ちらりと茶碗を覗いたら
これ緑茶だよな? いや、淹れたのは俺だし飲んでるけど、微妙に分からんっていうかな……葉の量間違えたか。薄くない? お前が満足してるんならいいけどさ。いや多分俺の舌の方に問題があるやつだとは思うんだよ。いい茶葉らしいんだけどね、もちろん貰いもんだよ。俺が俺のためのものに金かけるわけないだろ。
そうだよ、今日はもういつもの日下さんだよ。スーツなんか家で着てらんないからな、あんな鬱陶しい服。アロハだってな、この地域だと今から着ないともうしばらく着られないから着どきなんだよ。こっちの夏は短いだろ。九月の末にもなったら半袖なんか着てられないくらいには風が冷たくなる。今日はほら、まだいける程度の肌寒さだから。
仕事はね、一番面倒なところは終わったんだよ。あとは家引きこもってればいいだけだから、こうやっていつもみたく縁側で日向ぼっこしてた。早起は死ぬほど嫌いだけど、日射し自体が憎いわけでもないからな。夏になると度が過ぎるけどな。何だって適切な用法容量ってのがあるだろ。
うん。
聞き違いじゃないさ。すごい音したよ。
別に家の奥で熊飼い始めたとかそういうやつじゃないから安心しなさい。破壊音にしか聞こえないけど軋みだよ。家鳴り。
最近多いんだよ。部屋湿気ってるせいかね。梅雨だしな。今日も朝方降ってたろ。古い家だからな……冗談みたいな音がするんだよ、怖いとか通り越して天井割れたりしないだろうかとか不安になる。雨漏りしてないから大丈夫だとは思うんだけどな。すごい音だからな。
梅雨はさ、陰気な方の雨だろ。陽気で凶暴なのが夕立とか台風。それぞれ向き不向きがあるんだよな。
農家には必要な季節だっていうのは分かるけどな、湿度が高いとしんどいだろ。雨の日だって嫌いってわけじゃないが、降り続くのはまた条件が違うだろ。小雨降る夜に薄暗い和室の押し入れとか、一人で開けるのだいぶ身構えるぞ。豪雨で稲妻ってなると一種のアトラクションだからな。停電に気をつけるくらいで、いっそわくわくするまである。どうせ同じ量降らないといけないなら、ばっと降ってざっと引き上げてってくれた方が潔くていい。
あとな、やっぱりしとしと降る雨はあれよ。おばけ向きだよ。
結局そこですかって言われてもな、俺農家じゃないからね。雨のメリットデメリットなんて突き詰めれば雰囲気ぐらいしか言うことがなくなるんだよ。お前だってそうじゃないのか。精々通学が面倒とか大雨警報で電車の運行が心配とかそれくらいだろ。じゃあ雨が降るとおばけが出そうで嫌っていうのも立派に梅雨のデメリットだろう。それ以上微妙な顔をするとりんごせんべい取り上げるぞ。
怖い話もさ、古いやつだと結構な率で雨が降ってる中に幽霊が出てくるだろ。タクシー怪談なんか分かりやすいよな。あれ雨の降る道端で拾った女客がどろんする話だろ? そもそもまともな人間は、雨の中で傘も差さずに道に突っ立ってたりしないって前提があるよな。そういうことするやつは幽霊だろうが生身だろうが関わらない方がいいもの。雨に濡れる以上に気がかりなことがあるって時点でさ、結構なもんだよ。一回全身ずぶ濡れになってみ。寒いし重いし気は滅入るしで、もうとにかく家に帰りたいし風呂とか濡れてない服が恋しいし、総合して傘を忘れた自分の馬鹿さが憎くて仕方なくなる。
ああ。お前はそう考えるか。
そうだな。そのくらいに夢中になれるもんがないと幽霊にはなれないんだろうな。
暑い寒いで文句言ってるようじゃ化けて出られないし、そんな心構えじゃ恨みを晴らすような一大事ができるわけもない、とかそういうやつなのかね。心頭滅却とかそういうのにも似てくるよな。成仏どころか迷いまくっているわけだけど、ある程度突っ走らないといけないあたりは何となく皮肉だ。
恨みつらみまでいかずとも、気がかりがあったせいで化けて出る話は昔の怪談にもあるな。井戸に落としたこんにゃくが気がかりでとか、夫に隠れて受け取った恋文が心残りとか……こんにゃくと恋文が並ぶのも面白いよな。どっちも気にかかるのは理解できるから尚更だ。俺もねえ、自室に──いや、お前相手だって言わないよ。言わないけどね、もしそういうことがあったら何とかして俺の部屋にある荷物燃やしておいてくれ。何なら遺言作っといたっていいぞ。お墨付きで火を放てる機会って、普通に生きてるとそうそうないからな。
からかってんのは六割くらいだよ。四割は本気。
後始末ってのは大事だぞ。なんせこないだの俺の仕事だって、そういうやつだったからな。
