第17話
折原 翔
二〇二四年九月
時刻はすでに夕方の五時半を回っていた。夕暮れの空に、サッカーボールを蹴る音が木霊する。翔はゴール前にいる大吾の足元に鋭いパスを入れた。
「よし!」大吾は振り向きざまにシュートを放とうと試みたが、和人の巧みな守備対応によって、ボールをロストする。
「甘いぞ、大吾!」和人は口元に笑みを浮かべながら叫ぶ。
「くっそ!」
和人に弾かれたボールは転々とゴールに遠ざかるように転がっていく。
「よし、セカンドボール拾え!」和人の声が響く。翔はチャンスと見るやそのボール目掛けて後方から全速力で走った。そしてその勢いのまま相手ゴール目掛けてロングシュートを放つ。勢いよく放たれたボールはそのままゴール右隅に吸い込まれていく。
だが、次の瞬間、夏樹の伸ばした右手が翔の蹴ったボールに届き、ゴール後方までボールをはじき出した。それと同時にピ、ピッピーとホイッスルが鳴った。紅白戦が終わる合図だ。
「よしッ集合! 今日はこれで終了だ!」永森先生が鳴らすホイッスル音と号令を受けて、選手たちはぞろぞろと彼の元に集まっていく。
翔は夏樹と肩を並べて歩いていた。
「夏樹君、さすがですね。絶対決めたと思ったのに」
「僕もまだまだ負けてられないからね。翔や大吾が点数決めても僕が点決められちゃったら勝てる試合も勝てなくなっちゃうからし」
「うちのチームの守備は和人君と夏樹君のおかげで県内随一ですよ」
土浦ユナイテッドFCは地区予選でゴールを量産しているためか、大吾や翔達といった攻撃陣が特に目立つ存在となっていた。だが、地区予選は計七試合を行っており、失点はPKで取られた一点のみだった。これは同県内の他の地区予選では類を見ない結果であり、翔が言う通り県内随一の守備力だと言えた。
「来週からはついにこのチームで初めての県大会だ。緊張すると思うが、お前らがいつも通りの力を出せれば、全国大会出場どころか、全国優勝だって夢じゃないと思っている。全員一丸となって頑張るぞ!」
永森先生の鼓舞でチームの士気はまた一段と高まった。
いつもながら永森先生の言葉には上辺ではない熱い魂のようなものが乗っかっていて、選手たちの心にグッと浸透していくような不思議な力があると翔は思った。
地区予選は八チームごと、七つのグループに振り分けられた上でのリーグ戦方式のため、仮に負けても七試合はどのチームも必ずあったが、県大会はトーナメント方式のため、負ければその時点で大会は終わってしまう。普通ならばこれまでとは受けるプレッシャーが段違いとなることだろう。
それでも翔はさほどプレッシャーは感じていなかった。このチームが負ける姿を全く想像できなかった。
スパイクを脱いで帰り支度を済ませた翔は、大吾と和人と夏樹の三人と一緒に通学路にある亀城公園の中を歩いた。夕陽が園内にある川面に反射し、オレンジ色に広がる世界はとても幻想的で翔はこの景色が昔から好きだった。隣では和人と大吾がふざけて夏樹を困らせている。このいつもの情景が翔の心を穏やかにしてくれる。
翔はここ数日間、心に落ち着きがなかった。数日前に『時を越えるノート』で琴音から明日の九月五日が帝王切開の予定日だと聞いていたからだ。
喜ばしいことに、翔は琴音のがんの状態はそこまで悪化していないと彼女から聞いていた。だが、実際に詳しい検査にかけてみないと他の臓器への転移状況は詳細までわからないようだし、なにより、琴音と交換ノートをする以前の過去では彼女は自分を産み落とした数時間後に亡くなっているのだ。
もちろん翔は琴音と共に生き続ける未来を一番に信じているが、信じることと不安がなくなることは決して比例しない。翔は琴音からのメッセージを早く確認したいがために、ここ数日は毎日外出時にはノートをリュック入れて肌身離さず持っていた。
翔は夕日を眺めながら少し物思いにふけっていた。ついにここまで来たんだと思った。
一年前に『時を越えるノート』を使い始めてから、今日に至るまで翔は琴音と共に生きる未来を手に入れるため、琴音が亡くなってしまう過去をなんとか変えようと必死だった。
それに応えるように琴音は子宮頸がんという命に関わる重い病気を患いながら、必死に辛いがん治療に着手してくれた。そのおかげもあって、ようやく出産というずっと待ち望んだ時を迎えようとしている。琴音と翔の運命が決まる日が数日後に迫っているのだ。
だが、翔には一抹の不安があった。昨日から琴音のメッセージが途絶えているのだ。もちろんこれまでもメッセージが一日途絶えることはあったし、自分自身も一日、二日空けて返事をしたことはあった。けれど、出産を控えている今の時期に返事が途絶えるとどうしても不安が募ってしまう。
そんなことを考えながら歩いていると、横から夏樹が声をかけてきた。
「そういえば翔。これ、僕と和人から」
夏樹が翔に何かを差し出した。翔はそれを両手で受け取った。
「あ、ありがとうございます。これなんですか?」
差し出されたものは少し大き目な紙袋だった。
「何って勘が悪い奴だなぁ。翔、今日九月二日はお前の誕生日だろ? だからこれは俺たちからのプレゼントだよ」
「え⁉」和人の言葉に翔は当惑した。少しだけ間を置いた後、口を開いた。
「あの、ありがとうございます。でも僕の誕生日は八月三十一日ですよ?」
「え? おいおい、嘘だろ?」和人はギョッとして夏樹を見る。夏樹も驚いているようだった。
「ご、ごめん、間違えちゃったかな? でも僕ら大吾から翔の誕生日聞いていたんだけどな……」三人は大吾の顔を見た。
「え、何言ってるんですか? 翔の誕生日は八月三十一日ってちゃんと言いましたよ」大吾も合点がいかない様子だった。
「いや、でもよ、流石に俺たち二人ともがそんな勘違いするか普通?」
和人は眉根を寄せた。
