その8:演劇部監禁事件

第1話「住む世界が違うって感じ」


 牟児津むじつ 真白ましろ は圧倒されていた。いくつもの円柱と直線で構成された、シンプルかつスタイリッシュな建造物。そこに足を踏み入れることに畏れを感じてしまっていた。ここは、日常を過ごしている街とは格が違う。思わずそう感じてしまった。

 牟児津は、電車を乗り継いで隣街までやって来ていた。複数の路線が入線するターミナル駅は、人の流れが複雑に入り組み、ビルは見上げれば首が痛くなるほど高くそびえている。駅前に出れば巨大なロータリーにいくつものバスがやって来ては出て行き、その度に大勢の人が駅の外と中を行き来する。

 幼馴染みである瓜生田うりゅうだ 李下りかの案内がなければ、目的地にたどり付くこともできなかっただろう。人より視線が低い牟児津は、人混みが苦手だった。油断すれば、もまれ踏まれて全く意図しない場所まで運ばれていってしまう。今日も、瓜生田の手を離さないようついて行くのに精一杯で、ここまでの道順など全く覚えていなかった。


 「でっけぇ〜……」

 「うちの県で一番大きな劇場だからね。写真撮っとく?」

 「撮っとこ撮っとこ」


 出不精な牟児津にとって、隣街の劇場まで足を運ぶなど滅多にない経験だった。瓜生田に記念写真を撮ってもらった後、カバンからチケットを取り出して、何度も時間と場所に間違いがないことを確認した。

 先日、学園中を巻き込む大騒動の中心にいた牟児津は、なんだかんだあって生徒会長である藤井ふじい 美博みひろから、お詫びとしていくつかの品を贈られた。その中の1つに、この観劇チケットがあったのだ。ペアチケットだったこともあり、一人ではとても観に行けないと思い、瓜生田に頼み込んで一緒に来てもらったのだった。


 「うりゅが来てくれてよかったよ。私ひとりだったら絶対ここまで来られなかった」

 「うん。私も、まさかムジツさんから劇に誘われるなんて思わなかった。なんか嬉しかったよ」

 「まあ……せっかくもらったチケットだし。こういうとこ初めてだけど、経験しといて損はないかなって」


 建物の入口近くまで来ると、一点の曇りもないガラスの入口から中の様子が見える。派手過ぎず地味すぎないシャンデリアや、ショーケースに入った何らかの美術品。赤い絨毯の上には柔らかそうなソファや観葉植物が配置され、シックな漆塗りのカウンターの中で、身なりの良いスタッフがきびきびと働いている。ときどき中に入っていく賓客たちは小綺麗に着飾り、いかにも上流階級という雰囲気の人ばかりだった。牟児津は一張羅である制服を着てきたが、激しく見劣りしている気がしてならない。


 「制服でよかったのかなあ」

 「学生なんだから制服で十分だよ。でもリボンくらいは礼式用のにすればよかったね」

 「そ、そうなの!?うち出るときに言ってよ!」

 「てっきり持って来てるものだと思って」

 「私がそんな用意できる人間か?」

 「できないかあ。そうだよね。ごめんね」


 そこで牟児津は初めて、瓜生田の胸元のリボンがいつものピンク色とは違うことに気付いた。途端に、自分がつけているレモンイエローのリボンが非常に場違いな、礼を欠いたものに思えてくるから不思議だ。


 「別に式典ってわけじゃないし、うちの演劇部が主催だからいつもの制服で問題ないよ」

 「え?これうちの部活が場所借りてやってんの?」

 「そうだよ。ほら」


 そう言って瓜生田が指さしたのは、正面の入口から少し離れた場所にある、植木で目隠しがされた辺りだ。おそらく備品などを移動するときに使う搬入口だろう。大きなトラックとその搬入口の間を、作業着を着た人々が忙しなく往復している。そこには、大きな花の飾りが見えた。垂れ幕に、『伊之泉杜学園演劇部 御中』と書いてある。


