第2話
折原 翔
二○二三年八月三十日
キンコンカンコンと無機質で使い古されたようなチャイムの音が教室中に響き渡る。
六時間目の算数の授業が終わり、クラスには帰りの会が終わるのが待ちきれず、帰り支度を始める子たちがちらほらいた。夏休みが明けて間もないということもあり、久々に会うクラスメイトと早く遊びに行きたくてソワソワしているのかもしれない。
窓の外ではミーンミーンと残り少ない命を懸命に生き抜こうとする蝉たちの大合唱が聞こえてくる。この暑さでよくもまぁそんなに一生懸命に鳴くことができるのかと折原翔は感心していた。
少しして、四年三組のクラス担任、永森先生が教室にやってきた。上下青のジャージ姿でさわやかな短髪姿のこの先生はいかにもスポーツマンといった面持ちで学校では一、二を争うほどの人気教師だ。背も百八十五センチくらいの長身で体躯も大きい。昔は結構やんちゃしてたという噂も聞いたことがあるけど定かではない。若干強面なところもあるので、それがさらに噂に信憑性を持たせる。
帰りのホームルームはいつも何点か先生から連絡事項が告げられ。あまり時間がかからず終わるのが通例であり、今日も五分足らずで終わった。
「それじゃあ、みんな今日はおつかれさま。また来週な! 夜更かしして朝遅刻するなよ!」
「はーい!」
永森先生の号令を合図に、生徒たちは気の合う仲間たちと共にぞろぞろと教室を後にしていった。翔はそんな生徒たちの背中をただじっと眺めていた。
そんなに急いで帰りたくなるほど魅了的なものがみんな学校の外にあるものなのかと翔は羨ましく思えた。彼はそんな生徒たちの流れに逆らうように、ゆっくりと帰り支度をして誰に合わせるでもなく自分のペースで教室を出た。
広々とした校庭では土浦ユナイテッドFCが準備運動を始めていた。これから練習が始まるようだ。試合が近いようで、生徒たちはみんなとても活気付いている。
本当だったら自分もそこにいたはずなのに……。翔は一瞬脳裏にそんな思いが駆け巡ったが、無理やり雑念を振り払うかの如く首を振り、足早に校門を出ようとした。
するとその時、校庭から翔の足元にボールが転々と転がってきた。翔はそのボールを足で止め、転がってきた方に視線を向けた。身体の大きい男が向かってくる。翔のよく知る男だった。
「すんません。ボール取ってくだ……」
中住大吾は翔を見るや言葉を詰まらせた。大吾は翔の隣のクラス四年二組の生徒であり、躯体は小学校四年生でありながら百六十センチメートルと大柄でかつ坊主頭が特徴の少年だ。
嫌なやつに会ってしまった。ツイてない。
翔は大吾に言葉一つかけず、足の踵で華麗にボールを浮かせ、大吾の胸元あたりを目掛けて力強くボールを蹴りあげた。
「おっと‼︎」
大吾は咄嗟に胸でボールを受け止め、手中に収めた。それと同時に眉間にぐっと皺を寄せ、翔を睨みつけた。
「危ねぇなバカ! もっと普通に渡せないのかよ」
翔はふんと鼻で息を吐き捨て、踵を返して校門に向かった。
「おい翔! お前いつまでそうやって逃げ続けんだ? 俺に言いたいことがあるんならちゃんと言って来いよ! 生憎もうここにお前のポジションは残ってねぇけどな」
ポジションというのは、所謂サッカーでのポジションを指すのか、それともその空間での居場所を指すのか、それともその両方か、そんな疑問が脳裏に過ったが、翔にとってそれはどちらでも良かった。大吾の言葉を受けて、翔は後ろを振り返り、大吾に視線を向けた。
「言われなくてももう僕は君のいるチームには戻らないよ。それにもう君に言いたいことなんてなんもないし。試合近いんでしょ? 早く練習に戻りなよ」
翔はそう言い捨てると、踵を返して足早に校門に向かった。校門を出るまでの間、翔の小ぶりの背中は大吾の怒気を孕んだ視線をひしひしと感じていた。
帰り道、翔はいつものように学校近くの亀城公園内を歩いた。土浦市は桜の街で知られており、春になると公園内は鮮やかに彩る桜の花びらが公園内を艶やかに舞う。夏は青々と茂った木々や花畑、小鳥の囀りが棲んだ心をいつでも浄化してくれる。今日はどこまでも続く青空のせいか、公園内を行き交う自転車や歩行者がいつもより多く感じた。