「まぁ大吾がそう言うってことは僕達の勘違いってことだよ。きっと疲れてたんじゃない?」夏樹はその場を収めようとしてくれていた。だが、おそらく彼も判然としていないように思えた。
「すいません。でもプレゼントありがとうございます。今ここで開けても良いですか?」
「もちろんッ。開けてみ」和人が笑顔に言う。
紙袋の中にはさらに包装された代物があった。触ると布状の柔らかいもののようだと感じた。彼はそれを手に取り、包装を解くと、そこには翔が好きなイングランドのサッカーチームである『マンチェスター・シティ』の水色のユニフォームが入っていた。翔はすぐに目を輝かせた。
「翔、マンテェスター・シティ好きだったよね? だから喜んでくれるかなぁと思って」夏樹は少し照れながら頬を掻いた。
「本当に嬉しいです! ありがとうございます。大切にします」
翔はもらったプレゼントをぎゅっと抱きしめながら言った。プレゼントの中身ももちろん最高に嬉しいものだったが、何よりも夏樹と和人が自分のためにプレゼントを用意してくれたことに喜びを感じていた。
亀城公園を出たところで、翔と大吾は和人と夏樹の二人と別れた。彼らの家は翔たちとはここから逆方向だからだ。翔は彼らが見えなくなったところで大吾に訊いた。
「一体どういうことだろう」翔は顎に手を添えた。
「俺だってわからないよ。でも確かに和人君と夏樹君には翔の誕生日を伝えたことがある。でもちゃんと八月三十一日って言ったはずなんだよなぁ。それを二人とも九月二日って勘違いするってこと、確かに和人君が言う通り、にわかには信じがたいよな」
翔と大吾は帰り道であぁだこうだと推測を交えて議論を交わしたが、お互い明確な答えは見出せなかった。
「そういえば、今日翔の父ちゃん帰ってくるんだっけ?」
「あぁそうだよ」
「お前すごいよな。その間、ずっと一人で自炊していたんだろ? 俺には無理」
「そうかな? 慣れだと思うけど。父子家庭だし、僕も元々料理するしね」
大吾の言うとおり涼太は今日、北海道出張から帰ってくる予定だった。八月三十日の夜に彼は荷物をまとめながらこう言った。
「明日誕生日だって言うのに、ごめんな。帰ってきてからお祝いしような」
そう言って涼太は家を出た。そのため、ここ数日間は翔は一人で炊事、洗濯など一通りの家事をこなしていた。ただ、普段から家事は涼太と分担してやっているためそこまで苦ではなかった。
翔は大吾と別れ、自宅のマンション前に着いた。見上げると翔の家の明かりは付いていなかった。まだ涼太は帰ってきてないのかと、彼は軽くため息をこぼす。
翔がいつも通りに自宅の玄関ドアを開けるや否や、その瞬間、パッと明かりが灯り、物凄い大きな破裂音が響き、ほんのり火薬の匂いが鼻を掠めた。
「翔! 誕生日おめでとう‼︎」
翔は思わず目を瞬いた。キョトンとした様子でその場に立ち尽くした。目の前にはクラッカー片手にドンキホーテに売っていそうなド派手なメガネとド派手な三角帽子を被った涼太の姿があった。
「およ? なんだかリアクションが薄いな翔。驚き過ぎたか?」
涼太はニヤニヤしながら訊いてきた。
「もう心臓に悪いからやめてよー」
翔はそう言いながら顔を綻ばせた。涼太はきっと翔の誕生日当日を一緒に過ごせなかったから少しでも喜ばせたいと思ってくれのだろう。翔はその涼太の気持ちが嬉しかった。
「今日は翔の十一歳の誕生日だから、盛大にお祝いしないとな! 土浦に戻ってくる日がギリギリ翔の誕生日と同じ日で助かったよ」
「え……」翔は一瞬涼太の言葉を理解できなかった。
「ちょっとお父さん、何言っているの? 僕の誕生日八月三十一日だよ。忘れちゃったの?」
「は? 何言ってんだ翔? 夢でも見たんじゃないか? そんな訳ないだろう」
涼太の目はいたって真剣だった。嘘や冗談を言っているようには思えなかった。
翔は当惑していた。先ほどの和人と夏樹、二人と父が全く同じ勘違いをしている不思議さ。それともう一つ、さらに不可解なことがあった。
「お父さん、出張前に一緒に誕生日祝えなくてごめんって言ってたじゃないか」
涼太は考えるそぶりをしたが、すぐにかぶりを振る。
「そんなこと、言った覚えないけどなぁ」
翔は眩暈がした。訳がわからなかった。一体この世界に何が起きているのか理解できなかった。
「でも……あ!」翔は玄関で靴を脱ぎ捨て、自分の部屋の中に走って向かう。
先月の八月三十日に、翔は涼太から誕生日プレゼントとして、今若者に人気で絶賛連載中のサッカー漫画二十巻分を買ってもらっていた。誕生日当日一緒に入れないからと先に涼太からもらっていたのだ。翔はずっと欲しいと言っていた漫画だったので、飛び上がって喜んだ。
それを涼太に見せようとした。翔は封は開けていたものの、未だその漫画を読んでいなかった。涼太が戻ってきてから一緒に読みたいと思っていて、大事にクローゼットの中に閉まっておいたのだ。
だが、その漫画たちはクローゼットの中になく、部屋のどこにも置いていなかった。
どうして──。
「どうした? 突然走り出して。大丈夫か?」
涼太が部屋に入って心配そうに言う。
「お父さんが出張前に誕生日プレゼントとして買ってくれた漫画が全部見当たらなくて……」
「え、漫画⁉︎」涼太が驚いたように言う。涼太はリビングに戻って少しして翔の部屋に戻ってきた。翔は目を疑った。涼太が運んできたものは、まだ封が切られていない翔が先日買ってもらったサッカー漫画だった。
「驚いたな。どうしてお父さんがプレゼントしようとしたものわかったんだ? ていうか見ての通り、まだこれ翔に一度も渡していないもんだぞ」
翔は頭痛がして、少し世界が歪んでいるように見えた。次の瞬間、プツンと目の前が暗闇に包まれた。
──あれ? ここ……は?
