑っているんだ。笑っちゃうくらいサッカーが好きで楽しいんだなって思ってた。でも今日の翔、一度も笑ってなかった。楽しくなかったってことだよね?」
夏樹の言葉が翔の中に浸潤する。図星だった。どんなに得点を取っても全然楽しくなかった。
夏樹は翔の肩をぽんと叩いた。
「翔がサッカーを心から楽しいと思えるようになるまで、僕たちは勝ち続けるよ。翔の居場所はいつでもここにあるんだからね」
そう言って夏樹はピッチに戻っていった。翔は夏樹の背中をずっと見続けていた。
後半はさらに大吾が得点を上げ、最終的に四対〇で大勝した。後から聞いた話だが翔がファールをした相手選手は大きな怪我にはならなかったようだ。翔はホッと安堵した。
鉾田市のサッカー場までは涼太の運転で来ていた。翔と大吾は涼太の運転で土浦市に戻った。車内では終始無言だった。空気を察してか、たまに涼太が大吾に話しかける程度だった。大吾を家に送り届けてから、涼太は俯く翔に声をかけた。
「お前はほんとお父さんにそっくりだよ」
「……どこが?」
「翔、今日のサッカー全然楽しくなかっただろ?」
翔は軽くどきりとする。
父にも見抜かれていたのか──。
「お父さんもな、自分で点決めるより、自分のパスでチームの誰かが点を決めてくれた時の方が遥かに嬉しかったもんな。翔さ、今色々悩み抱えているんだろ? お父さんも悩みや苛立ちがあると今日の翔みたいなプレーをしていた気がする。無理にお父さんに悩みを打ち明けてくれとは言わない。でも、自分だけで抱えるなよ。悩んで、困って、苛立って自分ではどうしようない時はさ、友達に頼るんだ。頼りまくるんだ。翔にはそんな頼れる友達がいるだろ? それって本当に最高の財産なんだ。大切にしろよ」
友達──。そう言われると、すぐに大吾や美織の顔が浮かんだ。
翔はゆっくり首を縦に振った。
家に着くと、翔はすぐに自宅隣の公園に行き、壁めがけてボールを蹴った。
今日は色んな人から厳しくも温かい言葉をたくさんもらった。純粋に嬉しかった。それでもまだ完全に自分の心は晴れ渡ってくれない。負のエネルギーがいまだに沈澱したままだ。翔がボールを蹴る威力はどんどん増していった。
「今度はボールに八つ当たりか? 翔」
急に声がして翔は一瞬体を固めた。振り向くとそこには大吾がいた。
「大吾⁉︎ なんで──」
「きっとここにいるんだろうなって思ってさ。来ちゃったよ」
「何の用?」嬉しいはずなのに憎まれ口を叩いてしまう。
「翔はどうしてそんなに自分自身に怒ってんるんだ?」
「えッ?」翔は虚をつかれたように驚き、大吾の目を見た。
自分の心を見透かされたような気がした。
「翔がなんでそんなに苛立っているのか考えてみた。最初はどうしてお母さんが未来に現れてくれないのかって、そこに対する怒りだと思ってた。もちろんそれもあるんだろうけど、翔はそれくらいのことで自分を見失うことはないだろ? だとしたら自分自身に対する怒りだ。違う?」
翔はふるふると体が震えるのを感じた。全身が助けを求めているかのようだった。
「また僕は嘘をついた……」
「嘘?」
「『時を越えるノート』でお母さんに未来でお母さんは生きている、一緒に暮らしているって嘘をついたんだ」
「でもそれは前にも言ったようにお母さんを想っての嘘なんだろ? 希望を失わせないための──」
「違う! ……違うんだよ。僕は怖かったんだよ。お母さんに、未来でお母さんが現れていないって伝えてしまうと、今後本当にお母さんは現れることはない、会えないんだって、それが真実なんだって自分がそれを認めてしまいそうで……それが怖いんだ。認めたくないんだ、諦めたくないんだ。お母さんに、会いたいんだ。でも、そんな自分が心底嫌なんだ……」
「どうしてそれで自分を嫌いになることがあるんだよ?」
「だって! 本当のことを知っちゃったらお母さんはショックを受けるだろ⁉︎ 自分はこの先もずっと生きられるって未来を思い描いている人が、突然それが嘘だとわかったらどれだけの辛いか……。僕は自分が恐怖から逃れるために、お母さんがこの先本当のことを知って苦しむことがわかっているのに、そんな嘘をついたんだ。お母さんのためじゃない、全て自分のため……僕は最低だ……」
翔は苦悶に表情を歪めた。
「だったら嘘を真実にすれば良い」
大吾はスパッと言い放った。大吾は翔の傍に近寄る。
「しっかりしろ! 翔! まだお母さんがこの世界に現れないと決まったわけではないだろ? どうしたらお母さんがいる未来に変わるのか、模索し続けるんだ。俺もバカなりに色々と調べるから、考えるから! だから前を向くんだよ!」