 「本当だ」

 「さすがに学園有数の大規模部活ともなると、これくらいのこともできるようになるんだね」

 「すげ〜……なんか、全然住む世界が違うって感じ」


 牟児津たちが眺めている間も、次々と荷物が劇場へと運び込まれていく。見れば牟児津たちとそう変わらない年の少女も働いているようだ。アルバイトだろうか。それにしては髪の色が明るい青リンゴのような色をしている。


 「みどりちゃん!さっき別の現場の応援頼まれたから、昼休憩後回しにしてくれる!?ここの現場はまた別のチームに頼むから!」

 「えええっ!?そ、そんな!困ります!いきなり言われても……!」


 首の絞まった鶏のような、甲高くしゃがれた声で少女は叫んだ。


 「ごめんな!もう受けちまったから!コンビニで何でも奢っちゃるから勘弁してね!」

 「なんだか大変そうだね」

 「同年代のああいう姿を見ると、なんかこう、ちょっと心がざわってなるんだよなあ」

 「ちょっと分かる」


 額に汗かいて働くその少女を遠巻きに眺めながら、牟児津と瓜生田はなんとなく手を合わせたい気持ちになった。日々の暮らしを支えてくれている人々の中に、同年代の同性がいるという事実が、とてもありがたいものに感じられた。


 「それじゃあ、中に入ろっか。ムジツさん」

 「うん……でもなんか、やっぱ不安だなあ。怒られたりしない?」

 「大丈夫だって。うちの学園の生徒も観に来てるみたいだし、そんなに気にしない気にしない」

 「そうなの?結構遠いよ、ここ」

 「あそこにいるよ」


 また瓜生田が指差した先を見ると、牟児津たちと同じ学園の制服を着た一団がいた。全員が一様に大きなバッグを携え、しきりに劇場やポスターの写真を撮っていた。知り合いではないが、同じ格好をした集団を目にしたことで、牟児津の心はいくらか落ち着きを取り戻した。


 「あの人たちも金平糖が目当てなのかな」


 牟児津が本気でそんなことを言うので、瓜生田は小さく笑った。劇場に来る人々の目的は、そこで劇なり映像なりを鑑賞することだろう。今回の劇で入場者全員に配られる高級金平糖も目当ての1つかも知れないが、それを主目的とするのは今日この場では牟児津くらいのものだろう。

 

 「金平糖のために来る人はいないと思うよ」

 「いやいやうりゅ。今日の金平糖を舐めちゃいけないよ」

 「金平糖は舐めるものでしょ」

 「そうじゃなくて、今日配られるのは老舗高級金平糖専門店が、ここで配るためだけに卸してる非売品の金平糖なんだよ!日本中どこに行ってどれだけお金積んでも買えない、そういう代物なの!分かる!?」

 「うんうん、分かる分かる。分かるからそんなに大きい声出さないで。恥ずかしいから」


 瓜生田に指摘されて、牟児津は慌てて口を抑えて周りを見回した。劇の上演時間が近付いているせいか、先ほどまで行き交っていた身なりの良い賓客たちの姿はもうほとんどない。さっき見た制服の生徒たちの姿もない。それに気付いた二人は、慌てて建物の中に入った。



 〜〜〜〜〜〜



 建物に入ると、なんとなく上品な空気で満たされている気がした。二人はなんとなく背筋が伸び、なんとなくゆっくり動かなければならないような気がした。カバンを肩にかけ直すのにも、顔にかかった髪を払うのにも、歩くのにすらいちいち神経を使う。早くも牟児津は、息苦しさで音を上げる寸前だった。


 「客席の受付は……あちら?」

 「なにその喋り方」

 「なんか上品にしないといけない気がして……」

 「ムジツさんはそのままがいいんだから気負わなくていいんだよ」

 「そ、そっか。って、うりゅもつま先歩きしてんじゃん」

 「なんか足音立てちゃいけない気がして……」

 「じゅうたんめっちゃフカフカだから普通に歩いても音しないよ」

 「あ、そっかあ」


 そんな調子で二人はなんとかエスカレーターに乗り、客席受付まで移動した。受付にチケットを見せると、そこでは改札せずそのまま4階席まで上がるよう案内された。

 思い切って瓜生田が尋ねてみると、牟児津が持っているチケットは関係者用のものなので、関係者席へ案内するとのことだった。牟児津と瓜生田はぽかんとしたまま、上階行きのエスカレーターで運ばれていった。


