第3話

櫻井 琴音


 二〇一二年八月三十一日



 ふと腕時計を見ると、午後五時を回っていた。体感ではまだ一時間程度といったところだったが実際は三時間もの時間が流れていた。

「そろそろ行こっか」

 飲みかけのアイスティを飲み干し、櫻井琴音は向かいに座る奥薗奈央にそう告げた。

「え? もうこんな時間⁉︎ 嘘!」

 昔からの旧友も自分と同じことを思っていたのかと思うとちょっと嬉しくなった。奈央とは高校時代からの友達でお互い霞ヶ浦総合病院の看護師として働く同僚でもあった。今日はお互い非番で二人のお気に入りのカフェで談笑していたら、いつの間にか夕方になってしまっていた。

「明日からまた仕事かぁ、憂鬱」奈央は道を歩きながらげんなりした様子で呟いた。

「仕事があるから休みが待ち遠しくて楽しいんだよ。またがんばろぅ!」

「琴音のその前向きさちょっと分けて欲しいわ。でもまぁその通りだよね。さすが人妻は違うわ」奈央はいたずらっ子のような表情を浮かべ琴音を揶揄った。

「ちょっと人妻ってやめてよ、急に老け込んでみたいじゃない」

 そうは言いながらも、人妻という聴き慣れない言葉に琴音はまんざらでもない表情を浮かべた。

 奈央と別れて一人暮らしの自宅アパートに着いた琴音は携帯に婚約者である折原涼太からのメールが来ていたことを確認した。メールには「明日泊まって良い?」とだけ書いてあり、琴音は「良いよ」と絵文字付きで即座に返信した。

 涼太とは大学時代に知り合い、卒業の年に交際を開始、三年の交際期間を経て先月プロポーズされたばかりだった。まだ同棲もしておらず籍は近々入れる予定だ。

 琴音はインスタントコーヒーにお湯を注ぎ、読みかけの文庫本を手に取って、ベットに腰掛けた。居心地の良い空間で自分の好きな本を読むこの時が琴音にとって一番幸せを感じる時間だった。

 そんな時、ふと視界の端に気になるものが映り込んだ。目を斜め下に落とすとベッドの上に見知らぬノートが一冊置いてあった。

 ノート? 見たことないけど、涼ちゃんの忘れ物かな?

 そう思い、琴音はノートに手を伸ばした。その時だった。琴音は窓辺に人の気配を感じ、咄嗟にそちらに目を向けた。

「届いたようですね」

「きゃ‼︎」琴音は声を上げて、目を剥いた。

「だ、だれ⁉︎」

 思わず声が裏返ってしまう。

 黒のロングコートを身にまとい、おかしな白い仮面をつけて英国紳士風な黒いシルクハットを頭に被せた男が自分の部屋の真ん中に佇んでいる。

 琴音は恐怖で背筋が硬直し、肌が粟立つ背筋に冷たい汗が流れ落ちた。

「おっと。驚かせてしまい大変申し訳ございません。私はエリオよろず店のエリーことエリオットと申します。お言伝が済みましたらすぐに退散いたしますので、ご安心下さい。私はあなたの息子さんからそちらのノートをお預かりして参った次第であります。このノートは『時を越えるノート』。あなたと息子さんを繋げてくれる不思議なノートです。どうか息子さんへお返事を書いてあげてください。それではこれで失礼いたします。なにぶん過去への移動は『寿命』の消費が激しくてあまり長居は出来ないんでね。では」

「え」

 琴音が瞬きをした瞬間、男はあっという間に姿をくらまし、部屋が静寂に包まれた。一瞬の出来事に琴音は腰が抜け、中々動くことが出来なかった。

 それでも少しずつ現実感を取り戻していくと、彼女はつい先程の出来事を反芻してみた。

 夢……ではないよね?

 琴音は自身の頬をつねるというひどく古典的な方法で夢ではなく現実であることを確かめた。

「うん。痛い」

 間違いなく現実だ。

 では先ほどのあのエリーと名乗る仮面の男は何者だったのだろうか。泥棒か。いや何も盗られちゃいないし、そもそも忽然と消えたことをどう説明する。ではマジシャンの類だろうか。いやいやそれこそなぜ私の家に? ないない。

