刺客(4)

 翌朝、左手に真っ白な包帯を巻いたサキは、木漏れ日の降り注ぐ雑木林の中を進んでいた。左頬にも小さな膏薬が張ってある。

 昨日の夜に闇の中で音だけ聞こえていた小川は、思いのほか道の傍にあり、陽光がきらりと水面に反射しているのが茂み越しに見えた。サキが持つ地図にはこんな小さな小川については書かれていないが、この東へと流れる小川は他の小川と合流しながら南側に大きく回り込んでから西へと向きを変えて最後は大海に注ぎ込む大河と合流するのだ。この大河こそが、サキの持つ地図にもハッキリと記入されているムールン公国に南東から流れ込むキリク川である。このキリク川から名前を取った都市がムールン公国の首都キリクでありこの大河の下流に位置している。逆にこの大河の本流を遡っていくとハーケン王国との国境にまでたどり着くことが出来た。

 傾斜を上りきったところで姿を現した泉には、昨晩とは異なりこの時期だけこの地を訪れる水鳥の群れが水面を泳いでいる。昨晩は月光に輝いていたが、今朝は陽光を反射して昨晩よりも強く光り輝いていた。月明かりだけでは分からなかったが、陽光の下では、青く青く澄んだ水が人の背丈の数倍の深さまで続いているのが見え、泉が思いのほか深いものであることが分かった。

 水面が反射する陽光の光を浴びながら、昨晩と同じ倒木に所在無げに腰を掛けていたマリーは、サキの姿に気が付くと大きく手を振って見せた。村娘らしい素朴な服の上に白い前掛けを着ているところを見ると、何かの仕事の途中で抜け出してきたのかもしれない。

 サキは軽く手を挙げて答えると歩み寄る。歩み寄って、初めてマリーの髪が艶やかに濡れているのに気づいた。

「水浴びをしてたの?」

「ちょっと、ね。まだ水が暖かくなる時間じゃないけど、いつもこの泉の水は不思議と少し暖かいの。深いところに横穴があってそこから暖かい水が流れて来るみたい。サキもひと泳ぎしてみる?」

「悪くないね。でも、先に話を済ませてしまおうか? アタシに用があるんでしょう?」

 サキは昨晩とは逆に、マリーの左隣に腰を下ろした。

「うん…これ、大事なものなんでしょ?」

 そういって、前掛けのポケットから取り出したのは、銀に輝く腕輪だった。昨晩サキが泉の中に投げ込んだものである。

 サキは差し出された腕輪に驚いたが、腕輪よりもむしろマリーの手を取ってしげしげと見た。良く見ればマリーの手はまだ白く皺だらけになっていて、指先には小さな傷がいくつもあった。

「わざわざ泉の中から拾ってくれたの? こんなに手を傷だらけにして」

 マリーはくすりと笑うと、昨晩のサキの声真似をして言う。

「どうってことない。このぐらいかすり傷さ」

 あまり似ている声真似でもなかったが、サキは噴き出してケラケラと笑った。ひとしきり笑ってから、腕輪を受け取ると彼女は礼を言う。

「ありがとう、マリー。時々邪魔にも感じる腕輪だけど、無ければ無いで困るものだからね。昨晩は腕輪のことでドグにこってり絞られたし」

 そう言いながら肩をすくめて見せたサキに、マリーはまたくすりと笑った。その後で、マリーはバツが悪い様子で小さく舌を出して言った。

「私もね、昨日は父さんにきつく叱られちゃった。もちろん、昨晩のことは私が悪いんだけどね。でも、父さんったら、危ないからサキと親しくするのは止せっていうの」

――村長殿の言う事は正しい。

 サキはそう思ったが、口には出さずに黙ってマリーの話を聞き続けた。

「だからね、私言っちゃったの。絶対嫌だって。私の大事な友達を悪く言わないでって。……私、父さんにあんなふうに口答えしたのは久しぶりかもしれない。……昔、一度だけ父さんにひどいことを言っちゃって、それからは父さんと喧嘩しない様に気を付けてたの。おかげで昨日は殆ど寝られなかったし、朝は用事を済ませてすぐにここに来たの。父さんと顔を合わせなくて済むようにね」