「おーい! そこのしょぼくれた背中の男―!」
背後から明るい声色でおそらく自分を蔑んでいるであろう声が聞こえた。
翔はこの声の主をよく知っている。
「今日はバスケ休みなの、美織? あと別にしょぼくれてないし」
「そう! 休み休み! さっきまでクラスメイトの惚気話聞いてたら、こんな時間になっちゃって。男バスでイケメンの小山くんのLINEのID聞けた! ってテンションめっちゃ高くてさ──」美織は突然言葉を止めた。
「ん? どうしたの?」翔は首を傾げる。
「翔、今の話、全然興味ないでしょ?」
「あれ? ばれてた?」
「何年翔の幼馴染やっていると思ってるの」
「七年くらい?」
「よくご存知で」
小山内美織は駆け足で翔の横に並ぶやいなや、くるっと翔の正面に回り込み持ち前の大きな瞳で翔をじっと眺めた。黒髪のショートヘアが風に靡いて仄かにいい匂いがした。
「ん? なんか僕の顔についてる?」
「別にぃ。なんかしけた顔してるなぁって思って」
「余計なお世話だよ」
翔と美織はしばらくたわいもない話で談笑しながら公園を抜けると、国道沿いの歩道を歩いた。忙しなく走り抜ける自動車が騒がしく、二人をどんどん追い越していく。
「それにしても大吾のあの言い草はないよねー」
美織の言葉に翔は軽くドキッとした。
「え、見てたの?」
「偶然ね。私も帰るところだったから」
「そっか」翔は、はぁとため息をついた。
「翔も良い加減、許してあげたら? もちろんあの件に関しては大吾が一方的に悪いと思うよ? あいつもあんなこと言っているけど、反省していると思う。ガキだから素直に謝れなくて意地になっているだけだよ。翔だってサッカーやりたいんでしょ?」
「だとしても僕はまだ大吾と素直に話す気になってなれないんだよ」
翔はそう言って、唇を固く結んだ。
美織は、はぁと深くため息をつく。
「男って本当に面倒臭い。あのさ、翔って結構頑固だよね。気付いてる?」
「……」
「なんか言え!」
「いてっ!」
翔の頭部に美織のこぶしが振り下ろされ、あたりに鈍い音が響いた。
翔は美織と別れ、真っ直ぐ家路に着いた。
翔と美織は幼馴染ということもあって、二人の家はとても近所にある。翔は自宅である六階建てマンションにたどり着いた。
おじいちゃん管理人に軽く会釈して、エレベーターに乗り込む。四階の角部屋が折原家の住まいだ。家族四人暮らしでも十分な広さだが、翔はこのマンションに父である折原涼太と二人暮らしをしている。
翔は涼太が仕事から帰って来るまでの間に、いつもしているルーティーンワークの準備を始めた。
動きやすい格好に着替え、サッカーのスパイクを履く。そしてサッカーボールとスマホを手に取ると、マンションの隣に隣接する、広々とした公園に向かった。そこの公園には通常の公園ではあまり見かけないサッカーゴールの枠がペイントされた大きなベニヤ板が設置されている。今日もそこに先客はいなかったため、翔はほっとした。
翔は慣れた手つきでスマートフォンに入っている動画投稿アプリを起動する。今日のお手本は翔が大好きなサッカーチーム、マンチェスターシティの選手だ。翔はこの公園で毎日涼太が帰ってくるまでの間、ボールを蹴ってコツコツと技術を磨いていた。
最近はもっぱら自身のスマートフォンで有名サッカー選手のプレー映像を見て、その模倣をするといった方法で練習に取り組んでいる。頭の中で仮想の対戦相手をイメージし、巧みなフェイントでその相手を交わし、これまた仮想の味方をイメージしてベニヤ板のゴール付近にその味方が走り込んでいることを想像しゴール目掛けてパスをする。時にはシュートまで持っていく。これを繰り返す。
翔は今、どこのサッカーチームにも所属していない。個人練習を地道に続けながらも、練習や試合で仲間と一緒にプレー出来ない現状にやるせなさを感じていた。しかし、こんな気持ちを抱いてもなお、昔と同じように大吾のいる土浦ユナイテッドFCに戻ろうとは思えなかった。あの一件によって生じた溝はそう簡単に修復出来るようなものではない。