「どうしてそんなに……」
「忘れたのか? 母ちゃんが倒れて、俺が悲しみでどん底にいる時、翔が俺を励ましてくれて、支えてくれたんじゃないか。次は俺がお前を支える番だ」
「大吾……お母さんは……」
「明日退院予定だ。リハビリも上手く行っている。まだ今後再発がないとも言えないけど、とりあえず一旦はくも膜下出血も脳梗塞も治ったんだ」
「そうか……良かった……」
「翔や美織のおかげだ。あの紙飛行機も母ちゃん大切に病院に飾ってるよ」
大吾は空を見上げた。もうすぐ日が暮れる頃だった。
「もう遅いし俺は帰るな。とにかく自分一人で背負い込むな。悩みは全部俺に吐き出せ。わかったな?」
「うん、わかった」翔は今にも泣きそうだった。
「じゃあ、また明日学校でな!」そう言うと大吾は公園を後にした。
翔は先ほどの車内での涼太との会話を思い出して、うっすらと笑みが溢れた。
友達……か──。
最高の友達を持てたと翔は心の底から思った。まだ何も解決したわけではないが、少なくとも体の中に渦巻いていた負の感情はどこかに消え去っていた。
ここ数日、涼太と一緒に暮らしていて、琴音と一緒に生活してないことは間違いないと翔は思った。涼太との会話の中で話題にも上がらないし、女性の生活感が我が家からは一切感じられないのだ。
だが、過去が変わったことは間違いない。それは翔の誕生日が変わったこととリビングにある三人で写る写真が物語っている。ではなぜ琴音はこの世界にいないのか。実はどこかで生きているけど、のっぴきならない事情で一緒に暮らしていないのか。それならなぜリビングに写真を飾っているのか。
わからない──。
全ては涼太に訊けばわかるのかもしれない。けれども、翔にはまだその勇気が出なかった。真実を知りたいはずなのに、その真実を知るのが怖い。翔はそんなめんどくさい自己矛盾に苦しんでいた。
あれこれ考えていると、すっかり日が暮れてしまっていた。
翔がサッカーボールを手に取りマンションに戻ろうとした、その時だった。
「翔さん、どうもお久しぶりです」
翔はすぐにその声の主が誰かわからなかった。だが、聞いたことがある声だと思った。振り向いた瞬間、翔は目を剥いた。驚きのあまり尻もちを着いてしまう。手に持っていたサッカーボールは地面に落ちて転々と転がっていく。
この姿、見間違えようがない。
まん丸な目と三日月のように笑った口が黒くペイントされた不気味で特徴的な白い仮面。きつめのパーマでベージュ色の長い髪の毛。英国紳士風の黒いシルクハットに膝丈まである黒のロングコート。
一年前に翔の前に現れた時と比べて、その姿と異様な不気味さは一切変わりがない。エリーだった。よろず商人のエリーがそこにいた。
「エリー……さん」
「おや? ふふふ、私の名前覚えていてくださったんですね。光栄です。私の授けた『時を越えるノート』はお使いになられていますか?」
「……はい」
「ふふふ。それは良かった。実は今日はこのノートに関して一つ翔さんにお伝し忘れていたことがありまして馳せ参じた次第であります」
「はぁ」
「琴音さんにも既にお伝えしていることではありますが、翔さんにもお伝えしないとフェアではないですからね。それはこのノートの秘密というかある能力についてです」
「能力?」
「えぇ。このノートは過去と未来が重なる時、扉は開きます。……以上です」
「……え? どういう……こと?」翔は思わず訊き返した。
エリーの言っていることを上手く咀嚼出来ない。意味が全く理解出来なかった。
「ちょっと難しかったですかね? でも琴音さんにもこれ以上のことは伝えていませんので、これ以上はフェアじゃないですね。それではこれで用も済みましたので、失礼します。では」
「ちょっと待って!」翔は咄嗟にエリーを呼び止めた。
「どうしました? 私結構忙しい身でして、暇ではないんですよねぇ」
翔は必死に頭を回転させた。訊きたいことは山ほどあった。
エリーは一体何者なのか、どういう存在なのか、どうしていつもおかしな仮面をつけているのか、なんの目的があって自分のところに現れてくれたのか、どうしてこんな不思議なノートを持っているのか、そしてどうしてそれを自分に与えてくれたのか、ノートの代償である寿命のこと、訊きたいことは尽きないが、翔が一番に訊きたいことは明確だった。
「お母さんは、お母さんはどうしたら未来に現れてくれるの?」
「……」