翔はゆっくりと瞼を開く。蛍光灯の灯りでうまく眼を開けられない。明順応するのを待ってから、翔は起き上がった。頭がひんやりする。枕が氷枕になっているからだった。部屋のベッドで眠ってしまっていたのだろうか。
いや、違う──。
翔は記憶を遡る。自分は突然意識が朦朧となり、倒れてしまったのだ。おそらく涼太がベッドに寝かせてくれたのだろう。
すると部屋のドアがコンコンと鳴り、ドアの隙間から涼太が顔を出した。
「大丈夫か翔? 突然倒れたからびっくりしたぞ。もう少し目を覚さないようだったら救急車呼ぼうかと思ったくらいだ。具合はどうだ? 何か食べたいものあるか?」
「いや、大丈夫……」
「そうか。辛くなったらすぐ呼ぶんだぞ。今雑炊作ったから、食べたくなったらおいで。食欲あるなら翔が好きなグラタンやハンバーグも作ってあるからな。誕生日だしな。まぁ無理はするなよ」
そう言うと涼太はドアを閉じてリビングに戻った。
翔はスマホの画面を見た。時刻は午後七時半。眠っていたのは一時間くらいか。翔はもう一度今日起きた不可解な出来事を整理してみることにした。
まず、先月の八月三十一日は間違いなく翔の誕生日であった。涼太も大吾も美織もお祝いしてくれたし、プレゼントだってもらった。にも拘わらず、今日和人と夏樹が翔の誕生日を九月二日と誤認していた。
大吾から聞いたと二人とも言っていたが、大吾にはその記憶はなく、八月三十一日と伝えたのだと言った。大吾はおかしな嘘をつく奴ではない。恐らく本当のことだろう。
そして極めつけは涼太だ。彼もまた翔の誕生日を九月二日と誤認していた。実の父親がだ。和人や夏樹と違い、息子の誕生日を勘違いするはずはない。間違っているという認識は一切ないのだろう。
出張前に一緒に誕生日を祝えなくてごめんと言った記憶も無くなっていたのも不可解極まりない。
プレゼントだって八月三十日に開封したはずのサッカー漫画がクローゼットからいつの間にか無くなっていて、それを涼太が未開封のまま持っていて、また今日プレゼントされた。
次の瞬間、翔はハッとして目を見開くと、勢いよく顔を上げた。そしてクローゼットの中を開けて、ある物を探し出した。だが、翔の探し求めるものは無く、その後部屋中を探し回っても目当ての品はどこにもなかった。
翔が探していたのは先月の自分の誕生日に大吾と美織からもらった誕生日プレゼントだった。大吾からはサッカーゲームを、美織からはカッコ良いパーカーをもらっていた。どちらも開封するのが勿体無くて大切にクローゼットの中に入れておいたはずなのになくなっている。
翔の額から汗が噴き出してくる。一体何が起きているのだろうか──。
その時、翔のスマホが鳴った。大吾と美織と翔の三人が入っているグループLINEで美織からのメッセージだった。
『ねぇ! 翔に先月あげた服が包装されたまま、うちに置いてあるんだけど……これどういうこと? まさか翔がうちに戻したとかじゃないよね?』
次に大吾からも同じグループLINE内で連絡が入る。
『美織も⁉ 俺の家にも先月翔にあげたサッカーゲームが置いてあるぞ。一体何がどうなっているんだ? 今日の和人君と夏樹君といいなんかおかしいぞ』
翔は二人のLINEメッセージを見て、ひどく狼狽した。ろうたの誕生日プレゼントと同じ事象が大吾と美織のプレゼントでも起きている。
一体なぜ……。全くもって理解が追いつかなかった。
翔が頭を抱えていたその時、半開きのなっていた翔のリュックから淡い光が漏れだした。翔はぼんやりとその光を眺めていたが、すぐ我にかえり、急いでリュックを開いて中を覗き見た。
翔の想像通り、光の正体はリュックに入れていた『時を越えるノート』だった。
翔は少し呼吸を整えてからノートを開いた。
『翔。昨日は返事できなくてごめんね。実はちょっと体調が悪くなって、急遽九月五日に予定していた帝王切開日を九月ニ日の今日にずらしてもらったんだ。でね、さっき帝王切開による出産と子宮の全摘出手術終わったの。翔、あなたが生まれたよ。まだまだ小さくて今はNICUっていう未熟児の集中治療室にいるからまだ一緒にはいられていないんだけど、無事に何の障害もなく生まれたよ。すごく嬉しくて、安心して、可愛くて、愛おしくてずっと涙が止まらなかった。そして、私も生きてる。ちゃんと生きてる。以前の過去だったら私は出産してから一度も目を覚まさずに亡くなったって話だったけど、私、生きてるよ。翔にとっての過去を変えれたよ。翔がずっと私を励まし続けてくれたおかげ。本当にありがとう。それとね、この前、翔から素敵な写真を送ってくれたでしょ? だから私も一枚送らせてもらうね』
「写真……」翔はぼそっと呟いた。
するとノートの隙間から何かがひらひらと落ちてきた。翔はその何かを拾い上げた。写真だった。翔は写真を見た。
すぐ翔の目に飛び込んできたのは、入院着を着た女性とナース服を着た女性、そして若き日の涼太だった。三人は満面の笑みを浮かべながらこちらを見ていた。涼太は十一年前の姿だから今よりも若々しく写っていたが、見間違えようがないほど面影が残っている。
女性二人も翔は誰なのかすぐにわかった。
入院着を着た女性は間違いなく琴音だった。翔の家のリビングには生前の琴音と当時の涼太が二人で肩を並べて写っている写真がある。翔が生まれた頃から飾ってある写真だ。だからこそ一目瞭然だった。見間違いようがない。
もう一人の女性は琴音の親友の奈央だと思った。何度か琴音の墓参りや昨年では涼太の親友である友也のお墓参りについて行った時に会ったことがあったため、すぐに気付くことができた。
翔は次に写真の右側に目を向けた。そこにはクリアガラスで覆われている保育器が置いてあり、その中には見るからに小さい赤ん坊がオムツのみを履いた姿で、懸命に泣き声を上げているように顔をクシャクシャにしていた。
気付くと翔が持っていた写真にぽたぽたと雫が落ちてきた。翔はそれが自分の目から零れたものだと気づくのに少し時間がかかった。いくら拭っても涙は止まる気配がない。
翔の家には翔と琴音が一緒に写ってる写真は一枚もなかった。それは琴音が翔を産んでから一度も目を覚ますことなく亡くなってしまったからに他ならない。一緒の写真を撮る間もなく琴音は亡くなってしまったのだ。
「僕……お母さんと一緒に写っている。何の気も知らないで、お母さんの隣で泣いてるよ」翔は声を震わせた。
ずっとこの日を夢見ていた。お母さんと一緒に生きる未来を。共に生きる世界を。ずっとずっと待ち望んでいた。絶対に叶いっこないってわかっていたのに、ずっと心にはその想いが根を張って離れてはくれなかった。
だが、エリーから授かったこの『時を越えるノート』は、その不可能を可能にしてくれた。出来ることならエリーにもう一度会いたいと思った。直接面と向かってお礼を言いたかった。エリーが何者でどういう存在で何が目的なのか、翔にとってはもはやこの際どうでも良かった。誰が何と言おうと彼は自分と琴音の未来を変えてくれた張本人なのだから。
翔はもう一度ノートに書かれている琴音からのメッセージに目を通した。母の言葉をしっかりと嚙み締めようとした。
帝王切開日を九月ニ日の今日にずらしてもらった──。九月ニ日?
