漠北雙妃伝――蕃と和す公主

はじめまして、わらわのいとしい姪御めいごさん。


涙で化粧が崩れるくらいのほうが、かわいげもあろうというものよ。ようこそ、この漠北ばくほくの地に。まずは長旅、おつかれさま。


妾は漢姫かんき――そう名乗ると、あなたと同じになってしまうのよね。では、寧子ねいし、と呼んでくれればいいわ。大丈夫、ここでは漢土かんどと違い、名をことさらに避けようとはしません、慣れるためにも、今からでも妾のことを、寧子とお呼びになってみなさいな。


あなたはここからフンナ(匈奴きょうど)を統べる王、大いなるルジャンク(老上単于ろうじょうぜんう)の宗族となります。フンナは血筋を重んじこそしますが、それ以上に重んじるのは、手腕。あなたがこの異国で生き延びられるよう、手助けをできれば、と思います。そのためにも、少しばかりの昔話に付き合ってもらえるかしら。


 ○  ○  ○


改めて名乗りましょう。私は劉寧子りゅうねいし。あなたのお父上、つまり、いまのみかどの姉にあたります。あの引っ込み思案なこう坊がみかどになるなんて、めぐり合わせの不思議を感じるのだけど――まぁ、それは余計なことね。


かん帝国を打ち立てたわが父、高皇帝こうこうてい


内外をその闊達かったつさで取りまとめたとは言われていますが、私にとっては、ただの恐ろしき存在でしかありませんでした。臣下を見るときの輝かしいまなざしが、子どもたち、ことに娘たちを見るときには、無となるのです。まともに言葉をかわした記憶もありません。ですので、何をお考えなのかもわからなかった。

その高帝のまなざしに、一度だけ、色を感じたことがあります。漢軍がフンナの先代王、大いなるバータル(冒頓単于ぼくとつぜんう)との戦いにて敗北を喫したあとです。


あなたも知っての通り、漢は敗北後、フンナを兄と仰ぐよう強いられた。そして妾やあなたのような、確かな血筋の娘を嫁に出すよう命ぜられました。


妾のときには、誰を嫁に出すかで大いにもめた、と聞きます。そして最終的に妾を出す、と決まったとき、高帝は、さも妾こそが憎き敵そのものであるかのようなまなざしを向けてこられたのです。


故郷に未練がなかった、といえばうそになります。けれど、それ以上に高帝より離れたかった。だから妾はさほど迷わず、フンナ入りを受け入れました。妾の抵抗を予想したのでしょうね、高帝は肩透かしを受けたかのような面持ちとなり、それからすぐに無の笑顔をお浮かべになりました。


「そうか、そうか! おまえならうまくやれようさ!」


それが高帝より賜った、唯一のお声がけらしきお声がけです。


 ○  ○  ○


高帝が、「兄」のもとに娘を嫁がせる。


まがりなりにも天下の主が、その上座に在る者に対して礼を尽くすのです。ならばその輿入れには、多くの財貨と人員とが費やされました。妾の北土入りを目の当たりとし、大いなるバータルは苦笑なされたと聞いています。そして輿入れの品の多くは臣下への下賜品かしひんとなったのだとか。


私たちを出迎えた天幕「ゲル」の数々には、何よりもその彩りの鮮やかさに驚かされたもの。そして何よりも圧倒させられたのは、王が住まうゲルの壮麗さ。もっともあなたが見た、大いなるルジャンクのものに比べれば慎ましやかではあったのですけどね。いま思えば、先王は、質実を重んじる方でいらっしゃったから。


フンナの男は、強さを尊ぶ、そう耳にしておりました。なので先王を初めて目の当たりとしたときには驚いたものです。真っ先に思ってしまったのが、美しい、だったのでね。


それは孤高の狼が備えるようなものだったのでしょう。ひとたび眼光に射られでもすれば、それだけで殺されてしまったかのよう。立ちすくみかけましたが、けれど妾は「弟」の名代として寄越されたようなもの。気を取り直し、あいさつをなしました。


両手を前に、手のひらをこちらに向け、握りこむ。

額の高さにまであげて拱手きょうしゅし、深く頭を垂れる。


沛郡はいぐん劉邦りゅうほうが娘、劉寧子と申します。兄たるフンナのもとに身を寄せる光栄を賜りましたことを歓びつつ、フンナと漢家とをこの身一つにて繋ぎ上げる大任を、いかほど勤め上げられますやら。この不明の身、お導きくださりましたら幸いです」