 このままじゃ埒があかない、そう思っていると、自身の手中に先ほど手に取ったノートを掴んだままであることに気づいた。

 見た目は何の変哲もないただの大学ノートだ。ノートを開こうとした時、琴音は先ほどのエリーが言っていた言葉を思い出した。

『あなたの息子さんからそちらのノートをお預かりして参った次第であります』

 琴音は当惑した。

 琴音は先月婚約したばかりで当然子供などいるはずもない。それなのに息子からの預かったという言葉は要領を得ないどころか意味が分からなかった。

 琴音は恐る恐るノートを開いて見ると、そこには子供っぽい文字でこのように書かれていた。 

『お母さん。はじめまして、なのかな? 僕はあなたの息子の翔(かける)と言います。歳は今日で十歳になりました。お母さんはお元気ですか?』

「翔……」すると目の奥がじんと熱くなり、独りでに涙が頬を伝っていった。

「え、なんで──」

 琴音自身なぜ涙を流しているのか全くわからなかった。鼓動が早くなり動機を整えるのが精一杯だった。

 もちろんこのような荒唐無稽な話、即座に信じろという方が無理な話で、琴音も信じているわけではない。半信半疑ですらなかった。だが、身体が、心が琴音の意思に反し、これは真実だと告げるように反応する。

 琴音は深呼吸をした。とにかく、まずはこのノートを使ってみることにした。そうすれば全てはっきりする。

 このノートが本当に時を越えるのかどうか。この目で確かめるんだ。

「あ、そうそう言い忘れていました」

「きゃ‼︎」

 琴音はまたも腰を抜かし、その場で倒れこんでしまった。いなくなったと思ったエリーがまたもや窓辺に現れたのだ。エリーは座り込む琴音を見下ろしながら、不敵な笑い声を漏らした。

「ふふふ、何度も驚かせて申し訳ございません。ちょっとお伝えし忘れたことがありまして、息子さんにも言いそびれたんですがね、あなたにお渡ししたそちらの『時を越えるノート』にはある秘密がありまして……」

「ひ、秘密?」琴音は恐怖と怪訝を織り交ぜた表情となった。

「過去と未来が重なる時、扉は開きます」

「え?」なにそれと琴音は思う。「どういう意味?」

「まぁ、そのノートを使っていたら、きっとそのうちわかりますよ。きっとね。まずは試しに使ってみることです。では」

「ちょ……」

 外から吹き込む風と共に再びエリーの姿は跡形もなくなった。

「もう、なんなの……」

 琴音はまたも唖然とさせられたが、ゆっくり立ち上がると椅子に腰を下ろして、目の前のデスクの上にノートを開き、ペンを手に取った。

 特に迷いはなかった。自分の身になにが起こっているのか、説明することも理解することも到底出来そうにないが、深くは考えないようにした。

 翔と名乗る息子が書いたという文章の下段にペン先を当てる。

『翔へ、私は櫻井琴音と言います。あなたは私の息子なの? さっき黒い帽子の仮面を被った人がこのノートを渡してくれたんだけど……

今日は二〇一二年八月三十一日です。 翔の生きる時代は今どうなっている? 翔は……元気?』

 文章を書き終えてペンを机に置き、テーブルに置いてある少し冷めたコーヒーを一口啜ると、ふぅと一息ついた。

 特に何も起こらない。色々とわからないことだらけだけど、やっぱり未来の息子との交換ノートだなんてあるわけないか、と思った次の瞬間。ノートは淡く温かい光を放った。

「な……」琴音は目の前の出来事に唖然とし、言葉にならなかった。

 すぐさまノートの中を確認するも特段何ら変わりはない。今の光は一体何だったのだろうか。

 しばらく思考を巡らせていると、またもノートは先ほどと同じ光を放った。恐る恐るノートを開くとそこには、最初のメッセージと同じ筆跡で綴られた文章が新たにノートに記されていた。





 折原 翔 

 