翔は次の瞬間、体に電気が駆け巡ったかのように体中が熱くなった。今日起きた不可解な出来事の数々。その理由がわかったかような気がした。無数の点が繋がり一本の線となったような感覚。むしろなぜ気づかなかったのだろうと思った。これは自分が何よりも心待ちにしていた結果だっただろうに。
翔はスマホを手に文字を打ち込んでいった。
『二人とも。今日のおかしな出来事の理由がわかったかもしれない』
翌日、学校給食を食べ終えた翔は、勇み足に教室を出た。そして一回フロアにあるグラウンドと校内を繋ぐテラスに向かった。休み時間にグラウンドで遊ぼうと玄関に向かっていく生徒たちを掻き分けて、テラスにたどり着くと既に大吾と美織がベンチに座って待っていた。
「翔は相変わらず給食を食べるのが遅いな」大吾はニヤニヤしながら言った。
「二人が食べるの早すぎるんだよ」息を切らしながら翔は言う。
「ちょっと女の子に向かって食べるの早いってちょっとデリカシーに欠けるんじゃない?」美織は頬を膨らませた。
ごめんごめんと言いながら、翔もベンチに座った。
「で、すぐ本題で申し訳ないけど、謎がとけたって本当か?」
「うん、多分間違いない」
「LINEでの連絡だと伝えにくい内容ってこと?」美織が訊く。
「うん。ちょっと複雑というか、なんとなく直接伝えたくてさ。普通に考えたら突拍子もない話だから」
翔、大吾、美織はそれぞれクラスが違うため、教室内で伝えることは難しい。そのため翔は昨日、LINEで昼休み、テラスに集まって欲しいと伝えていた。
「もう既に無茶苦茶突拍子もない出来事を体感しちゃってるから、何が来てもさほど驚かねぇさ」
「うん、確かに」美織も同調した。
翔はぎゅっと膝に置く握りこぶしに力を入れた
「単刀直入にいうとさ、今僕たちが生きているこの世界が変わったんだと思う。過去を変えたことによって」
「え、どういうこと?」大吾は眉間に皺を寄せて、首を傾げた。
「……そうか。そういうことか。だったら色々なことに説明がつく」
美織は真剣な表情で頷いた。
「お、おい、二人だけ納得して話勧めるなよ。俺にもわかりやすく教えてくれ」
「ちょっと大吾、理解力無さすぎじゃない?」
「うるせぇな、どうせ俺はバカですよ……」
「ちょっと変なことで喧嘩しないでよ」
翔は二人を諫めた。そして改めて説明をした。
翔の考えでは、元々翔が生まれたのは八月三十一日で間違いはなかった。
だが、その八月三十一日が過ぎ去り、翔が産まれなかったことで、過去に明確な変化を与えた。そして翔の誕生日は実際に産まれた九月ニ日に上書きされ、その通りに未来が塗り変わった、というものだった。
だから和人や夏樹、涼太が翔の誕生日を九月ニ日だと思った、というよりそれが真実の世界になったのだ。この世界では、むしろ誕生日を誤認しているのは翔たちということになる。
涼太と大吾と美織の翔へのプレゼントがそれぞれの手元に戻ったのは、九月ニ日が誕生日のこの世界ではまだ翔にプレゼントを渡しておらず、渡さずに買った状態で家に置いてある未来に切り替わったと説明できる。
「ちょっと待ってくれ。でもそれ変じゃないか?」大吾が翔の話を一度遮った
「変?」
「だって、なんで翔と俺と美織の記憶は塗り替わっていないんだ? 俺たちの記憶では翔の誕生日は八月三十一日のままだぞ?」
「それは僕も最初は疑問に思った。でも、僕らの共通項を考えると、想定し得ることとしたら一つしかないと思う、おそらく──」
「『時を越えるノート』の存在を知っている人、もしくは触れたことがある人は未来の変化に気付かない……そういうこと?」
「え⁉」
「うん。僕もそう思った。確証はないけど……」
「どういうことだ?」
美織は軽くため息を吐いた。
「もうほんとバカなんだから。記憶が塗り変わっていない私たち三人の共通点は何だと思う?」
「仲良し? 小学五年生?」
翔は大吾の奇天烈な回答に目が点になった。
美織は呆れたように頭を抱えながら口を開く。
「あのね……。翔の持っている不思議なノートの存在を知っている。もしくは触ったことがあるのは私たちだけでしょ? 過去を変えることが出来たのはこのノートのおかげなのは明白。だからこのノートに関することで私たちだけの共通項があれば、それが記憶が塗り変わらなかった原因と考えるのが妥当だと思わない? もちろん私も確証はないけどね」
「な……なるほど、なぁ」大吾は視線を泳がせていた。
「大吾、あんたまだ理解出来ていないでしょ」
「心外だな。大体理解出来たよ。三十パーセントくらい」
「すくなッ」美織がツッコむ。
「俺にしては頑張った方だよ。でもさ一つ疑問なんだけど……。この俺たちが生きる世界が変わるのはどういうタイミングなんだろう」
「ん? それってどういうこと?」翔は頭上に疑問符を浮かべた。
「うーんと、つまりさ、過去が具体的にどうなれば未来が変わるのかってことなんだけど……ごめん、言ってる意味わかる? 自分でも言ってて頭こんがらがってきた」
翔は腕を組んで、少し考えてから口を開いた。
「僕の元々の誕生日である八月三十一日が終わって、九月一日に切り替わった時点で僕が八月三十一日に生まれるという出来事が変化することが明白になった……よね? だから、その日にちが切り替わったタイミングで僕らのこの未来に変化が起こったんじゃないかな? まぁあくまで僕の推測だけど」
「そう考えるのが妥当かもね」美織も同調した。
大吾は自分の手のひら同士を合わせて、パチンと音を鳴らした。
「なるほど! なんとなくわかったぜ! 翔お前頭良いな! さすっが!」
大吾は翔の髪の毛を手でくしゃくしゃにした。
「やめてよ、大吾」
「すまんすまん。でもよ、翔。これで未来を変えられるってことがわかったな。お前の望み本当に叶うかもしれないぞ」大吾は胸を躍らせながら言う。
「うん、そうだね」
大吾の言う通り、これで未来を変えられるということははっきりした。琴音が生きる世界に塗り替えることは決して夢物語じゃないことがわかったのだ。
だが、そう思った瞬間、翔はある違和感を感じた。
何かがおかしい、彼の直感がそう叫んだ。