「子をなせ。交わる血が、絆を繋ごう」


先王より賜りましたお言葉は、これのみ。侍従らはその無礼に立腹こそしておりましたが、妾としてはこの位だろう、と感じておりました。

生まれが生まれです。高帝の臣下よりかしづかれるのが常ではありますが、「上の者」より粗末に扱われるのなど、今に始まったことでもありません。


それに、ここから妾が仕えるのは、先王ではありませんでしたから。

色濃くお父上の面影を残されるものの、北地には見合わぬ優美さをまとわれたお方が、先王のそばより進み出られました。


「美しき漢の姫よ。よくぞ遠方までお越しくださった。大いなるバータルの子、メドレグと言う。この縁をきっかけとし、より漢土の友を知れればと思う。またあなたにも我らを知っていただければ、これにまさる喜びはない」


歓迎の宴が始まれば、そこで奏でられる音楽、披露される歌や踊り、提供される酒や食事に至るまで、全てが目新しいものばかりでした。ここはぜひ、あなたにも楽しんでほしいものです。


その中にあり、妾とメドレグ様は大いに話し、笑いました。人々の目をはばかることなく楽しめることの、なんとも心地よきこと! あわせてメドレグ様がどれだけ妾を大切にしたいか、の思いをも受け取るのです。


宴が進むと、酒の回ったメドレグ様が妾の目を見つつ、仰りました。


「漢姫、いや、寧子どの。われらは南北の雄がために結び付けられる仲。睦まじくあるべきでこそあるが、それが叶うかどうかは当人同士の性状にもよろう」


そこで言葉を切られると、メドレグ様は目線をそらされます。


「……こ、こう。その、この先。ね、寧子どのとであれば、私もうまく暮らせるのではないか――と」


先ほどまでの、堂々としたふるまいはどこへやら。

もっとも、メドレグ様は妾より年少であらせられました。ならば、むしろ妾が導くべきなのでは、とも思わずにおれず。なので真正面より、自らになせる、いちばんのほほ笑みを浮かべます。