 二〇二三年八月三十一日 



 またあの光だ。

 涼太と共にささやかな誕生日会を行った翔は自分の部屋に戻ると、机の上に無造作に置いてあるノートがまたも淡い光を放っているところを目撃した。

 やっぱりさっきのも見間違えではなかった。

 確かな確信をもった翔はすぐさまノートを開く。そこには可愛らしい筆跡で自分あてのメッセージが記してあった。

『黒い帽子の仮面の人』

 あまりにも特徴的なこの情報は、霊園で翔の前に現れたエリーのことを指していることは明白であった。

『今日は二〇一二年八月三十一日です』

 この文章が書かれたのは、十一年前の今日。つまり、このことを素直に鵜呑みにするのであれば、エリーは時空を行き来出来るということになる。

 そんなバカな──。 

 しかし、あの男であれば、それすらも可能なのではないかという気持ちも捨てきれない。そして……。

『翔へ、私は櫻井琴音と言います』

 お母さん……。

 本当にこのメッセージは生前の母が書いたものなのだろうか。

 誰かの手の込んだいたずらなんじゃ……。

 翔はあることを思いついた。早速ノートにペンを走らせる。

『お母さん、疑っているわけではないんだけど、本当にお母さんである確信が欲しいんだ。だから一つ質問をさせて。お母さんはお父さんに何日にどこでプロポーズされた?』

 これは翔も知らないことだった。仮に二〇一二年八月三十一日以降にプロポーズされていたとしても、まだされていないという回答が証明になるはずだ。

 答え合わせは後ほど涼太にしようと翔は思った。書き終えると、ノートはまた光り出した。翔はじっと次なるノートの発光を待った。

 およそ三分後、再び淡い光を放った。翔はすぐにノートを開く。

『そりゃそうだよね。こんな漫画みたいな出来事、簡単に信じられないよね。私も最初は信じられなかった。でもこのメッセージを見て、翔が本当に未来からこのメッセージを私に届けてくれているって何故だか信じられたの。もちろんなんの根拠もないけどね。涼ちゃんからプロポーズを受けたのは二〇一二年七月七日ディズニーランドのパレード中にだよ』

 ノートに目を通した翔は、すぐにリビングへ向かった。リビングではテレビを見ながらキッチンで食器を洗っている涼太がいた。

「ねぇお父さん。お母さんにプロポーズしたのっていつでどこ?」

 涼太は翔の唐突な質問に少しだけ当惑していた。

「急だな翔……まぁそうだな。二〇一二年七月七日で場所はディズニーランド。夜のパレードを眺めながら指輪を渡したんだ。お父さんも中々やるだろ」

 涼太ははにかんで笑った。

「ん? どうした翔。ぼーとして」涼太は狐につままれたような表情になる。

「え? ……いやなんでもない。ありがとう。また聞きたいことあったら聞くね」

 翔は足早に自分の部屋に戻った。そして机の上に置いてあるノートをじっと眺めた。体がふるふると震えだす。

 間違いない、お母さんだ。そしてこの『時を越えるノート』は……本物だ。

 翔はこみ上げてくる思いを留めることが出来ず、涙が溢れだした。

 お母さんと話が出来る。ずっと夢見ていた、けれども絶対に叶わないと思っていた母との会話がまさかこんなSF映画のような方法で実現するなんて夢にも思わなかった。

 ふと、このノートを授けてくれたあのエリーという男は何者だったのか、なぜ翔の前に現れたのか、このノートの対価は『寿命』だと言っていたがあのセリフは本当なのか、様々な疑念が脳裏をよぎったが、翔は一旦は何も余計なことは考えないことにした。

 何を想像しても答えには辿り着けそうにない。だったら今はこの夢にまで見た時間を楽しもうと翔は心に決めた。


 



 折原 翔


 二〇二三年九月



 うだるような暑さは少しずつ後退していき、町の木々は緑から赤や黄へ色味を変え、心地よい風が頬を撫でるような日も増えてきた。

 暦は九月下旬頃になっていた。

 翔は毎日、琴音との交換日ノートを続けており、日々の日課となっていた。もちろんお互いの都合により返事が出来ない日や時間帯があったりしたが、もはやこの交換ノートが翔の生活の一部となっていた。

 趣味は何か、好きな歌手は誰か、スポーツは何が好きか、嫌いな食べ物は何か、そんな些細な質問を繰り返しては答えが来るたびに、翔は喜びで笑顔がこぼれた。また、母が父のことを涼ちゃんと呼んでいたことも知った。若かりし二人のやりとりを想像すると少し面映い気持ちになった。

 そして同時に自分は本当に母のことを何も知らなかったんだと、幾ばくかの自責の念も抱いてしまった。

 この交換ノートを行うにあたり、翔は琴音と一つの決めごとをした。それはこのことは二人だけの秘密にするということ。もちろん涼太にもだ。翔は涼太に対して隠し事をすることに少し後ろめたさがあったが、誰かと秘め事を共有するということは、初めて経験だったので、ささやかな喜びを感じていた。

 とはいえ、こんなファンタジーな出来事を誰に話したとて信じてくれる人がいるとは到底思えないのだが……。

 そして何度か母とノートのやり取りをする中で、このノートがどういう効力を持つのか少しずつ分かってきたことがある。

 まずこの『時を越えるノート』は翔と琴音の手元にそれぞれ一冊ずつ、計二冊あるということ。それらが相互にリンクしており、翔が書いたメッセージはそのまま過去の琴音のノートに映し出される。逆もまた然りだ。そしてそれぞれのノートがリンクした瞬間、ノートは淡い光を放つ。