「僕の誕生日が変わったんだ。過去を変えれば未来は変わるはずなんだ。それなのにお母さんは現れてくれない。一体どうして──」
「わかりません」
「そんな──」
「私にだってわからないことや出来ないことはあります。私は神ではありませんからね。ふふふ。というか……翔さん。本当はもうわかっているのはないですか?」
「え」
「真実に蓋をして、ありもしない虚妄にがむしゃらに手を伸ばしたって何も掴めず空を切るだけ。何事もまずは目の前にあること、自分に出来ることからやることが大事だと思いますよ」
「ちょっと、それってどういう──」
「おしゃべりが過ぎましたね。では、これにて失礼」
エリーがそう言うと、彼は翔が瞬きをする間に一瞬にして消え去った。翔は突然の出来事にしばらくの間その場を動けなかった。
翔はエリーの言葉を頭の中で反芻する。
僕自身が……わかっている……? バカな。それがわからないからこんなにも悩み苦しんでいるって言うのに。
エリーの言葉は翔にとっては簡単には理解し難いものだった。
だが、まずは目の前にあること、自分に出来ることからやることが大事という言葉は妙に印象に残っていた。
少し時間が経ってから翔はマンションに戻ろうとした。その道中、彼はあることを疑問に思った。
僕、エリーさんに自分の名前言ったことっあったっけ……?
翌日、翔はサッカーの練習開始前にチームメイトの前に立って、昨日の試合での振る舞いを謝罪した。永森先生は「そこまでしなくても、誰もそこまで怒っていないぞ?」と言ってくれたが、それでは翔の気が済まなかった。
翔が顔を上げるとチームメイトはみんな、ニヤニヤした顔つきになっていた。
「な、なんですか……?」
「そもそも俺たちはそんなに怒っていないんだけどよ、翔にどうしても謝りたい奴がいるんだよね〜」先輩の一人が言った。
「?」
すると沈黙していた和人が前に出てきた。何かを言いたげな神妙な面持ちに見える。
「その……なんというか、もちろん俺が昨日翔に言ったことは本心だし、そこを撤回するつもりはないんだけど……ちょっと言い過ぎた」
「いや、そんなことないですよ。和人君が謝ることじゃない。僕がプライベートなことで苛立ち、試合にぶつけてしまったことは事実ですから」
「にしてもだ。俺も初めての県大会で舞い上がって空回りしてたのかもしれない。すまん」
「和人君……」
「でも! もうあんなプレーするんじゃないぞ! こっからは相手もどんどん強くなっていく。いつもの俺たちのサッカーをすること! オッケー?」
「はい!」翔は力強く頷いた。
「よし! じゃあ、いつもの翔が戻ってきたことだし、この話はもう終わり! 練習するぞ!」
和人のかけ声と共にチームメイトは離散し、練習を開始した。
翔が周囲を見渡すと視線の先に大吾と夏樹がいた。二人は親指を突き出して彼にグットサインを出していた。顔は笑っていた。
翔もつられて笑い、二人のところに駆け出した。
ここが自分の居場所──。心からそう思えた。
折原 翔
二〇二四年十月
季節は秋真っ只中にも関わらず、土浦市の気候はまるで夏を置き忘れたかのように、暑さは未だ衰えを見せていなかった。
土浦ユナイテッドFCは順調に県大会でも結果を残し続け、二回戦、三回戦と勝ちを重ねていき、来週には準々決勝を控えていた。チームの雰囲気もかなり良くなっていた。
翔は日々の生活や、サッカー大会の近況報告等、いつも通り琴音との交換ノートを続けていた。
琴音は無事退院をし、看護師としての仕事も再開しているという。生まれたばかりの翔は未だNICUにいるため、毎日仕事終わりに涼太と二人で顔を見に行っているようだった。
翔の退院基準である三十七週までは残り一ヶ月程度かかるようだが、順調に成長を遂げているようで翔は安心した。と同時に不思議な気分だった。自分自身のことのはずなのにまるで親戚の子の成長を見守っているかのような錯覚に陥ってしまう。
がんの転移が見られなかったという琴音の検査結果を聞いた時は、飛び上がりそうなほど嬉しかった。だが一方で、ならばどうして琴音は未来に現れてくれないのかという疑問は、さらに濃密なものになっていった。
翔は大吾や美織と協力して、琴音がどうしたら未来に現れてくれるのか、希望は薄いとわかりながらもネットや図書館で情報を集めていたが、未だに糸口が掴めていなかった。
翔は内心焦りを感じていた。もし琴音から未来の自分の写真を送ってなどと言われてしまったら、もう嘘は突き通せなくなる。大吾の言うとり、嘘を真実に変えるのであれば、急がなければと思っていた。