メドレグ様は顔を真っ赤にこそなされましたが、咳払いを一つ、きり、とそのお顔を引き締められました。


「ならば、この身にて証してみせよう。いかほど私が、あなたを求めているのかを」


ひとたび言い切れば、先程までの狼狽はどこへやら。

立ち上がるメドレグ様を、楽士らがはやし立てます。参列者が歌い、楽士らはその演奏をますます盛んなものとされる。


宴の場、その中心に進み出、メドレグ様は巧みなる足踏みを、楽師らの奏でる音に合わせてまいりました。


「アッ!」


その、ただ一言が。

ややまちまちであった奏者たちの音を、ひとつに束ねた。


フンナの踊りは、よくわかりませんでした。けれども妾はメドレグ様の一挙一投足から目が離せなくなってしまいました。

おそらく、ああいったときの気持ちを、いにしえの人は「君子にまみえ、どうして心穏やかでおれようか」と歌ったのでしょうね。


メドレグ様の踊りが終われば、場内からは万雷の拍手が響き渡るのです。


額に汗を浮かべ、息を切らせ、目前に歩み寄られるメドレグ様。思わず妾は顔を伏せてしまいました。なぜでしょうか、見せるわけにはゆかぬ、と思ってしまったのです。


「つれなくなさるものだ。いや、それも漢土なりの駆け引きでおられるのかな」

「いえ、そんな……」


そう口ごもる妾に、メドレグ様は盃を差し出してこられました。

顔は見れずとも、盃ならば。手近なところにあった酒壺を取り、注いでみせれば、辺りがわっと歓声を上げました。


その一杯をぐいと飲み干され、どっかと隣にお座りになる。ちらとお顔をのぞき見れば、口元には、笑みが浮かんでおられる。


「思いがけず、熱がこもってしまった。いま少し泰然としたところをお目にかけたく思ったのだが」

「とんでもないこと。見とれてしまいましたわ」


間髪をおかず返した、その言葉。

メドレグ様以上に、他ならぬ妾自身が驚いたもの。


そこにフンナの貴人らがわっと押し寄せ、妾に、メドレグ様に、次々と酌を進めてまいりました。

戸惑いこそしたのですけれど、向けられる笑顔のどれもに、かげりがない。

ふしぎなものです。フンナの地よりもはるかに暖かいはずの漢土にて、あれほどひとの笑みに温かみを感じたことがあったでしょうか。


きさきどのの舞も見てみたいものですな!」


それを、どなたが仰ったのでしょうね。

盛り上がった場での、何気ない一言。今にして思えば、それに応じることもなかったのでしょう。けれど、座にいながらにして舞い上がっていたのか、妾は立ち上がりました。


宴の場にて鳴らされていた鼓や鐘のうち、漢土の舞楽にもなじみそうなものを借り受けました。

側仕えに演目を伝えます。螽斯しゅうし、子や孫の繁栄を願う曲。


妾がひととおりを歌うと、側仕えらが調子を合わせてきます。もう一回りを歌い、その後は側仕えらに歌ってもらいながら、妾は、踊る。


メドレグ様の踊りを拝見し、思ったのです。どう受け入れられるか、は、後でもよい。フンナの前で漢の踊りを見せるのであれば、自らに示しうる最上のものであらねばならない、と。


ひとしきりを踊りきり、これまでにない疲れと、やり切れたという自負を懐きながら――けれど、それがフンナに届ききれなかったことを、いたく感じるのです。


メドレグ様の踊りに、あれだけ惜しみなき拍手を送っていた方々が妾に向けてこられたのは、ごくごくまばらなもの。


仕方のないことだ、とは思っておりました。妾がフンナの踊りを受け入れきれなかったのに、どうしてフンナに妾の踊りを受け入れてもらえましょう。

三連からなる歌を妾が歌い切り、借り受けた鐘の音を合わせてゆきます。そしていま一度、側仕えとともに、歌う。


できる限りのことは尽くした。今でもそう思います。しかし、それでもなお、むしろ戸惑いの強い宴席を前に、縮み上がりそうにはなりました。


そこにメドレグ様が、ひとりお立ちになる。


「漢土の舞い、確かに拝見させて頂いた! その一挙投足に込められた深奥を語るだけの見識を持ち合わせぬこと、まこと申し訳なく思う! なれど、漢の姫よ! そなたの意志は頂戴した! いつかはこの舞にも万雷の拍手を示せるよう、南北の兄弟で歩み合おうではないか!」


メドレグ様のそのお言葉に対して、ではありました。けれども皆皆さま方は惑いを振り払い、ひとり、またひとりと立ち、拍手をくださいました。

このとき妾の顔はいたく火照り、どうにもメドレグ様を見ること叶わずにおりました。


フンナの王、大いなるバータルの子。

その時になり、今更のように妾は、どのようなお方のもとに嫁いだのかを識ったのです。




お姫様には、ここからわらわがよき伴侶を得て幸せになった、と語りたいのですけどね。


あなたは、この地に来てしまったのです。ならば、こう言わざるを得ません。妾らの身に、幸せなど来るはずがありません。言い切ります。ここが、妾らの故郷ではないからです。

言い換えましょう。この地にある幸せは、妾らが知る形をしておりません。


メドレグ様は、この地を知らぬ妾に良くしてくださいました。


なれどフンナの王を継ぐお方として、その素質に求められるべきは、まず、強さ。

輿こし入れして後、幾度となくメドレグ様は出征され、無数の戦功をお挙げになりました。そのたびに先王よりは報賞を賜ったのですが、一方で、戦の主たるはずのメドレグ様が、多くのけがをも負ってこられた。


戦い、勝つことこそが誉れ。それがフンナの習わしであり、けがはむしろ戦勝を彩るもの。そう言い聞かされてしまえば、ゲルで待つしかない妾は飲み込むしかありません。けれどけがの中には、あと指一本ぶん深入りしてしまえば、と思わせるものも少なくはありませんでした。


斯様かよう懸念けねんほど、たやすく形を帯びるものです。


漢土よりすれば、フンナは北土の覇者と見えましたでしょう。なれどいざ懐に飛び込めば、その不見識を笑うべきか、嘆くべきなのでしょうか。


なぜ、北土の民が剽悍ひょうかんであるか。

強いるからです。

大地が、戦うことを。


それは、北に向かえば向かうほど、厳しくなる。


フンナは驃騎ひょうき、それは間違いありません。けれど、厳しき風土をどう生き延びるべきかを考えれば、より厳しき地に住まう者たちが、より刻苦するのは当然のこと。そこを見いだしきれずにいたのは、しょせん妾の目が漢土にしか根ざしていなかったからなのでしょう。