 「か、か、関係者席……?なんで……?」

 「もともと生徒会長が持ってたものだし、そういうこともあるのかもよ」

 「だったら言っといて欲しかった!っていうか関係者用のチケットを人に譲るやつがあるか!なに考えてんだあの人!?」

 「上の人が考えることは分からないねえ」


 劇場内は、階層がそのまま装飾のランクを示すように、階が上がるほど絢爛になっていった。上がるにつれて、壁や天井の飾り、手すりの素材、展示されている絵画、スタッフの服装など、あらゆるものが洗練されていく。もしこれが階段だったら、牟児津はあまりのハイソサエティオーラにやられて、途中で1階まで転げ落ちていただろう。

 しかしエスカレーターは牟児津の意思とは無関係にその体を押し上げていく。上がれば上がるほど、牟児津は自分がここにいることが申し訳なくなってきた。


 「う、う、うりゅぅ……。このじゅうたん、踏んでも大丈夫?怒られない?」

 「売り物でもないのに踏んで怒られる絨毯なんてないよ」


 エスカレーターを降りたそこは、吹き抜けのホールを取り囲む細い廊下と、建物の奥に続く廊下だけの小さな空間だった。無駄のない動きで巡回しているスタッフに瓜生田がチケットを見せると、関係者専用の受付まで丁寧に案内してくれた。

 廊下を奥に進むと、劇場に続く大きな扉がある。その手前には小さな丸い部屋があり、柔らかそうなソファがいくつか並んでいた。部屋には受付があり、牟児津はそこでようやくお目当ての金平糖を手に入れることができた。


 「帰る?」

 「いやいやいや、それはさすがに失礼だって」

 「だって関係者ってことは、私たちよりずっと……なんかこう、すごい人も来るんでしょ?そんな人たちと一緒に劇なんか観てらんないよ」

 「おや!これはこれはお二人さん!こんなところで奇遇ですねえ!」

 「はっ!?」


 目的を果たしたことで気持ちが緩んだのか、牟児津は受付から先に進むことを躊躇っていた。そんな牟児津の背中に、こんなところで聞こえるはずのない声が、突然降りかかった。金属同士を打ち鳴らすようなカンカン声だ。まさかと思って振り向くと、そこにいたのは見慣れた少女だった。


 「えっ?ま、益子ますこさん?」

 「まさか学園から離れたこんなところで出会うとは思ってもみませんでした!しかも関係者席でなんて!」


 牟児津たちと同じ制服に身を包み、首には礼式用のネクタイを締め、普段被っているハンチング帽を取ってチョコレート色の髪を露わにしていた。牟児津の番記者こと、益子ますこ 実耶みやだ。受付でもらったであろう金平糖を、無造作に頬張ってはバリバリと噛み砕いている。


 「な、な、なんであんたがここにいるんだ!」

 「なんでってそりゃあ関係者用のチケットを持ってるからですよ。こう見えても私はハイソな人間なので」

 「こんなに見え透いたウソでも堂々と話されるとちょっとそんな気がしてくるな」

 「確実に寺屋成じやなる先輩の悪い影響を受けてるね」

 「やだなあ、軽いジョークじゃないですか」


 大いに驚く二人に対し、益子は見せびらかすようにチケットを揺らす。もちろんこのチケットは、益子が関係者として入手したものではない。

 本来、今日この場所に来るはずだったのは、三人が通う伊之泉杜学園の生徒会長、副会長及び広報委員長の三名だった。しかし先の二名分のチケットは藤井が牟児津に譲ったため、牟児津と瓜生田が代わりにやって来た。

 先に起きた事件の後処理のため、広報委員長である旗日はたび よるも都合が合わなくなり、チケットを手放すことになった。そのチケットは、旗日の友人であり新聞部部長の寺屋成じやなる 令穂れいほへと渡り、最後に益子がそれをねだりにねだって、根負けした寺屋成から譲ってもらったのだった。


 「藤井先輩のお詫びの品の中にチケットがありましたからね。今日ここに来ることは分かっていましたよ。だから実耶ちゃんの膨大な人脈と豊富な人望を使って同じチケットを手に入れたわけですよ。ま、番記者なら当然です」