しばらく練習して、ふと視線を上げると西の空に太陽が沈みかけていた。暖かな西日が翔の目をほんのりと射す。もうこんな時間かと思った時、公園の入り口の方に人の気配を感じ、翔はそちらに目を向けた。
「翔、ただいま。今日もやってるな」
視線の先に仕事から帰ってきた涼太が立っていた。
涼太は短髪で細身の出立ちで、若干、童顔であるせいか、今年で三十八歳のはずだが、もう少し若く見える。チノパンに半袖のワイシャツを身にまとい、背中には薄い黒のリュックを背負っている。涼太の職場である土浦市役所はクールビズ期間真っ只中であり、今の時期はこんなラフな格好でも許されるのだ。
「お父さんおかえりなさい」
翔は練習を切り上げて、涼太と共に家に戻った。家では涼太が翔の大好きな生姜焼きを作ってくれた。翔が生まれてからずっと折原家の料理担当は涼太だったため、涼太の料理の腕前は調理師顔負けのレベルだ。一方、他の家事はからっきしで、掃除や洗濯は翔の役割となっている。そうして二人でうまく役割分担をしながら協力して家事をこなしていた。二人は出来立ての生姜焼き、ごはん、熱々の味噌汁を食卓に並べ、席に着いた。
「翔、サッカー上手くなったなぁ。ドリブルのキレもだいぶ増したんじゃないか? 今度お父さんとも勝負してみようや。まだまだ俺も負けないぞ」
食事をしながら涼太は翔に話しかける。
「ありがと。でもお父さん学生時代すごい活躍してたんでしょ? さすがにまだ勝てる気がしないよ」
涼太は高校と大学時代サッカー界ではかなり名を馳せた選手だった。高校では強豪校ではなかったにもかかわらずチームをインターハイ出場一歩手前まで導き、十九歳以下の日本代表候補にも選出されたらしい。
だが、高校卒業後は地元国公立の筑波大学に入学し、大学でもサッカーをし続けたが、プロにはならず地元の地方公務員となった。サッカーを職業にするつもりはなかったらしい。昔なぜプロにならなかったのかと翔は涼太に聞いたことがあるが、サッカーは趣味でい続けたほうがずっと好きでいられるからと言っていた記憶がある。
「翔は今の小学校のサッカークラブにまだ戻るつもりはないのか?」
翔の箸を持つ手が止まる。
「うん」翔は俯きながら答えた。
「だったら……距離はあるが、隣町のクラブチームに入らないか? お前の実力ならセレクションも通るはずだ」
翔と涼太が住む土浦市では各学校にサッカー少年団があるが、クラブチームとなると隣町まで行かなくてはならない。そういったクラブチームは誰もが入れるわけではなくセレクションと呼ばれる入団試験に合格した実力者のみがチームの一員になれる。
「行きたいけど、往復で二時間近くかかるし、小学生には現実的じゃないでしょ。僕なら大丈夫。クラブチームは中学に上がってから考えるよ」ぎこちない翔の笑顔に涼太は眉尻を下げる。
「そうか。お父さんが隣町まで送って上げられればいいんだが、仕事上それも難しいし……」
「わかってるよ」
「ごめんな」
二人の間には、若干の沈黙が生まれた。つけっぱなしにしていたテレビでは天気予報が流れている。茨城県の女性アナウンサーが淡々と情報を伝えてくれていた。土浦市の明日の天気は晴れのようだ。
「明日、晴れだってさ。よかった。明日は大切な日だからな。今日は早く寝て午前中には出かけよう」
「うん、そうだね」
明日は八月三十一日。翔の十歳の誕生日だ。そしてさらにもう一つ、この日が翔と涼太にとってとても大切な日である理由があった。
翔は後方を振り返った。リビングの端に小ぶりの棚が置いてあり、その上に涼太と一人の女性が写っている写真が立て掛けられている。その女性の名は折原琴音。翔の母、涼太の妻である。
八月三十一日は琴音の命日であった。
折原 翔
二〇二三年八月三十一日
ギラギラと睨みつけるような太陽の強い陽射しが降り注ぎ、アスファルトには陽炎が生じている。今日もあちこちで虫達の声がさざめきあっていた。