――持って回った言い方をしてしまっているわね、ごめんなさい。今でも、やはりすぐには受け入れきれない傷のようなの。


北土の民との戦いで、メドレグ様は、果てられました。


その頃妾は、メドレグ様のお子をおなかに宿しておりました。いつものように勝ち、お帰りになったメドレグ様を、赤子とともに出迎えられる――そう、考えていたのに。妾がどれだけ取り乱したかは、せっかく授かった子供を流してしまったことこそが、すべてを語るでしょう。


そこから覚えているものは、途切れ途切れです。漢土より付き従ってくれた者たち、フンナの地にて妾を受け入れてくれた方々。そういった中で、なぜかしばしば妾の眼は先王のお姿を認めておりました。


大いなるバータル、フンナを統べるお方。


後に伺えば、先王は妾との接し方にずっと悩んでおられたのだそうです。そう思えば、かわいいお方、とお呼びすべきなのかもしれません。もちろん、それをじかに申し上げることはできませんでしたけどね。


いかほどの時が流れたのか。ふ、と我に返ったとき、妾の頭上に、何一つ遮ることのない星空が広がっていたのを思い出します。


「ようやく落ち着かれたかよ、漢姫かんき


そこに届くは、メドレグ様の声でありながら、メドレグ様にあらざるもの。


振り向けば、いらっしゃったのはキェツィウ様であらせられました。メドレグ様の弟君として、兄に代わり、大いなるバータルの後継としての指名をお受けになったお方。


その後ろに控えるのは兵士――では、ありませんでした。侍官じかん。すなわち、王の身の回りの世話を取り仕切る者たち。


ずい、とキェツィウ様が進み出られます。


「兄を思い、慟哭どうこくを示してくださったこと。尊崇そんすうすべきお方を失ったともがらとして嬉しく思う。増して、そなたは漢土より劫略ごうりゃくされてこの地に赴かれたにも等しい。ならば、兄をこうも慕ってくださったこと、欣喜きんき余りあると申し上げるべきであろう」


さらに迫るキェツィウ様に、思わず妾は身じろぎします。


「な、何なのです? 妾はあなたの兄上の――」

「兄上の奥方、なればこそよ!」


突然の大喝と、わずかに時をおいてからの、舌打ち。


「思った通りだな。そのご様子では、兄より伺ってはおられぬようだ。われらフンナの習わしよ、父や兄の身罷みまかりし後、寡婦かふが子をなしえるのであれば、子や弟が引き受けるのだ」

「そんな、まさか!」


あなたには、少し障りの強い話かもしれませんね。

漢土にては、寡婦が同姓の夫の元に嫁ぐことを忌み嫌っておりました。ならば、そもそもにして亡き夫の血族なぞ、問題外にもほどがある。

漢土の礼を学ばんと心していたはずのフンナが、なぜそうもたやすくそれを踏みにじるのか。あの頃の錯綜さくそうした思いを言葉にすれば、そうなりますでしょうか。


けれども、キェツィウ様のお言葉は端的で、一切の有無をも言わせぬものでありました。


「構わんぞ。産めぬ女は野に捨てる。それまでだ」


戯言ざれごとを仰る口ぶりでも、まなざしでもありませんでした。

キェツィウ様もまた、王の器。それ以外のことは思いつきませんでした。あたかも芯棒を抜き去られたかの如き心地の中、キェツィウ様のゲルに運ばれ、「徳を賜り」、あなたの夫を産んだ。


悲しみ、怒り、恥辱に、無力。尊き子の誕生に周囲が湧き上がる中、妾は表向きを取り繕うのが精一杯でした。


重い腹より解き放たれても、間もなくすればさまざまな仕事に追われるのが、フンナの常。とは申せど、さすがにその日の夜はゆっくりと体を休めることが許されました。


ただし何もせぬからこそ、かえって頭は回ってしまう。さまざまなことが頭によぎります。その中には、「あの日、メドレグ様をどうにかして引き止めることができたならば」などという益体のないものまで、ある。それに気付けば、苦笑とともに涙がこぼれ落つのです。


と、にわかにゲルの外が何やら慌ただしくなってまいりました。聞こえてきたのは「漢姫様は未だお休みで……」といった声。しかも、言い終わるよりも早くに、ゲルの入り口の幕が上がりました。