 「一歩間違えたらストーカーだぞ」

 「何をおっしゃいますか!ムジツ先輩あるところに事件あり!事件あればムジツ先輩の活躍あり!って言うでしょう!」

 「そんなこと言ってんのあんただけだよ!」

 「二人ともお願いだからお行儀よくして。恥ずかしい」


 場の雰囲気を全く意に介さずいつも通りのテンションで話す益子につられて、つい牟児津もいつも通りのテンションで応じてしまい、知らぬ内に声が大きくなってしまっていた。瓜生田に冷や水を浴びせられて我に返り、途端にしおしおと委縮した。対する益子は、それすらも笑って受け流し、食べきった金平糖の包みをくしゃくしゃに丸めてポケットに詰め込んだ。緊張感らしきものが全くない。


 「ムジツ先輩は内弁慶ですねえ」

 「気後れしてるだけだよ。いいからもう席に着こう」

 「あ、私なんか、ト──お手洗いに行きたい」

 「だから駅で済ませておいてって言ったのに。きっと混んでるよ」

 「トイレならここ出て左ですよ。私はさっき行きましたけど、遊園地のアトラクションくらい並んでました」

 「やっべ!行ってくる!」


 開演まで時間はあるもののゆっくりしている余裕はない。牟児津は来た道を引き返して、益子に教えられたトイレへ向かった。益子が行ったときよりは列も解消されているだろう、という淡い期待とともに。

 しかしその期待は簡単に打ち砕かれた。案内に従ってたどり着いたトイレの前は、淑女たちが列をなしていた。すぐさま牟児津はその横を通り過ぎ、階段を使って下の階のトイレに向かった。しかし上階ほど席数が少なく人も少ないのだから、下れば下るほど列が長くなっていくのが当然である。


 「うわわわわっ!」


 行く先々で長い行列を見ると、焦りはどんどん募っていく。こんなことなら最初から4階の列に並んでいればよかった、と後悔してももう遅い。時間が許しても牟児津の体が許してくれないところまで来ている。階段を降りに降りて地下まで来てしまい、そこでようやく牟児津は列のないトイレを発見した。何やら地上階とは雰囲気が違うが、そんなことは気にしていられない。


 「ままよ!」


 色々なものをかなぐり捨てて、牟児津はトイレに飛び込んだ。中は無人で、清潔なトイレが待ってましたとばかりに自動で便座の蓋を開く。牟児津は、なんとか尊厳を損なわずに済んだ。


 「助かったあ〜。でもなんか、えらい遠くまで来ちゃったな」


 手を洗ってトイレから出ると、ようやく地下階の雰囲気に気を配る余裕ができた。華美な装飾と上品な空気に満ちた地上階とは違い、地下はつるんとした白い金属材の壁に取り囲まれた無機質な空間だった。その空間の中に一箇所だけ、大小さまざまな花飾りで彩られた区画がある。遠くからでも分かる円形に並んだ花飾り、祝い花だった。建物に入る前に見かけたものと同じだ。


 「ってゆっくり見物してる場合じゃない!急いで戻らないと!」


 大きな施設の地下空間はなんとなく冒険心がくすぐられるものがあるが、今の牟児津にそんな時間はない。4階まではエスカレーターを使ってもそれなりに時間がかかる。牟児津は、ついさっき降りてきた階段を急いで駆け上がって地上に出た。


 「えっとえっと、エスカレーターは──」


 エスカレーターを探して視線を回したとき、視線の先で星が弾けた──ように見えた。


 その人は星を纏っていた。


 小さな星が降り注ぐ場所に、物憂げな表情で佇んでいた。


 スローモーションように感じる刹那。牟児津の視線に呼応するように、その女性は視線を投げ返した。


 心臓が搾り上げられる感覚がした。その視線に捕まった瞬間、魔法のように体の自由が奪われた。


 「ぇ」


 自分の声が空気を震わせた瞬間、魔法が解けた。緩やかだった時間は再び流れ出し、体が自由を取り戻した。そこに舞う星々は、正体が金平糖だと気付かれるや、たちまち地に墜ちた。それでもなお、魔法などかけずとも、その中心に立つ女性の美しさは何も変わらなかった。