午前十時半頃、翔と涼太は琴音の墓石の前に辿り着いた。
翔の目の前にある墓石は周りの墓石たちと比べると少々小ぶりであり、お金をかけた立派な墓石とは言えない作りではあるが、私のお墓にはお金をかけないでほしいと、琴音たっての希望であったことを翔は涼太から聞いていた。
墓前には琴音が好きだった紫苑の花とリンゴ、パイナップルを供えた。
翔は一歩下がって、両手を重ねると、目を瞑り、故人を想った。
琴音が眠るお墓があるこの霊園は翔の自宅から車で二十分ほど進んだ先にあり、周囲は緑の草木が生い茂っている。
高台に位置するこの霊園からは土浦市の街並みを見下ろすことが出来き、さらに、今日のように天気が良いと遠くに亀城の荘厳な姿を視界に収めることが出来た。
十年前、琴音は翔を出産した数時間後に亡くなった。死因はがんだと聞いているが、詳しいことは知らなかった。というより知ろうとしちゃいけないんだと思っていた。
翔が保育園に通っていた頃、お迎えには他の友達はほとんど母親が迎えに来ていたが、うちは毎日父親のお迎えだった。運動会では涼太と父方の祖母とたまに母方の祖父母が応援に来てくれていた。
もちろんそれはとてもうれしかったのだが、周りの友達はみんな、母親と父親が応援に来ている。これまで涼太と二人でずっと暮らしてきて特に辛いと思ったこともないし、それが当たり前だと思っていたが、この頃には、なんで自分には母親がいないのかと翔は疑問に思うようになっていった。
ある時、翔は涼太に対し、「なんで僕にはお母さんがいないの⁉︎ お母さんはどこにいるの⁉︎」と語気を強めて質問したことがあり、その時、涼太は目に涙を浮かべながら、翔のお母さんは天国にいるんだと教えてくれた。当時の翔は天国がどういうものなのかわからず「じゃあ天国に行けば会えるの? どうやったら天国に行ける?」と繰り返し質問し、涼太をひどく困らせた記憶がある。
涼太は「ごめんな」と仕切りに翔に謝り続けていた。当時の涼太の悲哀に満ちた表情は未だに翔の脳裏に焼き付いている。
翔はこの頃から、母の話をしてしまうと涼太を困らせてしまうのだと、もう父をこれ以上悲しませていけないんだと思うようになった。
翔は涼太に母の話題を出すことを自ら封じたのである。
また、これは後々になって涼太から聞いた話なのだが、翔が三歳の頃まで家には琴音の仏壇があった。翔はその仏壇に飾る彼女の写真を見る度に泣いていたのだという。物心もついておらず、会ったこともない母を想って泣いていたのだ。当時のことはよく覚えていないが、幼い自分なりに何か感じるものがあったのかもしれない。
その様子を見るに見かねた涼太は、仏壇を彼の実家に移し、家には結婚当初の涼太と琴音が笑顔で写っている写真を飾ることにしたらしい。それから翔はその写真を見るたびに笑顔を見せたのだとか。自分でもそれはなぜかはわからない。
翔が涼太へ母の話題を切り出すことを意図的に止めるようにして以降、逆に彼の母への想いは日ごと膨らんでいっていた。
あの時からもうかれこれ五年の月日が流れた。まだまだ自分は子供だが、あの頃の幼い自分よりは分別がついていつもりだ。
お母さんのことを知りたい──。
その溢れんばかりの想いを胸に、翔は意を決してこれまで閉ざしていた重い口を開こうとした。
その時、涼太が翔に目をやり、口を開いた。
「翔……間違っていたらごめんだけど……」
「ん?」
「無理してない?」
「え?」
「お母さんのこと、俺に気を使って、あえて何も聞かないようにしてないか?」
「え……」
思いがけない父の言葉に翔は少々面食らった。すべて見透かされていたんだと、幾ばくかの恥じらいが胸をかすめる。
「ごめんな。そんな想いをさせちまっていたなんて。気付くのが遅くてごめん」
「別にお父さんが謝るようなことじゃ……」