「ちょっと待って翔。翔の推測はおそらく合っているような気はするの。でもさ、だとしたら、おかしなことが一つある」
美織が言う。いつになく真剣な表情だった。
「おかしな……こと?」
「翔ママは死なずに翔を産むことが出来たっていうのに、どうしてこの世界に翔ママはいないままなの? 翔と翔ママが生きる未来は確定したはずじゃないの?」
翔は唖然として体を硬直させた。
「それは……」
思考を巡らすも、説明できる考えは何も浮かばない。
美織の言う通りだと思った。母子ともに無事だったということは、過去は確実に変わっていて、自分と琴音は共に生きる道を歩みだした。それならば、この世界に琴音が登場しないとおかしい。どうして自分の誕生日が変わっただけで琴音はこの世界に現れてくれないのだろうか。未来を変える事が出来たという事実に気を取られて、琴音が現れない違和感に全然気付くことが出来なかった。
翔は目を見開き、勢いよく立ち上がった。
「翔?」美織が言う。
「ごめん早退する。確認しなきゃ」そう言うと翔は走り出した。
「おい、翔!」大吾の声が翔の背中に響く。
翔は学校のニ階にある職員室に入り永森先生のところに向かった。永森先生は他の先生とお弁当を食べながら談笑しているところだった。
「お、翔じゃないか。どうした?」永森先生は快活な声で訊いた。
「ちょっと体調が悪くて、午後の授業と部活休んでも良いですか?」
体調が悪いのは嘘では無かった。美織に突きつけられた現実を聞いてからめまいが止まらない。
「大丈夫か? それは帰った方が良い。来週からは県大会も始まる。翔はもううちのチームに欠かせない選手だからな。ゆっくり体休めろよ」
「ありがとうございます。失礼します」
翔は踵を返して、職員室を出た。
帰り支度をして学校の玄関で外靴に履き替えてから、翔は懸命に走った。国道沿いを走っていると、徐々に灰色を帯びた空模様に変わっていき、ぽつぽつと雨粒が翔の頬に当たる。そしてすぐに激しい雨音を立ててアスファルトの色を濃くしていく。それでも翔はリュックに入っている折り畳み傘を指す時間すらも惜しいと思い、雨に濡れながら走り続けた。
走りながら翔は祈った。
どうか、どうかお願いします。お母さんに、お母さんに会わせてください──。
マンションのエレベーター前にたどり着いた翔は、不穏な心に八つ当たりするようにエレベーターのボタンを乱暴に連打した。いつまで経ってもやってこないエレベーターにイライラが募る。やっと来たエレベーターに乗り込み、すぐに五階で降りて、鍵を使って強引に玄関ドアを開けた。昼間だったので当然、涼太の姿はなく、無人の部屋。
きっと昨日は偶然予定があって母が家にいなかっただけだ、そうに決まっている。
翔はあらゆる部屋の扉、引き出しを開け続けて、琴音の面影を探しまわった。だが、いくら探しても男臭い代物しか出てこない。いつもと変わらぬ父子家庭の家だった。
翔は奥歯を噛み締めて、リビングの壁を思い切り叩いた。そして背負っていたリュックを思い切り床に叩きつけた。その拍子に、リュックのチャックが開き、教科書や筆記用具が乱雑に散らばる。
「なんでだよ!」と翔は大声で叫ぶ。
だが、そこには空虚な余韻が残るだけだった。
琴音はこの世界にいない。翔はそう確信した。
だが、現実を受け止めることを心が拒否しようとする。必死に母が現れない理由を探すが、今の心理状態でまともな答えを出る気がしなかった。自分の誕生日以外、何一つ変わってはいないという現実に翔はただただ打ちひしがれるしかなかった。
わかっていたはずなのだ。琴音が息子の誕生日に家にいないような母親ではないことくらい。
その時、翔の視界の端に一枚の写真たてが映り込んだ。リビングに飾ってある涼太と琴音の若かりし頃のツーショット写真……のはず。だが、翔は妙な違和感を感じた。いつも見ていた写真とどうも様子が違う気がした。
翔は写真たてに近づき、それを手に取った。その瞬間、彼の表情が固まった。
そこに写っている写真は以前まであった両親のツーショット写真ではなく、琴音と涼太が生まれたばかりの翔を抱っこして、入院していた病室で撮ったであろう写真だった。
翔はひどく困惑した。脳内整理が追いつかない。
だが、間違いなく言えることがある。
未来は変わった──。ということだ。
以前の過去では琴音は翔を産み落とした直後に、意識が戻らず亡くなった。そのため、三人揃って笑顔で写っているこのような写真は撮れるわけがないのだ。
けれども、だとしたらなぜこの家にこの写真以外で琴音の息遣いを感じられる物が何一つないのだろうか。この疑問がある以上、素直に喜ぶことは出来ない。翔は頭を抱えた。
その時、翔は何かに導かれるように視線を下に移した。床に散らばった筆記用具や教科書の中に『時を越えるノート』があった。翔はノートを拾い上げると、無意識の内にノートを開いていた。無意識に琴音の言葉を追い求めたのかもしれない。
翔の想いにこたえるように琴音から新たなメッセージが届いていた。それを見て翔は思わずノートを床に落とした。動揺を隠しきれず、自分の心臓が大きく波打つのを感じた。
『翔、こんなこと聞いていいかわからないんだけどさ、私たち過去を変えられたんだよね? ってことはさ……私、翔の世界に現れてくれたのかな?』
折原 琴音
二〇一三年九月
琴音は病室のベットで虚空を眺めていた。窓からは眩しい日差しが病室に差し込んでいる。いつも賑やかだったこの慣れ親しんだ空間が、今日はいつもとは違い静寂が包み込んでいる。隣のベッドからは里奈が鼻水を啜る音が微かに聞こえてきた。涙を必死に堪えているのだろうか。
昨日の夕方ごろ、さゆりが息を引き取った。
昨日琴音が帝王切開と子宮の摘出手術に向かう際、さゆりはいつもと違わぬ笑顔で琴音のことを送り出してくれた。「頑張るんだよ、決して死ぬんじゃないよ」と力強くエールを送ってくれた。
琴音は涼太と共に手術室に向かう最中、以前さゆりに言われた言葉を思い出していた。「赤ちゃんを産んだら私にも抱っこさせてね」そう彼女は言っていた。