 またノートのやり取りでいつの時代の琴音と交換ノートをしているのかもわかった。それは現代から丁度十一年前の今日。翔が生まれる前の年だ。つまりこの約一年後、翔を生むと同時に琴音はがんで命を落とすことになるのだ。

 この事実をどう受けとめるべきなのだろうか。翔は頭を悩ませた。琴音はまだ自分自身が将来がんで亡くなることを知らない。将来起こってしまうこの事実を琴音に伝えることはできるが、ひどく狼狽し落胆してしまうことは想像に難くない。しかし、事前に自分の未来が予測出来た方が、後悔のない生き方ができるのではないだろうか。

 翔はどの選択が一番琴音のためになるのか判断が出来なかった。

 翔が部屋で考え込んでいると、ノートが光った。琴音からのメッセージだと瞬時にわかった。翔は数分前に琴音の仕事について聞いていたため、その返事だと思った。

『私は今霞ヶ浦総合病院の看護士として働いているの。大変だけどとてもやりがいのある仕事だよ。翔は将来なりたい職業はあるの?』

 看護師なんだ……。

 翔は母の姿は写真でしか見たことがなかったけれど、とても優しそうな笑顔が印象的だった。だからなのか看護師として働いている琴音の姿は容易に想像できた。多くの患者さんに愛された人だったんだろうなと思った。

 自分のなりたい職業……。

 昨年まではプロのサッカー選手になるのが夢だった。でも昨年のあの出来事がきっかけで所属していたサッカーチームをやめてから、自信を持ってその夢を掲げることが出来なくなっていた。

『看護師なんだ。すごいお母さんにぴったりだと思う。すごく立派な職業だよね。僕はお父さんみたく自治体職員になって地元のために働きたいと思ってるよ。この街が好きだしね』

 本心ではなかった。翔は父の仕事である地方公務員が市民生活を守るという使命を持った、とても立派な職業だと思っていることは嘘ではないが、心底なりたいと思っているかというとそうではなかった。母にまで本心を隠して一体何になるんだ。そんな自分が心底嫌になる。

『諒ちゃんと同じ公務員を目指しているのね。とても立派なことだと思うけど、幼いうちはもっと大きな夢を持っても良いんじゃない? って余計なお世話だよね、ごめん。翔はサッカーが好きなんだよね? プロとかは目指したりはしないの?』

 翔は少し前、琴音に好きなスポーツがサッカーであることを交換ノートで告げていた。

 胸がズキンと微かな痛みを覚える。母に本心をさらしていない後ろめたさか、本心を見透かされたと感じたことの気恥ずかしさか、自身の本心と向き合えていない負目か、どれともわからない感情が翔の心を小さく抉る。

『プロなんか僕には無理だよ。サッカーは好きだけど、あくまで趣味だよ。まだ小学生だし、これからまた新しい夢が見つかるかもしれないから色々なことに挑戦しようかとは思ってるけどね』

 今言えることはこれくらしかない……。

 もっと自信をもって自分の夢と向き合えた時に母には本心で話そうと翔は思った。

『うん、その意気だ! 若いうちは色々経験してたくさん失敗するが一番だよ。ところでで翔、ずっと気にはなっていたんだけど、翔って良い名前よね。それ誰が考えたの? もしかして私⁇(笑)』

 名前の由来……。

 自分の名前の由来は特に父からも聞いたことがないと翔は思った。翔はまたリビングにいるであろう涼太の元へ訊きに行った。

「ねぇ父さん! 僕の名前って誰がつけたの? お父さん? それともお母さん?」

 涼太は当初、目を瞬いて一瞬だけ驚きの表情を見せたが、すぐに思案顔になり、腕を組んだ。そして思い出したような表情を見せ、翔に言った。

「翔って名前はお母さんが考えたんだ。力強く高く自由に羽ばたけるような子に、そして……困っている人がいたらすぐに駆け付けるような優しいヒーローになってほしいってそう言っていたよ」

 涼太は少しだけ遠くを見る目になった。

「ありがとう」と言って翔はまた部屋に戻る。

『僕の名前はお母さんが考えたみたい。自分の殻を破って自由に逞しく飛び回れるような子供にって。なんかちょっと照れくさいね』

 自分は殻を破って自由に生きられているだろうか。翔は全く自信がなかった。名前に恥じない生き方が出来ていないと思い、肩を落とした。

『あら。私のセンスも中々素晴らしいじゃないの。未来の自分も捨てたもんじゃないねぇ。ところで翔。ずっと気にはなっていたんだけど、そっちの世界で私は元気にしてるの? 今もまだ看護師続けているのかな?』