「いや、謝ることだ。翔はずっとお母さんがどんな人だったのか知りたかったはずだ。そうだろ? 俺は翔に気を使わせて、その機会を奪ってしまっていたんだ。翔、もう気にしなくて良い。お母さんのこと、なんでも俺に訊いてくれ。すべて答える」
涼太は翔の肩にポンと手を乗せ、そして柔らかい笑みを浮かべた。どこか覚悟を決めたそんな顔にも見えた。
いざなんでも訊いて良いと言われると、何から訊いていいのかわからなくなり、翔は少し困惑した。訊きたいことなんてたくさんある。あり過ぎて翔の質問の引き出しはパンパンに詰まっている。
少しだけ考えて、ちょっと間を置いた後、「お母さんって、どんな人だったの?」とひどく漠然とした質問を投げかけてしまった。最初の質問がこれかよ、と翔は心の中で自身にツッコミを入れた。しかし、涼太はすぐに答えてくれた。
「うーん、そうだなぁ……笑顔が素敵でとても明るい人だったな。お母さんの周りにいる人は自然と笑顔になっていたんだ。ちょっとおっちょこちょいなところもあって変に頑固なところもあったけど、お父さんは何度もお母さんに勇気づけられた。ずっと支えてくれた。それでいて俺には不釣り合いなくらいにすごい美人さんでな。大学では、すごいモテモテだったんだぞ」
「……そ、そうなんだ」
嬉々として早口に琴音のことを話す涼太に翔は目を丸くして驚いた。父は母のことが本当に好きだったなと思う一方で、そんなに好きだった女性を亡くすことはどれだけの絶望と悲哀があったのだろうかと、当時の涼太を想い、翔は胸が痛んだ。
次に翔が涼太に質問しようと思い浮かんだのは、父と母の馴れ初めだった。二人はいつどこで出会い、どうして結婚しようと思ったのか。それを知ることで、自分の知らない母の輪郭がより鮮明になるのではと翔は考えたからだ。
だが、両親の馴れ初めとなると少々気恥ずかしい気持ちにもなり、この件に関しては今度聞こうと、この場では差し控えることにした。
午後に近づくにつれ、日差しの強さが徐々に増して良き、のどの潤いが失われていくのを翔は感じた。霊園から徒歩五分の距離にコンビニがあるため、涼太はジュースを買いに行ってくれた。すぐそこの管理棟に自動販売機があると言おうとした時には涼太はすでにいなかった。涼太はこういう少しそそっかしいところがある。
翔は涼太が戻ってくるまでの間、生い茂った樹によって日陰が出来たベンチに腰を下ろし、涼太の戻りを待つことにした。
夏の暑さに頭がぼーっとしてくる。翔は目の前の墓石が立ち並ぶ景色をただとりとめもなく眺めていた。暑さには堪えるが、自然の中で何も考えず佇むこの時間は案外悪くないと感じていた。
するとその時、砂利を踏みつける音とともに誰かが近づいてくる気配がした。瞬時に涼太が戻ってきたと思ったが、それにしても早過ぎるような気がする。気配の先に視線を送ろうとした時、聞き覚えのない声を翔の左耳が捉えた。
「どうも、お初にお目にかかります」
少々甲高い、若干の不気味さもまとった声だった。
恐る恐る声のした方へ振り向いた時、翔は目を剥いて、思わず息を呑んだ。
そこには、英国紳士風な黒色のシルクハットを被り、真夏にもかかわらず真っ黒な厚手のロングコートで、アウトドアでも使えそうな大きな茶色のリュックを背負った男が立ってこちらを覗き込んでいた。もちろん全く知らない人だった。
突然の来訪者に翔は面食らったが、危害を加えて来るような気配は感じなかった。
翔は、一呼吸置き、恐怖心を必死に押さえながらも目の前に佇む男の外見をさらによく観察してみることにした。髪は明るめのベージュカラー、アフロに近いほどきつめのパーマで耳が隠れるほど長い。ロングコートの隙間から垣間見える足は妙に細い。中でも一番目を引いたのは、顔。真ん丸の大きな瞳と三日月型に弧を描いたような笑みが黒く描かれている。顔は白色で綺麗にコーティングされている。
これは明らかに……そう、『お面』だ。『仮面』といった方が適切かもしれない。
白昼堂々良い大人が怪しげな出達で不気味な仮面をかぶり、十歳になったばかりの子供の眼前に佇んでいる。仮面に描かれたまん丸の目の奥にあるであろう実際の瞳は目視出来ない。どうやって視界を保っているのかすら不思議に思う。