二十九週で産まれる翔はまだ未熟児のため、無事出産後はNICUという新生児のための集中治療室に入る予定だ。そのため、琴音でさえしばらくは一緒にはいられない。さゆりに抱っこしてもらえるのはもう少し先になってしまう。それでも琴音はその時が来ることは信じて疑わなかった。元気な笑顔と快活な声で翔を優しく抱っこしてくれるのだとそう思っていた。
無事に帝王切開による出産も子宮全摘出手術も終えて、琴音は全身麻酔により意識がない状態で病室のベッドに横になっていた。麻酔の効力が切れて始めて徐々に意識が戻ってきた時、視界の先には両親、涼太、奈央がこちらを見つめていた。
「琴音! 良かった! 意識戻ったんだな⁉︎」涼太は目を赤らませながら、琴音を抱きしめた。
「涼太君! まだ琴音は意識戻ったばかりなんだから刺激させちゃダメだよ」そう言う奈央も目を潤ませていた。
両親も琴音が出産も手術も無事に終えてくれたことで、安堵と喜びで胸がいっぱいになっていた。
琴音は周囲の喜ぶ様子を見て、ようやく少しずつではあるが翔を産むことができたという実感が湧いてきた。まだまだ余談は許さないけれど、少なくとも未来の翔が教えてくれた過去を変えることが出来たことは間違いないのだ。
意識が戻ってきたことで、琴音はある違和感を感じた。病室が少し慌ただしくなっていることに気付いた。琴音は起き上がり、病室の奥を見据えた。さゆりのベッドの側には平木医師と看護師たちが群がっている。なんだか焦っているような雰囲気だった。その中に里奈の姿も見つけた。
琴音は次の瞬間ふらふらな状態でありながらもベッドから起き上がり、さゆりの元に向かおうとした。
「琴音、まだ動いちゃダメだ」涼太は琴音を静止した。
「ごめん、涼ちゃん、止めないで」琴音は必死に抗った。
「だったら肩を貸す!」涼太は琴音の腕を自分の肩に回した。一緒にさゆりの元に近づいた。里奈が琴音に気付き、振り向いた。
「琴音さん! 目覚めたんですね。良かった」
「ありがとう。ねぇ里奈ちゃん、さゆりさんは──」
里奈は若干唇を噛んで、さゆりの方に首を向けた。
「さゆりさん! 琴音さん目を覚ましましたよ。さゆりさんも目を開けてください!」
里奈の声は嗄れていた。
さゆりは目を瞑ったまま、意識が混濁しているようだった。時折、苦しそうに顔を歪めている。
「南雲さん! 琴音さんもいますよ。旦那さんももうすぐ来ます。まだ病気に負けちゃダメだ」平木医師が懸命にさゆりに声をかける。
するとその声たちに呼応するようにさゆりの目が開いた。目の焦点が合っていないのか、意識は朦朧としている。
「さゆりさん!」琴音は声を上げた。その声を聞いて、さゆりは琴音の方に顔を向けて、にこりと笑顔を見せた。
「琴音……ちゃん。無事だったんだね。手術、成功したんだね。良かった。本当に良かった……」
さゆりはこんな時でも自分のことではなく、人の心配を一番にした。相変わらずのお人好しだった。
「はい、おかげさまで、ありがとうございます。さゆりさんが勇気づけてくれたお陰ですよ。翔のこと抱っこしてくださいね。約束したじゃないですか」
「覚えてて……くれたんだね。こんなおばさんの言葉を。でも、その約束、ちょっと守れそうにない……」
「そんなこと言わないでください。いつものさゆりさんらしくないですよ!」
里奈が泣きながら叫ぶ。
「里奈ちゃん、ごめんね。私らしく……ないよね。里奈ちゃん、琴音ちゃん、私ね。不謹慎かもしれないんだけど、ここの病室での数ヶ月の入院生活、もちろん治療は大変だったけど、すごく……楽しかったの。琴音ちゃんはまるで私の娘のようで、里奈ちゃんは私の孫のようで。私は子供に恵まれなかったから。ここの病室での暮らしは家族と一緒に過ごしているような温かくて心地よい、本当に幸せな時間だった」
「私もです」琴音は言う。
「もちろん私もです。勝手に私のお婆ちゃんだと思って接していましたもん」
里奈は泣きながら笑う。
「そう……かい。それは良かっ──」ゲホゲホとさゆりは咳き込み苦痛な表情を浮かべた。
「さゆりさん!」琴音は声を上げて言う。
「大丈夫。もう少し、大丈夫……」さゆりは里奈の方を向いた。
「里奈ちゃん、こんなに若くして卵巣がんっていう大変な病気になって本当に辛かったよね。でもたくさん戦って病気に勝つことが出来た。本当によく頑張ったね。この経験はきっと里奈ちゃんのこれからの人生の糧になる、財産になる。これからはきっと幸せな人生が待っているよ」
「はい……」里奈は肩が震えていた。
「琴音ちゃん、琴音ちゃんはさっき私があなたを勇気付けていたって言っていたけど、それは違う。私がずっと琴音ちゃんから勇気をもらっていたの。私の病気は正直絶望的だった。治る可能性なんてみんな無に等しかった。それでも琴音ちゃんの絶対に諦めない姿を見て私も諦めたくない、また旦那のいる店に戻るんだってそう思えたの。琴音ちゃんのおかげよ」
「そんなこと……」
「二人とも手を出してくれない?」
さゆりの言葉を聞き、琴音と里奈はさゆりに手を差し出す。さゆりは二人の手をぎゅっと握った。
「私は先にあの世にいっちゃうけど、あなたたちにはまだまだ幸せの人生をこれから末長く送っていく義務がある。だから当分の間こっちに来ちゃだめよ。でも、遠い将来またあなたたちとあの世で出会えたら、また一緒におしゃべりしてくれる?」
「はい……」琴音と里奈は大粒の涙を流しながら、なんとか声を絞り出した。
「良かった。二人に逢えて本当に良かったよ。またいつの日にか逢いましょう……ね……あり──と──」
さゆりの琴音の手を握る力がふっと弱まった。そして次の瞬間、さゆりを繋ぐ心電図の数値がゼロを示した。さゆりの口元はうっすら微笑んでいた。
静寂の糸間を縫って、病室のドアが開いた。五十代半ばの男性が看護師と一緒に入ってきた。男性はさゆりのベッドの前に立った。物思いに耽るかのようにしばらくその場で立ち止まっていた。