 「今日もダメだったか……」

 「ええ……?」

 「おや、どうしたのかな。お嬢さん。困っているのかい?」

 「いや……どっちかって言うとそっちの方が困ってそうなんですけど」

 「僕が?困ってなどいないさ。ただ、今日も自分の運命に勝てなかった。それだけのことさ」

 「はあ」


 整った顔立ち、中性的な声色、すらりと伸びた手足、長いまつ毛。体を構成するあらゆる要素が目に入るたび、牟児津は痺れるような感覚がした。スマートな立ち姿や言葉は男性のような頼もしさを感じるのに、顔かたちや声色には女性のような優しさを感じる。そしてそのいずれもが、人を惹きつける魔性を秘めていた。


 「ああ、もったいない。楽しみにしていたのに」


 そう言いながら、女性は地に墜ちた星屑を拾い始めた。いや、床にぶちまけた金平糖を片付けているだけだ。そんな何気ない所作でさえ美しく形容してしまいたくなる人だった。そんな人が床に這いつくばっている姿を目の当たりにし、牟児津はなぜか居たたまれなくなり、ポケットに手を突っ込んだ。


 「あ、あの……金平糖じゃないですけど、あんこ飴なら持ってます」

 「あんこ飴?それはどういうお菓子なんだい?」

 「あんこの周りを飴で薄くコーティングしてるんです。口に入れたら飴がサクッとして、あんこがむにっとして美味しいですよ」

 「……ほう」

 「ひとついります?」

 「くれるのかい?なんて優しい女性ひとなんだ君は!」

 「ひゃっ」


 電車に乗るとき、酔い止め代わりに食べているあんこ飴をひとつ差し出した。それをもらえると分かった瞬間、その女性は飛びつくように牟児津の手を両手で握った。一瞬だけひやりと冷たい感覚がしたが、すぐにその手のきめ細かさと柔らかさで温度など忘れてしまった。


 「優しいついでで申し訳ないが、君にひとつ頼みがあるんだ」

 「え、な、なんですか」

 「その包みを開けて、僕に食べさせてくれないか?」

 「なんで?」


 牟児津は、思わず真っ直ぐに聞き返した。真剣な眼差しと蠱惑的な声色でそんな意味の分からないことを言われると思っていなかった。


 「僕はその……あまり物の扱いが得意じゃないんだ。特にお菓子の包みは、接着が強かったり複雑に捻ってあったりして、とても太刀打ちできない。今もこうして金平糖を台無しにしてしまったところさ」

 「不器用にもほどがある」

 「こちら側のどこからでも切れます、という表示がされている袋さえ、まともに開けられないんだ!僕は!」

 「それはみんなそうだから大丈夫です」


 牟児津は足元に落ちた金平糖を見て言った。金平糖の包装は、包み紙を捻って紐で縛ってあるだけだ。紐をほどけば自然と開く作りになっているのに、こんなに景気よくぶちまけられる仕組みが分からない。

 しかしどうやらその言葉に嘘はないらしいので、牟児津はあんこ飴の包みを開けてやった。


 「あーん」


 いつの間にか、女性は口を開けて受け入れ準備万端になっていた。なぜか目まで閉じている。初対面の相手にここまで気を許してしまう無警戒さが、他人ながら心配になる。これほどの美人にこれほど無防備なことをされ、牟児津は心の中になにやらやましいものがむらむらと湧いてきてしまうのを感じた。

 とはいえそれを実行に移す度胸など牟児津にあるわけもなく、素直にあんこ飴を口の中に放り込んだ。


 「もむ。うん。うん。こ、これは美味しい!とろけるような甘さの飴が、軽く心地よい歯ざわりを残してあっという間に消えてしまった!その後からねっとりむっちりしたあんこが現れて、甘さの中にも確かな豆の味をもたらしてくれる!なんて美味しいんだ!こんなに美味しいものを知らずに生きていたなんて!」