ある日の休日、翔と大吾は美織の家に来ていた。集めた情報を交換し合うためだ。翔は美織の部屋に遊びに来たのは久しぶりだった。美織の部屋は所謂、ピンクを基調とした女の子らしい部屋ではなく、誇張した色彩のない割とシンプルな部屋だったので、妙に落ち着く。
美織の母がお菓子やジュースを用意してくれてた。翔たちはそれらを頬張りながらお互いの情報を持ち寄った。と言っても翔は今回何も情報を集められなかった。大吾と美織から話を聞くことをメインとして来たのだ。
「じゃあ俺からな。正直翔の母ちゃんが未来に現れる方法はいくらネットで調べてもそれらしい情報を得られなかった。諦めた訳ではないからな? これからも探す。でも一つ気になるネット記事を見てさ。あまり嬉しい情報ではないかもしれないけど、聞いてくれるか?」
「何よ、もったいぶらないで教えないさいよ」美織が頬杖を突きながら言う。
「二人とも、パラレルワールドって知っているか?」
翔は首を傾げた。
「聞いたことはあるけど、具体的にどう言うものかは知らないなぁ」
「私も。それってなんだったっけ?」
「俺もちゃんとは知らなかったんだけどさ、色々ネット調べたら、俺たちの生きている世界はいくつもの世界に分岐して複数存在している、っていう考え方らしいんだ。人は生きている上で色んな人生の選択をすると思うけど、その選択次第で未来は変わっていく。つまり、選択肢の数だけパラレルワールドが存在するってことだ」
「あぁなんか都市伝説的なテレビ番組でそういう話は聞いたことがあるような……ちょっと待って、翔ママがこの世界に現れない原因って大吾まさか……」
「仮定の話だぞ? そもそもこのパラレルワールドだって実在するかなんて確かめようがないんだけど、仮にもし存在するのだとしたら──」
「お母さんが生きている世界は別に存在するってこと?」翔は食い気味に訊いた。
「……あぁ」
「そんな……でも、翔の誕生日は変わったじゃない。分岐するとしたらこの世界は変化しないはず……」
「俺だってわかんねぇよ、バカなんだから。けどさ、この世界に生きる選択肢の数だけパラレルワールドが存在するなんて途方もなさすぎると思わないか? だったらこう考えたらどうだ? 人生に大きな変化を与える選択の数だけパラレルワールドが存在するとしたら──」
翔は顎を触りながら大吾の言葉を脳内で咀嚼した。そしてはっとして大吾を見た。彼の言いたいことが分かったような気がした。
「誕生日が変わるような些細な変化であれば、未来に影響を与えるけど、人の生死はこの世界に影響を与えるには変化が大きすぎる。だからお母さんが生きる世界には変化せず、僕とお母さんが生きる世界は分岐して別の世界、つまりパラレルワールドに存在しているってこと?」
大吾は目を見開いた。
「うん。まさに!」
「待って大吾! それじゃあ、翔はもう翔ママと一緒に暮らすことが未来永劫叶わないってことじゃない!」
大吾はギョッとして息を呑んでいた。
そう。美織の言う通り、もしそれが真実なら自分は琴音と生きる世界はもう望めない。ずっと思い描いていた願いは断たれることになる。
「でも、別の世界の翔は母ちゃんと一緒に生きていけるんだし、今翔がやり取りしている過去の母ちゃんは幸せな人生を歩めるだろ」
「今ここにいる翔を幸せにできないと意味ないじゃない。私たちの友達は別の世界の翔じゃなくて、今ここにいる翔でしょ!」
「んなこと言っても、他になんか考えあるのかよ!」
「二人ともそんな熱くならないでよ」
翔は二人を制した。彼らは決まりが悪いように押し黙った。
「僕、それでも良いかも」
「……翔?」美織が要領を得ない様子で眉根を寄せる。
「お母さんが別の世界の僕と一緒に暮らせて幸せなら、それで良いかも」
「本気で言っているの?」美織は身を乗り出して訊いた。
「もちろん、本音を言えば、この世界の僕だってお母さんと一緒にいたい。でもそれ以上にお母さんには幸せになってほしいんだ。お母さんがこれから先生きていく未来が一つもないくらいなら、別の世界で元気に生きてくれることを僕は願う」
「翔……」
「でもね、多分それは真実じゃない。大吾の言うパラレルワールドでは説明がつかないことがあるんだ。うちのリビングにある写真がさ、両親だけの写真から僕と両親が写っている写真に変わったんだ。ってことはさ、この世界でもお母さんは僕を産んですぐには亡くならなかったってことになる。ってことは世界は分岐していないってこと……だよね? それなのに、お母さんが現れない。だからわからないんだ……」