男性は振り向いて、琴音と里奈を見ると軽く会釈をした。琴音と里奈もそれに呼応するように頭を縦に動かした。男が誰なのか琴音は顔を見てわかった。さゆりの夫だった。何度かお見舞いに来ていた時に挨拶を交わしたことがある。さゆりとは真逆のあまり覇気を感じない、物腰の柔らかそうな人だと思っていた。お見舞いに来ていた時も彼は妻の尻に敷かれた夫のように振る舞っていた。
「折原さん、松岡さん……ですよね? さゆりの夫の南雲です。この度はさゆりのことで驚かせてしまってすいませんでした」
「いえ……そんなことないです」琴音は言う。
自分が一番辛いはずなのに他人を慮る姿はさゆりと重なるところがあった。
「さゆりは、病気になった当初は『あなた一人に定食屋任せてたらすぐ潰れちゃうわ』と軽い皮肉を交えつつも病気に懸命に立ち向かっていました。ですが、中々良くならない病気と度重なる転移で心が疲弊して、持ち前の元気は少しずつ無くなっていったんです。私はそれを見ているのが辛かった。何も出来ない無力さに押し潰されそうでした。でも、ある日を境にさゆりは以前の元気を取り戻していきました。折原さん、松岡さんあなた方に出会ってからです」
「私たちに?」里奈が訊く。
「えぇ。私たちは子供に恵まれなかったってこともありまして、さゆりはあなた方を実の家族のようだと、それはもう本当に嬉しそうに語っていました。あんなにも満面の笑みを浮かべるさゆりを見たのはいつぶりだろうかと思ったくらいです。さゆりに幸せな時間を与えてくれてありがとうございました」
そう言うと南雲はチラシを取り出して、琴音と里奈に渡した。チラシには南雲亭と書かれていた。
「退院されましたらぜひ、うちの定食屋に来てさゆりにが眠る仏壇に手を合わせに来てくれませんか? ついでにご飯も食べに来てください」
琴音はチラシをじっと眺めてから南雲の顔を見上げた。
「必ず行かせていただきます。約束します」
「私も絶対に行きます」里奈も琴音に続いて言った。
「ありがとうございます。さゆりと一緒にお二人が来てくれるの楽しみに待っています」
南雲は柔和な笑顔を見せた。
その後、南雲は看護師と一緒にさゆりの荷物を取りまとめて、病室を後にした。
南雲が病室を去った後、里奈は琴音の傍に来て言葉を交わさずそっと彼女を抱きしめた。琴音も里奈を抱きしめ返す。さゆりがいなくなった現実を受け止め、感情の赴くまま二人は眼から流れる涙を抗おうとしなかった。琴音は心の中でさゆりに向けて何度もありがとうと言った。
どうか健やかに過ごして下さい──と、ささやかな願いを込めた。
昼過ぎ頃、琴音は里奈と共に病院の正面玄関を出てすぐの広場にある木製のベンチに座っていた。少し風に当たりませんか? と言ってくれたのは里奈だった。琴音は笑顔で頷いて二人は病室を抜け出していた。
降り注ぐ日差しは、ポカポカと暖かくて、とても心地良かった。里奈からもらったショートボブのウイッグが風になびく。琴音はそっとなびく髪を手で押さえた。
「良い天気ですね、琴音さん」
「そうだね。すっごく気持ちが良い」
琴音と里奈は空を見上げた。
「お伝えするのが遅れちゃいましたけど、琴音さん、ご出産おめでとうございます。琴音さんも、翔君も無事で本当に良かった」
「ありがとう、里奈ちゃん。でも私一人じゃきっと頑張れなかった。家族、友達、さゆりさん、里奈ちゃん、みんなが私を勇気づけてくれたおかげだよ。本当に心強かったし、嬉しかった」
「心強かったのは私も同じです。琴音さんやさゆりさんがいてくれたから、辛い治療にも頑張れたし、将来子供を産める可能性も残すことが出来たんです」
「そう言ってもらえると私も嬉しいな。あと少し早いけど、里奈ちゃん、退院おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
里奈は片方の卵巣を切除後、体に残存する腫瘍を取り除くため、抗がん剤治療を続けてきたが、MRI検査の結果、無事がん細胞が消失したことを確認できた。そのため、明日病院を退院できる事が決まったのだ。
「退院したら何したいとかあるの?」
「早く友達に会いたいです。でも遊んでばかりもいられないんですよねぇ。高校受験の勉強しなくちゃいけなくて。受験生ってほんと嫌ですね……。でも前に病室に来てくれた私の友達いたじゃないですか? 私あの子と土浦第二高校に行って、また一緒にテニスがしたいんです。中学最後の大会は私の病気のせいでダメになっちゃいましたけど、高校ではその子とまた一緒にテニスの大会に出ようって約束したので。だからくよくよしてられません。退院してからは勉強漬けの日々ですね」
琴音は目をパチクリとさせていた。
「琴音さん?」里奈が思わず首を傾げる。
「里奈ちゃん! 私も土浦第二高校出身だよ!」
「え、そうなんですか!」里奈は驚きと笑顔を混ぜ込んだ顔をした。
「すごい良い高校だから里奈ちゃんにもぜひ入って欲しいな。受験勉強大変だと思うけど、頑張って。里奈ちゃんの高校のテニスの大会、私観に行きたいな」
「え、本当ですか⁉︎ 約束ですよ? 絶対来てください」
「うん。これでまた楽しみが増えて嬉しいな」
里奈は、はにかんで笑う。
「琴音さん、私ね、こんなにも身近で親しい人が亡くなるの生まれて初めてだったんです。さゆりさんが亡くなって、家族が亡くなったみたいにすごく悲しくて、こんなに辛いんだって思いました。だから──」里奈は琴音の手を握った。
「琴音さんは死なないで。翔君とずっと末長く生きて。私、将来子供産んだら、琴音さんに会いに行きます。私の子供に会ってくれるって約束してください」
里奈の声は震えていた。切実な思いが琴音の心に響いた。琴音は里奈の手を強くに握り返した。
「わかった、約束する。翔と一緒にしわしわのお婆ちゃんになるまで生きるよ。里奈ちゃんの子供と会えるの楽しみにしているから」
琴音は里奈の言葉を胸に刻んだ。一週間後には病理検査の結果が出る。そこでがんの転移が確認出来なかったら、未来への道が一気に切り開かれるのだ。
すると琴音はこの瞬間、ある疑問が脳裏をかすめた。
無事生きて翔を産むことが出来たということは、未来の翔が教えてくれた過去は変えられたはず。
ということは、十一年後の未来で自分は存在しているんじゃないだろうか?