 「大袈裟すぎない……?」

 「ありがとう!君のおかげで僕の世界はまたひとつ豊かになった!」

 「うわ、わわ、どう、いた、しま、して、ええ、ええ」


 よほど感動したのか、女性は牟児津の手を握って激しく上下に振る。まさかあんこ飴ひとつでこんなに喜ばれると思っておらず、牟児津は訳が分からないまま振り回されていた。

 ひとしきり振り回されたとき、どこからともなく鈴の音が響いた。実物の鈴ではなく、スマートフォンのアラームだったようだ。女性はポケットからスマートフォンを取り出してアラームを止める。


 「おっと。もうこんな時間か」

 「えっ。おあっ!やっべ!もう劇始まるじゃん!」


 いつの間にかずいぶん時間が経っていて、開演まで5分を切っていた。急いで4階まで上がって席に戻るには心許ない時間だ。


 「楽しい時間だったよ。ありがとう。ああそうだ。僕がここで金平糖をバラ撒いてしまったことは、秘密にしていてくれないか?」

 「な、なんでですか……?」

 「僕は立場上、イメージを守ることが大切なんだ。こんな格好悪い姿、あまり知られたくないからね」

 「はあ……まあ、言わないですけど」

 「ありがとう。では最後に君の名前を聞かせてくれないか」

 「えっ、あ、はあ、牟児津です」

 「下の名前ファーストネームは?」

 「ま、真白……」

 「真白……美しい名前だね」

 「いや、はあ。そんなことより、もう劇始まりますよ」

 「そうだね。真白クンが今日の劇を楽しんでくれると、僕も嬉しいよ」


 足音も立てず、女性は牟児津がたったいま駆け上がってきた階段の前に立って、小さく手を振った。


 「それではまた。劇場で会おう。真白クン」

 「えっ?あの、そっちトイレしかない──」


 牟児津が止める間もなく、その麗人は颯爽と階段を駆け下りて行ってしまった。地下に客席などないはずなのに。だが牟児津はその後を追いかけることは諦めて、自分の席を目指した。エスカレーターを1段飛ばしで駆け上がり、受付に半券を見せて小部屋へ入り、客席に飛び込んだ。時間ぎりぎりである。

 劇場内は既に暗くなっており、ステージ上だけが煌々と照らされていた。関係者席はシアターホールの壁際に設置されたギャラリー席で、人数分のゆったり座れるリクライニングシートとサイドテーブルが用意されている他に、余計なものは何もない。牟児津が飛び込んだとき、益子はサービスのアイスティーをあおっていた。


 「間に合ったあ〜〜〜!!」

 「おお、ギリギリでしたねムジツ先輩。お疲れ様です」

 「くぅ〜〜〜!余裕こかれるとめっちゃムカつく!」

 「戻ってこないからどうしようかと思ったよ。どこまで行ってたの?」

 「地下のトイレまで……」

 「都合8階分の猛ダッシュですか。いい運動になりましたね」

 「態度悪いなアンタさっきから!なに調子乗ってんだ!」


 牟児津は自分の席に座り、背もたれを目いっぱい倒して寝転がった。もはや劇をゆったり観ていられる状態ではない。サービスのオレンジジュースを瓜生田がとっておいてくれたので、牟児津はすぐにそれを空にしてのどを潤した。


 「っぷは〜〜〜!うっめっ!」

 「本当はここに藤井先輩が座るはずだったんだと思うと、なんかこう、椅子が可哀想に思えてくるね」

 「瓜生田さんの席には田中たなか先輩が、私の席には旗日先輩が座る予定でしたから、みんな同じようなもんですよ」

 「ってかここ舞台遠くない?これじゃ顔も分かんないよ」

 「サイドテーブルにオペラグラスがあるでしょ。これで見るんだよ」

 「ふ〜ん、最前列の方が絶対いいのに」


 備え付けの小さな双眼鏡を覗き込むと、舞台の上がよく見えた。その代わり視界が狭い。トイレが遠ければ舞台も遠く、高いチケットなのに制約が多いことに疑問を覚えつつも、ジュースが飲み放題であることに牟児津は満足していた。

 ほどなくして開演のブザーが鳴り、牟児津は背もたれを上げて座り直した。さすがに大の字で劇を観るほど礼儀知らずではない。

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