何やってきたんですかってな、再三言うけど疚しいことじゃないんだよ。人の家のお片付けっていうか、何だ、仕分けだよ。頼まれたもん引き取りに行くから、ちゃんとした格好をする必要があってな。人の役に立つ仕事だよ。
そこまで詳しい話はしないぞ。一応守秘義務とかあるからな。ただまあ、日頃から整理整頓しとかないと色々大変だなとかそういうことは思ったよ。人間いつどうなるかなんて分かったもんじゃないからな。それ自体はどうこういうことでもない。俺としては、そのおかげで仕事が回ってきたわけだからな。ありがたい話だよ。
仕事の内容としてもあれよ。そこそこ立派な家に行って、玄関先でもぞもぞ挨拶して上がって客間通されて、品引き取って、車運転して事務所に運んでおしまい。俺は運転役だったから、頭使うようなことは一個もなかったな。一緒に組んだ人──高原さんと雑談してたくらいだから、まあ楽な仕事だったよ。運転上手いって言われはしたけど、田舎住んでりゃ当然ではあるからな。車ないと死ぬから車乗ってるし、そうやってればそれなりにはできるようになるもんだ。
運転役ではあるけども、一応お客さんと顔合わせくらいはしたんだ。
通された客間は立派な和室でな、床の間にちゃんと掛け軸もあるし天井の角っこには神棚もある、なんか壺やら盾やら色んなもんがあった。畳もうちみたいに日焼けしまくった年代物じゃなくて、ちゃんと手入れされてた。
で、用意されてた厚い座布団に座りながら、お客さんにそれっぽく挨拶して、高原さんがやりとりしてるのを聞いてたのよ。勿論覚えちゃいないよ。覚えてろって言われなかったからな、そういうときはむしろ忘れておくのが礼儀ってもんだ。聞いてないのが分からないようにしてな。恰好だけは真剣に、耳と意識だけ明後日に飛ばしとくの。簡単そうに聞こえるけど、意外と難しいんだぞ。
そうやってぼんやりあたりを眺めてたんだけど、どうも落ち着かないんだよ。
そもそもが他人の家だからな、気兼ねなく寛げるかっていわれたら難しい。けどもそういう緊張感とかからくるような居心地の悪さじゃなくて、もっと動物的? な不安があった。何だろうな、家でぼんやり本読んでたら妙に気が散って、どうしてだってよくよく周りを見たら壁に小さい蜘蛛が張り付いてたとかそういうやつ。
意識に上らないレベルで、感覚だけが先走って何かを拾っているときの焦燥感、か。今自分が抱いている違和感が、多分そういうものに由来するんだと気づいた。
で、とりあえずそれを念頭においてあたりをもう一度確認してみた。
お客さんの背後の大窓にちょろちょろ何か覗いてるんだよ。
窓べりのぎりぎりのところに真っ黒いものが一瞬飛び出して、そのまますっと下に沈む。それを何回も繰り返しているんだな。
わっとなって視線を逸らしたら、高原さんの横のあたり、机の端からひらひらしたものが出てきて引っ込んでいった。
とりあえずどうしたもんか、って高原さんとお客さんの両方を見たけど涼しい顔で談笑してる。じゃあ俺がわざわざ言い出すこともないなって考えて、せっかく注いでもらったからお茶でも飲もうと手元の茶碗に目をやった。
お茶の底から目玉みたいなもんが俺を見上げてた。
そんなもんが見えたのは一瞬だけだったよ。えって瞬きした途端に消えて、ただ薄緑のお茶だけになってた。
さすがに飲めなかったな。おかげで茶菓子の甘いのがいつまでも後引いて、帰りの車でコンビニ寄ってコーヒー買ったよ。
また家鳴りだよ。あれかね、雨止んで暑くなってきたからだろうよ。温度差ってすごいからな、鍋とか割ったりするからな。
ま、結構面白い仕事だったよ。それにバイト代もつくんだから万々歳だろ。ちょっと驚いたのはそうだけど、所詮はよそん家の話だからな。俺はもう関係がない……ただの運転手で雑用係だもの。そんなもんに縋ったり深入りすんの、見る目がないことおびただしいだろ。あんだけ良い家の変なモンなら、頼るにしても相手を選ぶだろ。相手候補も山ほどいるだろうし。そもそも真っ先に頼るべきは身内だろ? せっかく血が繋がってんだからな。迷惑かけるんならそっちで存分にやってからにしてくれって話よ。よそ者相手に金も出さずに構ってくれってのは、結構なわがままだろ。
おかげで今月もまとまった金が入る。疚しくないぞ仕事の代金だからな。そうしたらまただらだら過ごすさ。お前とお菓子とお茶飲みながら煙草吸ってな。贅沢だろ。そうやって楽しく暮らせたら、それくらいで充分なんだよ、俺はな。
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