もちろん訊くことの怖さはあった。これで未来に自分がいないということを知ってしまうと、未来への希望が抱けなくなる。がんが転移してしまっているんじゃないかとか、また病気になってしまうんじゃないかとか、ネガティブな考えばかり過ってしまうことは明白だった。それでも知りたい願望に抗うことは出来なかった。
琴音は里奈と病室に戻った後、『時を越えるノート』で未来の翔に、自分が現れてくれているのか訊いた。
翔からの返事は日が暮れても中々返って来なかった。もちろん学校があったり、クラブ活動があったりして返事が夜になるのはいつものことだが、今日に限っては不安が募った。マイナスの考えばかりが脳裏によぎる。
翔からの返事が来たのは翌朝のことだった。ノートにはこのように記されていた。
『お母さん、ごめん。サッカーの練習で疲れてすぐ寝ちゃったんだ。お母さん驚かないでよ。なんとね、お母さん今この世界にいるんだよ。現れてくれたんだよ。僕お母さんと一緒に生きてるよ、暮らしているよ。ついにお母さんにとっての未来が変わったんだよ。お母さんが頑張って病気を治してくれたおかげだよ。ありがとう』
私が未来で生きている──。
琴音はすぐには翔の言葉をうまく咀嚼することができなかった。待ち望んだ答えだったのに、いざその答えを聞くと、動揺を隠せなかった。未来の光景を見たわけではないため、中々実感は湧かない。
だが、琴音は翔の言葉を無条件に信じた。長かった戦いがようやく実りを生んだのだと思うと、急に目頭が熱くなった。ここまで自分を導いてくれた全ての人に琴音は感謝の思いでいっぱいなった。退院して日常を取り戻したら、なんらかの形で恩返しがしたいと思った。
一週間後、里奈が退院した病室は琴音しかおらず、静寂に包まれていた。そこに朝方、涼太が入ってきた。
「おはよう、琴音。よく眠れた?」
「うん。思ったより寝れた。もう腹は据わってるつもりだからかな」
「さすがだな。俺は一睡も出来なかったよ。診察が終わったら、後で一緒に翔に会いに行こう。もう早く三人で暮らせる日が待ち遠しよ」
「私もだよ。涼ちゃん」
今日は琴音の摘出した子宮の病理検査結果が出る日だった。琴音と涼太、そして翔にとって運命の日。二人は平木医師と史也が待つ診察室に向かった。診察室に入って、琴音は二人を見た。平木医師も史也も笑顔で迎えてくれた。
「琴音さん、病理検査の結果、子宮周りの部位への転移、侵潤は見つかりませんでした。これで一旦の治療は終了です」
「ほ、本当ですか⁉︎ 平木先生」涼太は目を瞬きながら訊いた。
「はい、本当です」平木医師は笑顔で言う。
「よかった、よかった……」涼太は両手を太ももに乗せて肩を震わせた。
「平木先生、史也君、本当にありがとうございました」琴音は深くお辞儀した。
「うぅ、琴音さん、涼太さん、本当におめでとうございます。兄も天国で喜んでいますよ」史也は目を潤ませていた。
「まぁこいつも手術の時は俺の助手としてそれなりに頑張ったんで、誉めてやって下さいな」平木医師は史也を指差して言った。
「ちょっと平木先生、それなりってことはないでしょうよ」史也はツッコミを入れる。
「ところで史也、お前、そろそろ産婦人科での研修は終わりなんじゃないのか? 二月頃、半年くらいの期間って言ってなかったっけ?」涼太が史也に訊いた。
「あ、それなんですけど……」史也が平木医師をチラッと見た。
「僕、心底平木先生に憧れてしまいまして、将来平木先生みたいな産科医になるって決めたんです。だから残りの半年もここでお世話になることになりました」
「え! そうなのか⁉︎」涼太は驚きの声をあげた。
「そうみたいです。なんか妙にこいつに好かれちまったみたいで」平木医師がやれやれといった様子で言う。
「ちょっとなんでそんな嫌そうなんですか!」
空間に笑いが生まれる。
琴音は二人のやり取りを見て、朗らかな気持ちになった。良い師弟コンビだなと思った。すると平木医師は琴音の方に体を向き直した。
「琴音さん。辛いがん治療、本当にお疲れ様でした。この苦難を乗り越えられたのは、琴音さんあなた自身の力です。明日には退院できます。ですが一度がんを経験すると再発の可能性は他のがん未経験者よりもどうしても高くなります。ですので、しばらくは数ヶ月ごとに再検査をしていただきます。がんとの戦いが完全に無くなったわけではありませんが、少なくとも今回のがんとの戦いは琴音さんの勝利ですよ」
「私の、勝ち……」琴音は平木医師の言葉を噛み締めて心に染み込ませた。
未来の翔の言葉を信じていなかったわけではない。だが、これではっきりした。
私は本当に治ったんだ。翔と涼太と一緒に生きていけるんだ。
診察を終えた琴音と涼太は、浮き立つ気持ちのまま、NICUにいる翔の元に向かった。保育器の中で翔は小さな寝息を立てていた。生後一週間が経って、少し体は大きくなったが、まだまだ体は小さい。それでも懸命に生きようとする命の偉大さに琴音は圧倒された。
琴音は翔の手を優しく握った。
翔、私やったよ。がんに勝ったよ。未来を変えたよ。一緒に生きていけるよ。もうどこにも行かない。翔が大人になるまでずっと傍にいるから──。
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