 心臓がドクンと鼓動する。

 翔は胸が弾ける思いだった。

 琴音は未来でも自分が生きていると思っている。よくよく考えてみれば当たり前のことだった。琴音に対しては、まだ将来病気で亡くなることを告げていないため、こちらの世界でも自分が生きていると思うのは至極当然のことだ。

 翔は答えに窮した。

 数分間悩み、そして徐にペンを握った。

『こっちのお母さんはとっても元気だよ。元気過ぎて鬱陶しいくらいにね(笑)。だから心配いらないよ。でもこっちの世界お母さんと面と向かって色々お話をするのはちょっと気恥ずかしいから、この交換ノートはしばらく続けたいな』

 悩んだ末、翔が出した結論は未来の事実を隠すということだった。それが正しい結論なのかはわからない。それでも翔はとにかく母が悲しむ様子を感じたくなかった。この幸せな時間をもっと長い時間過ごしていたかった。 

 翔は次に母にする質問は決めていた。すぐにでも聞きたかったが、何となく二回連続でメッセージを送るのは少しためらいがあった。

 だが、居ても立っても居られず、彼は気づくとペンを走らせていた。





 櫻井 琴音


 二〇一二年九月



 琴音はなんとも不思議な気持ちを抱いていた。翔が言うには、十一年後の未来で自分は翔の母として、とても元気に過ごしている。未来の自分がどんな気持ちでどんな思いで生きているのか、どんな風に翔と涼太と接しているのか興味が尽きなかった。

 それと本当なら未来に起きる出来事やこれから来るテクノロジー等、未来の世界がどのようになっているかも正直気にはなった。だが、何となくルール違反な気がして、ためらいがあった。もし未来がある程度わかれば株で一儲けすることも可能かもと一瞬脳裏をよぎったが、将来の自分の子供をお金儲けのだしに使っているようで気が引けた。

 何より今は翔との些細な会話がとにかく幸せだから、これ以上を望むのは身の程知らずと言えるだろうとも思える。

 そんなことを考えているとふと我に帰った自分がいた。当たり前のように自分の未来の子供と交換ノートをしているが、自分も子供を持つ母になるのかと思うと感慨深いものがある。

 もちろん将来的に涼太との子供を望んでいるが、近年子供産みたくても経済面や、体質面で産むことができない人も大勢いる中、自分は無事に子供を産むことが出来るのだと安堵と感謝が入り混ざった気持ちを抱いた。

 次の質問を書こうとした時、ノートが光り出した。

 あれ? 次は自分の番なのに……と琴音は一瞬思ったが、別にそんなルール決めをしたわけではないので、何ともなしにノートに目をやった。

『連続して送っちゃってごめんね。僕、お母さんとお父さんの馴れ初めを聞いてみたいな。こっちの世界の二人に聞くのはちょっと恥ずかしくて。どうかな?』

 琴音の心に若干のさざ波が立ち、ぐらりと揺らいだ。 

 大抵の人は馴れ初めを聞かれると気恥ずかしい気持ちが大半を占めるものかもしれない。だが、琴音の場合そうではなかった。

 琴音と涼太、二人の馴れ初めを語るにあたり、かつてのあの出来事に触れないわけにはいかなかった。翔が言うには、未来の自分も涼太も翔に対し未だ自分達の馴れ初めを披露していないという。

 そうだろうなと思った。

 小学生の息子に親が自分達の馴れ初めを話すような機会はあまりないだろうし、そもそもがおいそれと小さな我が子に告げられるものでは到底ない。

 琴音は深く深呼吸をし、唇を舐めた。そして意を決したかのように、ペンを持つ手にぎゅっと力を入れた。

『ねぇ、翔。私と涼ちゃんの馴れ初めについては、もちろんお話してあげる。でもね、私達の馴れ初めは決して楽しい話ばかりではないの。もちろん昼ドラ見たいなドロドロした展開があるわけではないよ? 多分未来の私たちもあまり過去のことについて翔に話したことはないんじゃない? これには理由があるの。だからあまり責めないであげてね。未来の私に代わって、私が嘘偽りなくこれから伝えるから、安心して。どこから話せば良いか、少し長くなっちゃうかもしれないけど、大丈夫?』

 二分後、ノートが光り出した。

『ごめん、そんな軽い気持ちで話せることではないなんて知らなかった。でも、やっぱり僕はお母さんとお父さんのこともっと知りたい。長くてももちろん構わない。お願い、聞かせて』

 翔の返事を見るや否や、琴音は視線を少し上げて、ぼんやりと虚空を眺めた。彼女は過去の記憶を脳裏のフィルターに投影する準備を始める。不鮮明だった映像が徐々にはっきりとした輪郭を帯びていった。

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