翔はこんなにも怪しいという言葉を具現化したような男をこれまで見たことがなかった。不審者以外の何物でもなく、恐怖心が一気に翔を覆ったが、持ち前の冷静さで徐々に落ち着きを取り戻し、驚きのあまり行方不明になっていた声帯を呼び戻し、翔は思い切ってこの怪しい男に話しかけてみることにした。
「あの……どちら様ですか?」仮面に描かれる大きな黒い瞳がじっと翔を見つめている。得体のしれない緊張感に翔の体はこわばる。
「ふふ。これはこれは……驚かせてしまい申し訳ございません。お初にお目にかかります。私、エリオよろず店というお店の店長をやっております、名をエリオットと申します。みんなからはエリーと呼ばれています。以後お見知り置きを。今日はあなたにぴったりの商品をお見せしようかと思いまして、こちらにやってきた次第であります。ふふふ」
翔はこの男の不気味な笑い声に背筋が硬直し、怖気を振るった。この男が何を言っているのかよくわからなかった。
初対面の子供にこんな饒舌に営業トークを持ちかけてくる大人がどこにいる。
しかもエリーって……何人だよ。
怪しさに拍車がかかるが、全く普通とは思えないその見た目と、それとは相反する丁寧な言葉遣いのせいなのか、徐々に翔の脳裏では『怖い』よりも『気になる』という感情に天秤が傾き、翔はエリーと名乗るこの男の言葉に応答して見せた。
「あの、急になんですか? それにエリオよろず店? 僕、聞いたこともないんですけど……」
エリーは即座に返答する。
「ふふふ。よろず……それはすなわち、ありとあらゆる色んなものを取り揃えているという事です。あなたのご希望にもきっとお応え出来る素晴らしい商品をご紹介出来ると思いますよ。ご紹介させていただいてもよろしいですか?」
翔はじっとエリーを眺めた。
見た目から発言から何から何までやっぱり怪しいし、怖い。
先程は『気になる』という感情が勝った翔の心の中の天秤が『怖い』側にまた一気に舵を切った。
今度学校の図工の授業で『怪しい』や『怖い』という言葉を絵で表情してみましょう。というお題があったとしたらきっと真っ先にこの目の前の怪しい男の姿を描くことだろう。まさに怪しいを絵に描いたような出で立ちのこの男に、翔の恐怖心は再熱し咄嗟にベンチから立ち上った。
「ちょっとお父さん呼んでくるので」咄嗟に口から言葉がこぼれた。
実際はこの場から逃れるための口実だった。背中にじっとりと汗が滲む。
翔がそそくさとその場から離れようとした時、背後からエリーがぽつりと彼に聞こえるギリギリの声量で呟いた。
「お母さん、死んじゃったんですよね? お母さんとお話したくないですか?」
翔の脳は一瞬にしてフリーズし、あらゆる思考回路が停止した。世界がぐにゃりと歪む感覚に襲われる。訳が分からなかった。実際の時間は二秒程度の沈黙だったが、翔の体感時間では一分近く世界が停止していたかのような錯覚に陥った。
「……は?」
翔は自分の意思とは関係なく口から声が漏れるという初めての経験をした。フリーズしてしまった脳の代わりに声帯の自我が芽生え、翔の気持ちを瞬時に代弁したかのようだった。
翔は停止してしまった思考を精一杯巡らせ始めた。
なぜ……この男は僕の母親が亡くなっている事を知っているんだろう。お父さんの知り合い? いや、こんな怪しい男をお父さんが知っているとは思えない。知らないけど。じゃあ何故……? 隣の部屋に住むおしゃべりおばちゃんが近所のおばさん方が集まる井戸端会議で漏らした?
いくら考えても推測の枠を出ず、当然このまま続けても明確な答えに辿り着くことは一生なさそうだった。
翔は動転する気を必死に落ち着かせ、ゆっくりと深呼吸した。少しずつ正気を取り戻していく。
落ち着け、大丈夫。
翔はもう一度、エリーの言葉を頭の中で反芻してみた。
『お母さん死んじゃったのですよね? お母さんとお話したくないですか?』……ん? 『お母さんとお話したくないですか?』だって?