「それは……」

 サキはそう言ったきり、何も言葉を発することが出来なかった。こんな時にどんなことを言えばよいのか、分からなかった。

「心配しないで。サキは何も悪くないんだから」

――違うよ、マリー。悪いのはアタシなんだ。

「後でちゃんと父さんと話しておくから、大丈夫だよ。父さんは私のことを心配してくれただけだし……。ちょっと過保護なのよね。私が一人娘だからかしら?」

 そう言って笑った後で、マリーははにかみながら上目遣いにサキを見て、一言一言話し出した。

「あのね、サキ。昨日ね、サキが腕輪を投げた時、すごく驚いたよ。一体この人は、何を考えてるんだろうって思った。でもね、嬉しかった。たぶん、どんな言葉よりも。サキの本当の気持ちが、伝わってきたから」

 つっかえつっかえ話したマリーは言いたいことを全部言い終わると、一仕事終わったという様に大きく息を吸った。

「あれはさ、別に考えがあったわけじゃなくて、ただの八つ当たりだよ」

 サキは照れ臭そうにそっぽを向くとそう答えた。

「うん。でも、嬉しかった。だからお礼をしたかったの。あなたの腕輪をただ拾っただけだから、お礼にはならないかもしれないけど、私はあなたにあげられるような上等なものは何も持ってないから」

 マリーの言葉にサキはそっぽを向いたまま、小さなな声で呟く。

「馬鹿。そんなの、もうとっくに貰ってるのに」

「えっ?」

「何でもない」

 サキはそう言うと、小さく鼻をスンと鳴らして、しばらく黙って泉を眺めていた。その青い瞳は光なく、くすんで見えた。

 まだ陽射しが強くなる時間帯には少し間もあり、泉の冷たい空気があたりには満ちていて、ちょうど心地よい加減になっていた。

 泉の周りは昨晩と同様に静寂が包んでいて、魚が跳ねることもなく、ただ鳥の声だけが響いてくる。

「ここは良い場所だね」

 サキの言葉にマリーは頷く。

「うん。ここは私のお気に入りの場所。時々人が通ることもあるけど、村から離れてるから普段は人が少ないし、考え事をしたいときは良くここに来るかな」

「分かるよ。考え事をするにはちょうど良いね」

「そう。秘密のお喋りをするのにもね」

 笑いかけるマリーに、サキも笑い返したがその表情は少し硬い。

「そうだね。ここでずっとお喋りしていられたら良いのだけど……」

 サキは寂しげに笑うと、視線を伏せて続けた。

「元々の予定ではあと数日はお世話になるつもりだったのだけど、明日にでもここを発つよ。このままこの村に居続けたら、昨晩みたいなことがまた起こるだろうから」

「……そっか」

 マリーには、サキが何を言うか予感はあったのかもしれない。驚いた様子はなく、ただ、寂し気に視線を漂わせただけだった。

「……昨日みたいなことは、良くあるの?」

 マリーの質問に、サキは黒髪を縦に揺らした。

「よくあるって程ではないけど、今までにも何度かね。アタシに生きていられると困るって人が世の中にはいるみたいでさ」

「そんな……。一体誰がそんな事を?」

「分からないんだ。でも、もし知ってたとしても言えないよ。言えば君も危険な目にあうかも知れないから」

 サキの心中には一抹の不安があった。サキと関わり合いを持ったことで、マリーもまたすでにあの外套の男――おそらくサキの命を狙う刺客であろう――の標的になっていないかという心配である。