「そうなの?」美織が訊く。
「うん」
「そうか……じゃあその仮説はなしだな……」
そう言うと大吾と美織は下を向いて黙り込んでしまった。
翔は一旦場を和ませようと無理やり笑顔を作った。
「あ、そうだ。ちょっと気分転換にこの間大吾がプレゼントしてくれたサッカーゲームでもやる? あれすっごく面白くて──」
翔は途中で言葉を止めた。大吾と美織が何かを言いたそうにしているように見えたからだ。
「どうしたの、二人とも?」
数秒後、沈黙を破ったのは大吾だった。
「美織、本当にアレを言うのか?」
「言う。そうでないとこの話は前に進まないでしょ」
「ちょっと二人とも一体何の話?」翔は釈然としなかった。彼らが一体何の話をしているのかわからなかった。
美織は意を決したかのように真剣な眼差しを翔に向けた。
「よく聞いて、翔。大吾と昨日話をしたことがあって、ここをはっきりさせないと前に進めないと思ったの。翔にとっては辛いことかもしないけど、聞いてほしい」
翔は黙って頷き、ごくんと唾を飲み込んだ。あたりの空気がピリつき張り詰めているように感じた。翔は美織の言葉に耳を傾けた。
「これは私の仮説。もちろん想像の範疇でしかないけど、一つだけ確かなことはある。それはね、翔ママは八月三十一日に亡くなっていないということ。以前の過去では翔ママは八月三十一日に亡くなっている。でも翔の誕生日が九月ニ日に変わったってことは、そこと連動して翔ママの亡くなった日は八月三十一日ではないってことは確実だよね?」
翔は頷きながら聞く。この時点ではまだ美織が何を言いたいのかよくわからなかった。そこは周知の事実であって、だからこそ、なぜ琴音はこの世界にいないのかということになったのではないか。
そう考えた時、美織が何を言おうとしているのか翔の脳裏にある考えがよぎった。その瞬間、翔の額に汗がにじみ出た。
その先の言葉を聞くのが怖くなった。
その考えは翔が一番考えたくないものだった。もちろんこれまでそれが一切頭をよぎらなかったわけではない。だが、そうであってほしくないという翔の深層心理が無意識のうちにその考えを彼の頭から除外して、極力考えないようにしていたのかもしれない。
聞きたくない。他の可能性だけを考えたい。そんな思いが翔の中で渦巻く。だが一方で美織が言う通り、それをはっきりさせないと前には進めないのは間違いないと思った。
逃げてはいけない──。
美織は唾を飲み込む仕草をした。
「翔ママは……事故に遭ったのかもしれない。もしくは……実が病気が治っていなくて、別の日に亡くなった。だからこの世界に現れないのかもしれない。この考えが合っているのか、それとも間違っているのか、そこをはっきりさせないと、私たちはこれ以上前に進めないと思う。違う?」
翔は美織の家を出てから、全力でがむしゃらに走った。息を切らしながら、自宅を目指した。翔の家と美織の家は走れば五分ほどで着く。翔は走りながら先ほどの美織の言葉を反芻した。
翔は美織の言葉を受けてすぐに反応できなかった。それだけ受けた衝撃が強かった。それでもなんとか彼は言葉を紡いだ。
「はっきりさせるって、一体どうやって……?」翔の声はか細かった。力なく、なんとか声帯を震わせることしか出来なかった。美織は言った。
「翔パパに聞くの。翔パパならすべて知っているはずでしょ?」
これまで真実を知ることの恐怖から涼太に母のことを聞くことができなかった。けれども、やはり最後は訊くしかないのだ。真実を受け止めないと、もうこれ以上前には進めないのだから。
翔は美織の考えが真実ではないことを必死に願った。
せめて……せめて事故であってくれと思う。もし事故だったら、それを未然に防げば、また未来は変わるかもしれない。だがもし病気の再発なら……自分の力じゃ防げない。今までみたく頑張れって言うしかない。そんなの何もできないと一緒だ。
翔は奥歯をギリリと噛み締めた。
そもそも病気は……がんは治ったはずじゃないのか、お母さんは検査の結果、転移していなかったと言っていたはずなのに──。
翔の中で納得のいかない思いがどんどん膨れ上がっていく。
翔は走りながら、先月のエリーの言葉を思い出していた。
『翔さん、本当はもうわかっているのではないですか? 真実に蓋をして、ありもしない虚妄にがむしゃらに手を伸ばしたって何も掴めず空を切るだけ──』
違う! 違う! 違う! 翔は脳内でエリーの言葉を否定する。
これが真実であるはずがない。
もうわかっていた? 認めないないだけ? うるさい!