まるで死んだ母と当たり前のように会話出来ますといった口ぶりだ。
そんなことは到底無理なことくらい小学四年生でもわかる。それくらいの知恵はある。そんな世の理を根本から覆すような事象はこの僕らが生きる世界には存在し得ない。あっても漫画や絵本の世界の話だ。
翔は徐々に怒りが湧いてきた。もしこの男が自分に母親がいない事を何らかの事情で知ったとして、死んだ母と話せるという戯言を信じ、奇跡を目に浮かべ浮かれ狂う姿を嘲笑しにきたのだと想像した途端、エリーに抱いた恐怖感は消え失せ、圧倒的な憤怒が彼を覆い尽くした。
翔は踵を返し、エリーの顔を鋭い眼光で凝視した。
「何を言っているの? あなたは僕のお母さんを知っているの? それにお母さんとお話だって? ふざけているの? それとも僕をバカにしに来たの?」
翔は怒りのこもった言霊をエリーにぶつけた。
当然翔は母に会いたいし、話がしたいと思っている。もしそれが夢ではなく実現可能なことならどれだけ幸せなことか。だが、そんなことは絵空事だ。
母はもうこの世にいないのは紛れもない事実なのだから。
翔は見ず知らずの怪しい男が勝手気ままに自分の感情を揺さぶってくることがどうしても許せなかった。
しかし、エリーはそんな翔の言葉を受けても微動だにしない(そもそも仮面をつけているから表情なんて読めないのだが)。それどころか仮面に描かれる口角の上がった口にシンクロしているかの如く不敵で不気味な笑い声を発し始めた。
「ふふふ、ふざけてもバカにしてもいませんよ。細かいことは気にしちゃいけません。私がこちらに来た理由は一つです。あなたにぴったりの素敵な商品を売りに来たのです。お見せしても?」
翔は相も変わらずエリーを睨み続ける。それでも構わずエリーは背負っている大きなリュックに手を伸ばしガサゴゾと何かを取り出し始めた。そして翔の目の前に『それ』を運んだ。
「これを使えばあなたはお母さんとお話することが出来ます」
エリーがリュックから取り出したのはなんの変哲もないノートだった。見たところ普段学生が使う大学ノートと同じもの。
翔は眉をひそめ怪訝な表情をのぞかせた。
「このノートが一体なんなんですか?」
「このノートは『時を越えるノート』と言います。あなたのメッセージをあなたのお母さんに届けてくれます。時を越えて……ね」
翔は奮然たる様相を呈し、握っていたこぶしにさらにぎゅっと力を加えた。息はかなり荒々しくなっていき、思い切り奥歯を噛みしめて、口を開いた。
「いいかげんにしてよ……揶揄っているの⁉︎ そんなこと無理だって僕にだってわかる! バカにするなよ!」激昂する翔をよそにエリーは変わらずいたって冷静沈着だった。
「揶揄ってなんかおりませんよ。私は大まじめにあなたと向き合っています。信じられないなら一度試してご覧なさい。気に入らなければ、返品していただいても結構です」
翔は少しずつ息を整えていった。ふざけた見た目でふざけたことをいうこの男を全面的に信じたわけではないのだが、一貫してブレないエリーの言葉には妙な現実味を感じさせる。翔はエリーとの会話を続けた。
「お金は? ……僕お金持ってないよ」
「ふふふ。お金なんかいりません。ただし、代わりの対価が必要となりますが」
「?」
「『寿命』を二年間ほど頂く。それが対価となります」
「……は?」聞き間違いか? 今なんて……
「あの……ごめんなさい、良く聞こえなくて。えっと……」
「『寿命』。それがこのノートの対価だと言っているんです」
「⁉」
聞き間違いではなかった。この男は確かに寿命と言った。翔は表情こそ大きく変わらないが脳内はパニック状態だった。
とある漫画で読んだことがある。人の寿命を刈り取る異形の存在。人非ざる者。この男は世に言う死神なのか……。そもそも見た目だって常人の姿ではない。人ではなく死神の方が俄然納得がいく。
全身の汗が毛穴から吹き出し、着ていたティーシャツが肌にぴったりと纏わりつく。自然と足は後ずさりを始めた。翔の本能がこの男から離れろと叫んでいるようだった。