 だが心の中で首を振ってその考えを否定する。

――いや、あの男はアタシをかばったマリーを傷つけるのを躊躇していたから、アタシが居なければ、むやみにマリーを傷つけようとはしないはずだ。

 そう自分に言い聞かせて、サキは話をつづける。

「だから、ここを去ることにするよ。君や、ほかの村の人にも迷惑が掛からないようにね」

「うん……」

 頷いたマリーではあったが、納得したわけではない様子だ。かけるべき言葉が見つからないといった様子で、しばらく泉を泳ぐ水鳥を見るともなしに見ていた。

「ね、サキ。聞いてもらえるかな?」

 ぽつりと放たれたマリーの質問に、サキは無言で頷く。

 マリーは視線を水鳥に向けたまま、ゆっくりと話を始めた。

「私の母さんが、私が小さいころに病気で死んじゃった事は話したよね。その後父さんは、いろんな人の力を借りながらだけど、私を育ててくれた。普段はあんまり話が合わない父さんなんだけど、感謝してるの。だから、この村でずっと父さんを支えていかなきゃって思ってるんだ。いずれ、この村か、あるいは近くの他の村になるかは分からないけれど、どこかからお婿さんを迎えて、子供を産んで育てるんだって、それが自分の運命なんだって思ってたし、今でも思ってる。別に、それが不幸だとも思ってないよ。ううん、むしろ幸運なんだと思う。私は父さんの娘に生まれたから、ひもじい思いをすることもなく今まで暮らしてこれた。それが儘ならない人だってたくさんいるのだから、私は不幸だなんて言ったら、みんな怒るでしょうね。だから、自分が幸運なんだってことは頭ではわかってるの。でもね……」

 マリーの眼には自然と涙が溢れた。彼女はそれが零れ落ちるよりも先に腕で拭うと、一呼吸おいて話を再開する。

「でもね、小さいころから漠然と思ってたの。サキが今までいろんなところを旅してきたみたいに、私も外の世界を見てみたいなって。サキの絵を見て、益々そう思った。一度で良いからって」

 マリーは視線をサキに戻した。サキはもう一度小さく頷いて、続きを促す。

「私、出来ることなら、あなたに付いて行きたい。あなたと一緒にいろんなところを旅して、いろんなものを見れたら良いのにって、昨日からずっと思ってた。もちろん無理だっていうのは分かっているの。私はこの村を離れられないし、もし離れることができたとしても、私なんかじゃサキ達にとっては足手まといで迷惑だよね」

「迷惑なんかじゃないよ……」

――マリーさえよければ、大歓迎さ。

 サキはその言葉を飲み込んだ。昨晩までのサキならば、その言葉を発していたことだろう。だが、今はサキの脳裏には昨晩相手をした黒い外套の男の姿がある。あの男が再び現れた時に、マリーの身を守り切る自信はなくなっていた。

「ありがとう。でも、私きっと迷惑をかけるわ。昨日だって、私がいなかったらサキはもっとうまくやれたのでしょう?」

「それは……そうなのかもしれない、けど……」

――けど、それじゃいつまでたってもアタシは一人ぼっちだ。

 サキにはいつも自分の事を気にかけてくれるリュードッグが居る。だが、リュードッグは友人ではない。彼はいつも小言を言ったり軽口を叩いたりしているが、決して主従の関係を崩そうとはしないのだ。

「だから、サキ。私は一緒には行けないけど、私のことを覚えててくれるかな? 出来れば、本当に出来ればで構わないのだけど、たまには私の事思い出してくれると嬉しいな」

「……もちろん……もちろん、忘れたりなんてしないよ」

 俯いて小さく鼻をすすり上げるサキの姿に、マリーは自分が何か悪いことでもしたかの様に慌てて、サキの手を取った。

「顔を上げて、サキ。変なことを言って困らせちゃって、ごめんね? でも、あなたが旅立つ前に話せて良かった。こんなこと、ほかの誰にも言えないもの」

「うん……」

 サキが顔を上げると、穏やかな光をたたえた灰色の瞳が、青い瞳を覗き込んでいた。

 まるで昨晩とは逆だった。

 その瞳に見つめられるうちに、青い瞳に光が戻ったようだった。

「ね、マリー。アタシからも君に贈り物があるんだ。受け取ってもらえるかな?」

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