その向こうにいらっしゃったのは、誰あろう。大いなるバータルでありました。


「あっ……」


こちらからは、ろくな言葉も思いつきません。そんな妾の思いを知ってか知らずか、先王は大股で、ずんずんと寝床の側にまでいらっしゃる。側女をすら退出するよう促し、フンナの王が、どっかと妾の横に腰を下ろされました。


「よくぞ産んでくれた。まずは感謝申し上げる」


腰に帯びる剣を外し、妾のそばに置かれます。


「これは?」

「キェツィウにそなたを抱かせたはフンナのしきたりがゆえ。ならば、そなたが憎しみを向けるべきは、予であろう」


にわかには、受け入れがたいお言葉でした。


大いなるバータルといえば、自らのお父上をしいされた上でフンナを率い、未曽有みぞうの大帝国をお築きになったお方。その烈武、神算、そして果断。いずれを取ってみたところで、およそ人の域にあるとは思われませんでした。

かくも偉大なる王がお掛けになってこられるお言葉とは、どうしても思えなかった。


刀と王とをしばし見比べます。遅まきながら寝崩れを起こしていた髪、着衣を整え、床より降りようといたしました。が、それは王より留められてしまう。


「良い、楽にせよ。王と嫁が話すのではない、フンナと漢人がひとりずつ、ここにあるのみよ」


かしこまり上がり、まともに述べるべき言葉も思いつかず。ただし、身がいまだ重かったのも確か。そのお言葉に甘えさせていただくことにしました。


外の喧騒に耳をそば立たせながら、ふと、王が漢土の唄を口ずさまれます。


なんじさかんたらしめよ、さかんたらしめよ。なんじながいきたらしめよ、ゆたかたらしめよ。黃髮こうはつ台背だいはい壽胥じゅしょと試むべし」

――汝よ、盛んであられよ。豊かであられよ。髪が黄色く、背にふぐのごとき斑紋が浮かぶまでに至った老人らの言葉をよく聞き入れ、祝福し、彼らとともに統治に臨まれよ。

毛詩もうしは、閟宮ひきゅうの名君、僖公きこうの施政を称えるに当たり、長寿の賢人を頼って、よりよく政をなすよう願われた歌。


「不思議なものだ。我らに取り、老いは衰え。迫りくる悪夢でしかない。しかし漢土では違うのだな。老人らの導きを得て、より良き道を探るとは。今ならば、父が漢の理に狂った理由もわからぬではない」


そこから、王はとつとつとお語りになりました――


 ○  ○  ○


そなたも知っておろうが、余は父を殺し、王として立った。父が我らを滅ぼしかねぬ、と目した故である。


父、大いなるトゥメンの治世下、漢土では始皇帝しこうていを名乗った秦王しんおうが死に、各地で戦乱が相次いでいた。これらに捲き込まれることを恐れた漢人らが多く北来し、我らを頼ってきた。南土の異人らは、寄寓の見返りとして財物と、書を我らにもたらした。


はじめは、珍しきもの、としてのみ接しておったのであろう。しかし父はいつしか閟宮のかの箇所を口ずさむようになり始めた。折しもその武幹ぶかんに衰えの見え始めた頃合いであった。


意味するところは見えていた。老いてなお、王位にしがみつき続けよう、と心していたのだ。


老いは武のみならず、その目、その耳、その声をも曇らせる。蒙昧もうまいなる王に率いられ、フンナは生き延びられようか?

あの折の決断を誤ったとは、今も思ってはおらぬ。ただし、余の心、その片隅には、そそぎ切れぬ何かが残った。


我らに取り、老いは敵。なれどそなたらは導き手と説く。しかもそれは古よりの伝承。取り受け入れ難き考えでこそあれ、軽々に踏み潰して良い違いではあるまい。


故に余は、漢王より娘を求めた。漢土の儀礼の粋たるそなたを迎え入れることにより、違いの源を求めたく思ったのだ。


メドレグを通じ、漢土の習わしを学んだ。

改めて双方の考え方の違いに驚いたものだが、一方で、こうも考えた。血族を保ち、栄えさせんと願う思いそのものが、フンナと漢人とで違えてこようか、とな。


漢姫よ。そなたの故郷におけるならわしに基づけば、キェツィウとつがわせたこと、この上なき辱めとなったであろう。あらかじめ知れておれば、あるいは、とも思う。が、既に取り返しのつかぬこと。