「何をしてるんだ? 翔?」
翔はハッとして、目を見開いた。
毎日聞いているとても耳馴染みのある声が聞こえてきた。振り返るとマイバックにアイスやらジュースやらをパンパンに詰め込んだ涼太が立っていた。怪訝な表情でこちらを見ている。翔は咄嗟に声が漏れ出す。
「お父さん! なんかここにおかしな人がいて……」
「ん? ……そんな人どこにいるんだ?」
「え? 何言っているのさ。ここに……あれ?」
翔が振り返るとそこにはさっきまで薄ら笑いを浮かべていた怪しい男は忽然と姿を消していた。
「誰もいないじゃないか。というか遠くからも翔の様子が見えていたけど、ずっとお前一人しかいなかったぞ?」
翔は慄然とした。そんなはずはない。確かに自分はエリーと名乗る異様なほど怪しい男と対峙して会話をしていた。しかし、涼太にはそもそも見えていなかった。
死神……。怪しい出達。寿命を欲する。忽然と消える。死神の定義を知っているわけではないが、あらゆる要素が翔に人非ざるものの存在を信じこませるには十分すぎるほどだった。翔は胸の底がざわざわと騒ぐ感覚を覚え、その場に立ち尽くすしかなかった。
「ん? なんだこれ?」
涼太は翔の背後の地面を指さした。
翔は涼太の言葉にハッとなり、彼の指が指し示す方へ目をやる。そこには先ほどエリーがリュックから取り出し、見せてくれたノートが落ちていた。
「あ……」
「ノート……落とし物かな?」
「あ、お父さん。それ僕のなんだ。僕のリュックに入れて置いたんだけど、落としちゃったみたいだ」
「お、そうか。気を付けろよ」
「うん。ありがと」
翔は咄嗟に涼太に嘘をついて、ただの大学ノートにしか見えない『時を越えるノート(?)』をそそくさと拾い上げ、自分のリュックにしまい込んだ。
「さぁ、帰るぞ! 今日は翔の好きな父さん特製シーフードカレーを作るからな! ケーキもあるぞ! なんたって今日は翔の誕生日だからな」
「あ、ちょっと待ってよ!」
翔はこの数分間で生じた、じっとりと纏わりついてくる疑念を振り払うかのように頭を横に振り、先を歩く涼太の元へ駆け出した。
家に戻った翔は、リュックに閉まっていた『時を越えるノート』をそっと自分の部屋の机に置き、腕を組んで黙考していた。
その場の勢いで咄嗟にノートを拾って家まで持ってきてしまったが、翔はもちろんこのノートの効力を百パーセント信じてはいなかった。
だが、あのエリーと名乗る死神と思しき人物の異質さと、涼太には彼が見えていなかったという不可思議さが、翔の現実的な思考を遮り、ほんのわずかながらエリーが言っていた、時を越えるというSFじみた力に可能性を感じてしまっていた。
案ずるより産むが易し、とも言うし。
とりあえず、やってみようかな……。まさか死ぬわけじゃないだろうし。
翔はノートを開いてみた。中も一見何の変哲もないどこにでもあるノートのように思える。
翔は軽く宙を見上げてあれこれと逡巡し、ペンを動かし始めた。
『お母さん。はじめまして、なのかな? 僕はあなたの息子の翔(かける)と言います。歳は今日で十歳になりました。お母さんはお元気ですか?』
「……何やってんだろ、僕……」
琴音へのメッセージを書き終えた翔は我に返ったように、ぼそっと呟いた。
当然のことながらノートには何も変化は見られない。
そりゃそうだ。何をちょっとワクワクさせられてるんだか。あほくさい。
翔はふんと自分自身を鼻で笑ってみせた。
すると次の瞬間、ノートはうっすらと光を帯びたように見えた。
「え?」
気のせいだろうか? 何度か瞬きをしている間にもうその光はなりを潜めていた。
先ほど翔が記入したノートのページを開いてみたが、一切変わりはない。釈然としないが、翔は気のせいだったと思うことにして、パタンとノートを閉じた。
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