翔はかぶりを振った。彼の本能はエリーを言葉を強く否定する。
一方で翔は第三者のように今の決して冷静とはいえない自分自身を俯瞰で眺めることも出来ていた。俯瞰で見ている翔は思う。美織が示す可能性があることくらい最初からわかっていたと。
だが、認めるわけにはいかなかった。それが真実だとわかってしまえばすべてが終わってしまう。一縷の望みも希望も何もかも失ってしまう。
翔はマンションの近くまで来た。
するとその時、視界の端で何かが動いたような気がして、翔は目線を向けた。だが、そこには誰もいなかった。人影が見えた気がしたのだが……。
翔はかぶりを振ると、また歩みを進めた。こんなこと気にしている場合じゃないと自分に言い聞かせる。
翔はマンションの前にたどり着いた。マンションのオートロックに鍵を近づける。そこで初めて気づいた。自分が恐ろしいほどに震えていたことを。翔は震える手を懸命に抑えて、マンションの玄関を開けた。
家の玄関を開けると、涼太はどこにもいなかった。買い物に出かけているのだろうか。翔はリビングに飾られている写真に目をやる。笑顔の琴音がこちらを見て微笑んでいるようだった。
ねぇお母さん? どうして現れてくれないの? お母さんは今どこにいるの? 教えてよ。ねぇお願いだから……お母さん──。
その時、翔はふとリビングの壁に飾られたカレンダーが視界に入った。なんてことない普通のありふれたカレンダー。毎日のように目にしているものだ。カレンダーは十月のページを示していた。涼太が書き込んだであろう色々な予定が書かれていた。
その時、翔は何かに導かれるようにカレンダーの前に立った。そこに自分の意志の介在を感じなかった。心の中でやめろと叫ぶ。それは誰に対して言っているのか、翔はすぐにはわからなかった。
翔は意志が宿っていない手でカレンダーをめくった。そしてそれを見た瞬間、翔は自身の心臓が何者かに掴まれたような衝撃を受けた。と同時に彼はその場に倒れ込んだ。全身から一気に血の気が引いていくのがわかった。
十一月のカレンダーには十一月十五日に青いペンで文字が書き込まれていた。
そこに『琴音の命日』と書かれていた。
折原 琴音
ニ〇一三年十月
「冗談でしょ……? 平木先生……」涼太の声は震えていた。その声には怒りすら滲みでいていた。
琴音は現実味がないまま診察室の椅子にもたれていた。頭の中が真っ白で何も考えられなかった。いや、考えたくなかったのかもしれない。眼前には沈痛な面持ちで座る平木医師、その後ろには史也と奈央がいた。史也は顔を上げれずにいた。奈央は顔をくしゃくしゃにして涙を流している。
時は少し遡る。今朝のことだった。何気ない、いつも通りの朝。
琴音は涼太のために朝食の用意をしていた。涼太はまだ病み上がりの琴音を気遣って自分が朝食を作ると言ってくれていたが、これもリハビリのうち、いつまでも病人扱いしないでと極力家事は自分の力で頑張ろうと思っていた。それに来月はこの家に翔も来るのだ。母親として恥じないように生きたいと感じていた。
キッチンで包丁を持ち、リンゴの皮を剥いていると、若干胸の辺りがチクッとするような感覚があった。痛いとまでいかないような僅かな違和感だったため、気に留めないようにした。だが、次の瞬間、これまでに感じたことがないような激しい痛みが琴音を襲った。視界もグラつく、呼吸もうまく出来ない、涼太を呼びたいのに声がうまく出ない。
琴音はその場に倒れ込んだ。バタンとリビングに音が響く。
「琴音⁉︎ どうしたんだ⁉︎ おい!」涼太の声が聞こえる。
だが、その声も徐々に音量のボリュームを絞られていくみたいに小さくなっていく。意識も薄れていくのを感じた。涼太が抱きかかえてくれている、その感触、温もりすらも薄らいでいく。視界もどんどん狭まっていった。琴音は発せられない言葉を心の中で呟いた。
助けて、涼ちゃん──。助けて、翔──。
ぼんやりと白い景色が視界に映し出される。ゆっくりと瞼を開くと自宅ではない、だが見慣れた真っ白な天井が見えた。掠れて見えていた視界は徐々にクリアになっていく。すると視界の端には四人の人が映った。涼太、奈央、史也、、そして平木先生だった。
「琴音、大丈夫か⁉︎」