南土は、極めて豊かである。キビやヒエ、コメなぞはこの地では根付くことも許されぬ。故に我らは馬を飼い、羊を飼い、そのまぐさを求め、広く大地をめぐる。

我らが動くは、既にそこにあった者らの居場所を奪うことでもある。あるときは鷹、あるときは狼、虎。そしてあるときは、人。


男は戦う。血族を守り通すことが誇りであり、守れぬことが恥である。また去まし日に振るえた力が振るえなくなり、守れたものを守れなくなることに怯え、戦の中にて果てることを望む。我らが老いを尊ばぬ理由は、そこにあろう。

男は血族を守り、死ぬために生きる。故に女には、産むことを望むのだ。一度迎え入れた女は、我らの新たな血族である。次なる世の血族を生み、導くことは、男では叶わぬゆえに。


寡婦かふを、子や弟が引き受ける――我らがしきたりの故を求めるは容易きことではない。が、漢土のしきたりと引き比べれば、かく推し量ることは叶うのであろう。


漢姫よ。そなたは我らに漢土の習わしを教えてくれた、のみならず、次なる世の血族をも産んでくれた。どちらとてこの上なき殊勲しゅくんである。ならば、ここを一つの期となそう。フンナの地にあることが、そなたの意に染まぬのであれば、漢土に戻るもよし。無論、この地に居続けるもよし。どちらに意を定めたとて、我らはそれを重んじよう。


 ○  ○  ○


ひととおりを語られると、先王は静かに退出なされました。後に残された妾は、思いがけぬ長広舌に驚きながらも、いっぽうで、王の深きまなざしに心打たれてもおりました。


そして、ふと過ぎったのは――わが父、高皇帝の凍てつかれたまなざし。


漢土より、父帝より遠く離れたとて、あのまなざしは、常に妾について回っておりました。メドレグ様よりの、キェツィウ様よりの寵をたまわってよりは、思い返すことも少なくなっておりましたのに。


そのまなざしが、大いなるバータルのものに上書きされる。


妾は、いつもの習いで拱手きょうしゅを示そうとし、けれど、ふと思い直すのです。フンナの人々の拝礼は、この形では、ない。


左手を下ろし、右手のみを胸に当て。

すでに去った王に、頭を垂れるのでした。


――時を置かずして、キェツィウ様により、大いなるバータルは討ち果たされました。


ふしぎなことに、妾は深く得心しておりました。

命を賭け、父を超える。強きフンナを統べるとは、万民に自らこそが王たる強さを持つ、と示さねばならぬもの。

こうしてキェツィウ様は王となられ、神霊より大いなるルジャンクの名を賜り――あなたが、この地に招かれた。


姪御どの。フンナは、あなたにどう映っていることでしょうか。


漢の外にはてなく広がる大地のことも知らず、漢のしきたりこそが全てであったはず。そのしきたりが、あなたをここに連れ出した。ここにあるものは、全てが故郷とは違います。そう――幸せの形すら、ね。


妾は、あなたではありません。だからあなたの涙を、どこまで受け止められるかもわからない。


ただし、フンナの人々が、いかなる想いのもとにあるか。何を望みとし、何を幸いとするのか。それを知るよすがを示すことならば、できる。


あなたもまた、この地での生き方を見いだせますように。





頂戴したレビュー

2021年11月13日

朝田小夏 様


★★★ Excellent!!!


匈奴に嫁いだ漢の姫君の物語

漢の高祖の娘、寧子が姪に語るスタイルで噤む短編です。


和番公主といえば王昭君の「嗚呼哀しい哉,憂心惻傷す」とか蔡姫の「心憤怨すれど人の知る無し」などといった悲しみや怒り、怨みが強いイメージが私には強いのですが、この作品のヒロインは、悲しみを抱きながらも恨むことなく、匈奴に嫁ぎます。


そして嫁いだ先での慣れない環境や苦境の中でも自分の幸せを探します。が、残念ながら運命はいたずらで辛いできごとが多く起こってしまいます。彼女は、それを受け入れ歯を食いしばるんです。その姿がとても健気で心を打ちました。


やがて拱手をやめ、匈奴の礼をするようになった瞬間、彼女は漢というしがらみから解放されて彼女自身の生き方が始まるのでした。


そして語りの相手、彼女の姪の物語もこれから始まるのです。姪の人生も簡単なものではないだろうけれど、寧子の語りで道標が見えたならいいなと思います。


雪野中に咲く梅のようなヒロインを落ち着いた文章でしっとりと描いた名作です。


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