プロローグ

第1話 記憶のない青年


『起きろ! 目を覚ませ!』



 その青年は周りに何もなくただ暗い空間が広がっているだけの謎の空間にいた。両手をぶらりとさせ、視線を地面に向けうな垂れた状態で立ち尽くし微動だにしない。


 殺風景とも言える場所で男の声だけが轟いていた。叫ぶたびに木霊する声の主はどこにいるのか分からないが、誰かに語り掛けるかのように何度も叫んでいる。


『——思い出せ! お前の目的を! やるべきことを!』


 その声の主は立ち尽くす青年に語り掛けているようだ。


 しかし吠えるような男の声に、青年は全く反応を示さずピクリともしない。呼吸はしているため生きてはいる。耳に声が届いているのか、届いているのにい反応できない何かの呪いにかかっているのかはわからない。


 すると男の声はどんどんと遠のき始めていく。遠くなっていくにつれ男はさらに吠えるような声を出し、青年に語り掛ける。


 何か重要なことを必死で訴えかけているようだが、青年の耳には届いていない。


 声は少しずつボリュームが絞られるように小さくなっていく。それでも男は声が届かなくなるまで、必死に叫び続けていた。


 そして静寂が訪れ、青年の意識は深く沈んだ。



―――

――




「—―ハッ!」


 雨が降る中、青年は息を吹き返したかのように意識を取り戻す。


 いままで気絶していたのか、動悸がひどく心臓が激しく鼓動している。加えて多少の眩暈が襲う。動悸を鎮めるため無我夢中で深呼吸をする。


 口の中に雨が入ろうがお構いなしだ。


 そうして酸素を意識的にたくさん取り入れ乱れる心を落ち着かせる。


 混乱状態だった青年は自発的な深呼吸によって落ち着きを取り戻し始めると自らの意思で手足が動くことを確認する。


 まだ混乱しているが自分の身に何が起きたのか確かめるために千鳥足で立ち上がる。

 

「……なにか夢を見ていたような? というかここどこだろう……」


 雨は降り続いており、泥になった地面の上で目を覚ました青年。


 切り揃えられたショートヘアに、整った顔立ち、引き締まった輪郭。


 上半身はなぜか裸。やや筋肉質で、程よく引き締まった身体は健康さを感じさせる。下に履いているズボンや靴はところどころ小さな穴が開き、年季が入ってボロボロだ。


 しかし寒さはあまり感じていないようだ。どちらかというと湿気が多く暑さの方が勝っている。


 そして、手には一本の刀剣が握られている。


 漆黒の鞘に納められ、柄の部分は赤く染まり、エレガントな美しさがある。


 青年はほかに何か持っていないか探る。体のいたるところや、自分が倒れていた場所の周囲に視線を向けるが、刀剣以外何も見つからない。


 そこで今度は、周囲に視線を向ける。


 周りは樹木が立ち並んでおり、視界が悪い。おおよそ森の中にいるのだろうと青年は推測する。


 倒れていた場所のすぐ隣には洞窟があり、大きな穴が口を開けて佇んでいる。


 覗けば中は漆黒に包まれており、一歩足を踏み入れただけで視覚は役に立たなくなった。


 さらに奥からは空洞音が聞こえる。誰かの叫び声のようなうねり声のような不気味な音で、恐怖心が掻き立てられた。


 恐怖心が勝った青年は洞窟から少し距離を置き、周りを観察する。


 地面は泥で覆われ足場が悪い。足踏みをするたびにぐちゃぐちゃと不快とも気持ちいいとも捉えられる音を生み出す。


 空は樹木の葉で覆われ、隙間からかすかに雲が流れていく姿が見える。


 天気が悪い日の雲だ。ネズミ色で気持ちがどんよりとしてしまう。 


「ここはどこなんだ……、全く思い出せない……」


 この場所にいる理由が分からない青年。


 理由を知るため頭の中で昨晩の記憶を探し出す。


 両手を頭に沿え、顔をしかめながらうねるような声を出し、記憶の引き出しを開けていく。


 しかし……。


「昨日って何してたんだっけ?」


 昨日のことが全く思い出せない。それどころか、昨日以前のことも思い出せない。どこかに頭をぶつけて一時的に忘れてしまっているというレベルでなく、記憶喪失と言っても過言ではないほどに思い出すことができなかった。


「名前は……」


 さらには、名前すら思い出せない。


 何をしたのかを思い出せないならまだしも、名前すら思い出せないのは異常だ。


 名前だけではない。年齢や出身、好きなものや嫌いなもの、得意なこと、自分のありとあらゆる情報が頭の中から消え去っている。


 完全に記憶喪失だ。


「僕は、僕は、何者なんだ!」


 何も思い出せない恐怖心で、少しばかりパニックに陥る。


 絶望とも言える状況。


 ふと、あの夢を思い出す。

 