涼太の声が聞こえる。ぎゅっと抱きしめられる感触を感じる。温かいと思った。そして、またここに戻ってきてしまったとも思った。もう二度と訪れることはないと思っていたこの場所にこんなにも早く戻ってきてしまうなんて──。
目を覚ますと、すぐにCT検査を行った。放射線を用いるため妊娠中は出来なかった検査だ。検査結果は数時間後に出るということで琴音は涼太と共に病室で待った。
その間、会話はあまりなかった。少なくとも琴音にそんな余裕はなかった。これから下される決断をあれこれと想像し、そんなわけないと否定する、それの繰り返し。
だって、先月言われたではないか、がんの転移はなかったって──。
検査結果が出たと史也が病室まで告げにきた。琴音は史也の表情を見ないようにした。彼の表情一つで自分の運命がわかってしまうような気がしたから。
診察室では、平木医師と奈央がいた。琴音は二人の顔を見てしまった。そして悟ってしまう。自分の身に良くないことが起きていることを。
平木医師はレントゲン写真を琴音に見せて、こう告げた。
「がんが肺と肝臓に転移していました」
涼太の言葉に平木医師は苦悶の表情を見せた。いつも明るく琴音を元気づけてくれた面影を一切感じないほどだった。
「がんは転移してなかったって言ってましたよね? どうして今になって肺と肝臓に転移するなんてことになるんですか?」
涼太は口元を歪めていた。体は震えている。なんとか冷静を保とうとしているように見えた。
「申し訳ございませんでした!」
平木医師は深く首を垂れた。琴音はその姿に面食らってしまう。
「摘出した子宮の病理検査の結果では確かに、がんの転移は見られませんでした。ですが、この病理検査では骨盤内の局所部分の状況しかわかりません。普通はがんの転移は局所部分から徐々に広がっていくものです、ただ稀にがん細胞がリンパ液や血流の流れに乗って、別の臓器に移動しそこで増殖することがあります。それを遠隔転移と言います。琴音さんは遠隔転移してしまったんです」
遠隔転移……。琴音も看護師として病院で働く身として、もちろん知っている言葉だった。だが、確率は低いとも聞いていた。それがまさか自分の身に及ぶなんて考えてもいなかった。
「それは防げなかったんですか……?」涼太が言う。そして続ける。
「もっと早く全身を調べていたら、すぐに肺がんとか肝臓がんの治療も出来ていたんじゃないんですか⁉︎」
「それは無理なの、涼太君」奈央が言う。
「どうしてだよ、奈央ちゃん」
「CT検査やMRI検査は強い放射線が出る。妊娠中の琴音にはそれは出来なかった。リスク承知でやる患者さんもいるけど、琴音がそれを認めると思う?」
涼太は拳をぎゅっと握りしめていた。彼の中に潜む怒りをどこにぶつけて良いのかわからないようだった。
「……すよね?」
「え……」平木医師は訊き直した。
「琴音は治るんですよね? 子宮頸がんだって平木先生は治してくれたじゃないですか? 肺がんや肝臓がんだって平木先生の力があれば治るんですよね?」
涼太のその声には懇願の色も帯びていた。
平木医師は即答できずに唇を噛んでいた。
「なんとか言ってくださいよ、先生!」
涼太は叫んだ。こんなにも感情を露わにする彼を琴音は初めて見た。
「がんは、すでにかなり増殖しています。骨やリンパも危ない。もちろん最善を尽くさせていただきますが、正直に言います。琴音さんの生存確率は僕の経験上、五パーセントあるかどうかです」
「そんな……」涼太は項垂れてその場に倒れ込んだ。
琴音自身、平木医師のその言葉は彼女の胸を大きく抉った。平木医師はこれまでどんな困難な状況でも諦めてはいけないと言い続けてくれた人だ。その人が言うこの言葉はどの医師が言う言葉よりも重たかった。
平木医師は琴音の目を見ながら言った。
「琴音さん、決断してください。僅かな可能性にかけて辛い治療を継続するのか、それとも残りの人生を少しでも楽しむため、終末医療に進むのかを」
琴音は病室から外の景色を眺めていた。道を行き交う人々を見て羨望や嫉妬などいろんな感情が芽生えた。健康に何も不自由なく生きている人たちが羨まして仕方がなかった。
涼太は琴音の着替えを取りに一旦家に戻っていった。彼は終始抜け殻のようでまるで正気を感じなかった。琴音はかつて友也を亡くした時の涼太の姿と重ねた。あの当時と同じような目をしているように見えたのだ。
そんなことを考えていると病室の扉が開いた。奈央だった。よく見ると目元が赤らんでいた。今回のことでたくさん泣かせてしまったのだと思うと申し訳ない気持ちになる。奈央は引き攣ったような笑みを浮かべた。
琴音のいる病室はさゆりや里奈と一緒に過ごした供用の病室ではなく、一番最初にこの病院に入院した時にいた時と同じ個室の病室であった。奈央が手配してくれたのだ。
奈央は琴音のいるベッドに腰を下ろした。
「琴音は強いね」
「え?」
「こんなに辛い状況なのにまだがんと戦う道を選べるなんてさ、私なら諦めちゃいそうで」
琴音は奈央の目を見た。枯れ切った目がまた潤みを帯びている。
「私、琴音には生きてほしいって思っているよ? ずっと生きていてほしいし、ずっと涼太君や翔君や私のそばにいてほしいって。でもそれ以上にこれ以上琴音が苦しむところを見たくないの。代われるものなら代わりたい。どうして琴音ばっかりなの。この世には死んだ方が良い人達が溢れているのに、どうして琴音ばっかり苦しめるの……」
琴音は奈央の手をそっと握った。
琴音は平木医師が示した選択に対し即答していた。「治療を続けます」と。
「私も本当は逃げ出したくらい怖いよ。なんで私ばっかりとか、後ろ向きなことばっかり考える。でもそんな時でも翔の顔を見る度に、母として強くありたいと思う自分に戻れるの。例え死んでしまうのだとしても、翔の母親としてこの命の火が消えてしまうその瞬間まで恥じないように生きたい。生き様で後悔したくないの。翔と約束したから、共に生きる未来を諦めないって」
奈央は流れる涙を腕で拭って、笑顔を見せた。
「琴音がこんなにも強い決意を持っているのに、私がこんなくよくよしてちゃだめだね
! 琴音が諦めないなら私も諦めないよ」
「うん」琴音は奈央を抱擁した。
「奈央がいてくれて本当によかった。ありがとう」
また明日からがんの治療が始まる。妊娠中には出来なかった放射線治療を中心に行う治療だ。一人きり孤独だったならきっと耐えられなかっただろうなと琴音は思った。だが、自分は一人じゃない。色んな人に支えられている。だからこそきっと頑張れる。
翔との未来を諦めてなるもんか。未来は自分で掴み取るんだ──。
奈央が病室を出てから、琴音は自身のカバンの中が光っていることに気づいた。瞬間、翔からのメッセージだと分かった。琴音は『時を越えるノート』を取り出した。
琴音は普段ノートを愛用のカバンに入れていた。彼女が家で倒れた時、涼太が琴音のカバンも一緒に病院に持ってきてくれたから、そのおかげでこの病室でもノート使える。
琴音は翔にまたがんが再発してしまったことを告げた。隠し通すことも考えたが、それでは翔との未来なんて訪れてくれないと思った。全てを打ち明けた上で病気に打ち勝つ。そうでないと意味がないと思ったのだ。
さらに琴音は翔にとある質問をしていた。それはまさに核心に迫るものであった。
『ねぇ翔? 私本当に未来にいる? 翔の隣で笑って過ごしてる?』
がんを再発した時、琴音は本当に未来に自分がいるのか、翔が嘘をついていたんじゃないかというその不安感、猜疑心から彼にこの質問をぶつけてしまっていた。それだけ琴音の心は揺らいでいた。
だが今は病室で自分の心としっかり対話し、自分がどうしたいかがはっきりと分かった。翔が嘘を付いていたとしてもその理由はよくわかるし、きっと自分が翔の立場でも同じことをするだろう。
だから翔からどんな回答が来ようと迷いはなかった。例え自分が未来にいなくとも、決して諦めない。未来を変えるつもりで治療を続ける。その考えはもう揺らがない自信があった。
琴音はノートを開いた。
『お母さんは変わらず未来で元気に過ごしているよ。がんの再発だって治せたんだ。だからお母さんの病気は絶対に治る。絶対に大丈夫。お母さんには僕がついているから。だから安心して』
琴音は翔の文字を見た。よく見ると文字が所々で滲んでいる。まるで雨にあたりながら書いたように、もしくは涙を流しながら書いたように──。
琴音はうっすらと笑みを浮かべた。
嘘が下手なのはお父さん譲りなのかな? 翔──。
琴音が窓の外を眺めた。翔の嘘を真実に変える。それが出来るのは自分だけだ、そう思った。
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