『——思い出せ! お前の目的を! やるべきことを!』


 目を覚ます直前に見た夢で聞いた声。何かを思い出すよう、訴えかけているような言葉。


 目を覚ました今でも青年ははっきりと覚えている。


「目的を思い出せ? 目的ってなんだ? やるべきことって?」


 たかが夢。


 もし彼が幸せな日常でフカフカのベッドの上で寝ていたのなら、疲れからたまたま見た不快な夢として処理されただろう。


 しかし現状は記憶もなく何も分からない状態。


 加えて何かを思い出すように訴えかけてきた夢。


 記憶のない状態の彼に何かを思い出すよう訴えかけられたら、何か意味があるのではないかと思えてしまう。


「きっと、記憶を取り戻せば夢の言葉も理解できるのかも……」


 あの夢には何か意味があるのだと、感じた彼は記憶を探すため、行動を起こすことにした。




「まずは、ここがどこなのか把握しないと……」


 周辺は木々で覆われて視界が悪い。


 どこかの森の中であろうことは感づいているが、森のどこらへんなのか、どの方向に行けば人と会えるのかは全く分からない。


 それでもどこかの方向へと一直線に進めばいずれかは森の外に出られるだろうと

青年は考えていた。

 

 早速、移動開始しようと進む方向を決めかねていたときだった――。


 カラ……カラカラ……


 何かの物音が聞こえてきたのだ。


 カラカラという軽い音。加えて葉が擦れる音と草や泥を踏む足音。


 周囲の環境が悪く、どの方向から音が聞こえてくるのか把握できない。


 音は複数。そう多くはないが、二人や三人といった少なさでもない。


 地面から生える草木が揺れる。


 何かが来る、と感じた彼は体を強張らせた。


 姿を現したのは、魔物『スケルトン』だった。


 骨だけで構成された身体、手には命を狩る取るために使うであろう刃こぼれした剣が握られている。


 魔法によって死後も傀儡となり続けている哀れな魔物だ。


「スケルトン、僕に倒せるか……」


 目を覚ましてから初めての戦闘。赤子のような状態での戦闘は無謀かと思われた。


 しかし、彼の中には恐怖心ではなく、なぜかこの場を制することができるという自信に満ち溢れていた。


 敵は幸い一体。


 逃げたところでこの魔物は、ストーカーのように追いかけまわしてくるだろう。


 青年は刀剣を構える。


「クカカカカカヵヵーーーーーーー」


 咆哮とも言えない叫びを合図に不格好な動きで間合いを詰めるスケルトン。


 振り上げらえた刃が青年を捉えると重力と共に振り下ろされる。


 骨のみで体が構成されている影響か、全体的に動きは遅い。


 青年は刃の動きを目で追い、軌道を読むと身を引いて攻撃をかわす。


 空を切った刃が方向を変え、青年に向かって牙をむく。横に薙いだり、振り下ろされたりするが、青年は身軽なステップでかわされていく。


「このぐらいの弱い魔物相手なら余裕で戦える!」


 攻撃を見切れていることに自信が付いたのか、そんなことを口にする青年。


 事実、余裕をもって攻撃を避けられており、反撃にも転じられそうな状況だ。


 そして、スケルトンが再び刃を横に薙いだ瞬間、大きな隙が生まれる。すぐにチャンスだと見切った青年は、すかさず距離を詰める。


 刀剣の間合いに入ったと同時に、刀剣を力強く握り獲物へと喰らい付く勢いで刃を横に薙いだ。


「隙だらけなんだよ!」


 残像が見えるほど素早く振るった刃はスケルトンの胸部を捉える。


 初心者とは思えない踏み込みと刀剣の薙ぎ方。敵との距離の取り方や詰め方も素人ではない。


 そして誰よりも薙いだ本人が気持ちよく刀剣を扱えていることに、驚きを隠せずにいた。

 

 胸部を捉えた刃は鈍い音を立て、スケルトンの胸部に傷を付ける。確実に、スケルトンへとダメージを与えただろう。刀剣から伝わった感触からも分かるほどにだ。


 怯んだスケルトンに対し、もう数発、追撃をする。


 これだけ、一方的になぶられればどんな魔物と言えど、生きてはいられない

はずだ。


 これは勝った。


 そう思った青年だったが……。


「クカカカカカカヵヵ……」


 スケルトンは倒せなかった。

 


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