消し恋

福沢雪

消し恋

 彼は読書部の部長で、彼女は副部長。

 ふたりはともに中学三年生で、高校受験を控えた身。


 だから部活は引退したけれど、塾が始まるのは十六時。

 読書部に在籍しているのは、ふたりのほかは幽霊みたいな部員がひとりだけ。


 そういうわけで放課後になると、彼と彼女は部室という名の空き教室で、本を読んだりおしゃべりをしたりして、塾までの時間をつぶしています。


 季節はそろそろ肌寒い、秋の終わりを感じる頃。

 その日もふたりは空き教室で、のんびりと時間を過ごしていました。


「『秋は人恋しい季節』ってよく小説に出てくるけど、わたし、よくわからなくて」


 最初に話を始めたのは彼女でした。


「それは人恋しいというか、『人肌が恋しい』ってことだと思う。寒いから、恋人と抱きあいたいってことじゃないかな」


 彼の答えは、かなり刺激的と言えるでしょう。

 彼女は目を見開いて、耳を赤くしていました。

 もちろん彼は、特に恥ずかしがる様子もありません。


「な、なんか、すごいね。部長はそういう経験あるの?」


 彼女は焦りを隠しながら、彼に問いかけます。


「ないよ。でも想像はできる。ぼくの妹はまだ七歳で、一緒に出かけると手をつないだりする。子どもはよく汗をかくから、妹の手はいつも湿ってる」


「う、うん」


 彼女は相づちを打ちながら、自分の右手に左手でそっと触れました。


「妹はなにかを見つけると、ぼくの手を振り払って走る。そういうとき、ぼくはすごく不安になるんだ」


「妹さんが、道路に飛びだしちゃうかもしれないから?」


「それもあるね。でもなんていうか、握っていたあたたかいものがなくなると、さびしい感じなんだ。手だけでなく、心も。『人恋しい』は、これに近い気がする」


 彼はいわゆるイケメンではないし、運動もあまり得意ではありません。

 けれどいつだって、むずかしいことを簡単に説明してくれます。


 人が人を好きになる理由なんて、案外そんなものではないでしょうか。


 だから彼女は、彼のことが好きになったのでしょう。

 でもそのことを、彼女はまだはっきりと自覚できていないようです。


「どうかした?」


 耳を赤くしてぼんやりしている彼女に、彼が声をかけました。


「ど、どうもしないよ。ありがとう」


「えっ、なにが?」


 彼がきょとんと、首を傾げています。


「なにがって、『人恋しい』を説明してくれたことだけど」


「そんなことに、お礼を言ってくれるんだ。副部長って、面白いね」


 彼のほうがよほど面白い。

 彼女はそんな顔をしていましたが、すぐに耳を赤くして叫びました。


「わ、わたし教室に忘れものしちゃった! 塾、先に行ってて!」



 ふたりはいい雰囲気でした。

 でも、恋人同士ではありませんでした。



 *



 いよいよコートが手放せない季節になりました。

 けれど空き教室にもエアコンがあるので、ふたりが凍える心配はありません。


 むしろ部室の温度は、彼女にとっては暑かったかもしれません。

 その日は彼が、やけに積極的に話しかけてきたからです。


「副部長。人を好きになるって、どういうことだろう」


 唐突な彼の質問に、彼女はどぎまぎとしながら聞き返します。


「それは、えっと、恋愛的な意味で?」


「もちろん」


「ど、どうしてそう思ったのか、聞いていい?」


「どうしてって……その、恋愛小説を読んで」


 彼はごまかすように言い、彼女はそれを「ごまかした」と感じたようです。

 だから彼女なりに精一杯、真剣に答えました。


「わたしの経験から言うと、その人がいない場所でも、その人のことを考えちゃうのが、恋愛的な『好き』だと思う」


「経験ということはつまり、副部長は誰かに恋をしているということ?」


「ひ、秘密」


「ぼくの知ってる人?」


「秘密だってば! というか、質問からずれてるよ」


 彼女は必死にごまかします。


「いや、ぼくが知りたかったことは、もうわかったから」


「そうなの? じゃ、じゃあ、部長は恋をしているの?」


 彼女は勇気を出して尋ねました。


「なんとも言えない」


 彼は彼女から目をそらせます。


「なんで。知りたかったことはわかったって言ったのに」


「だってぼくは、その人がいない場所だけでなく、いる場所でもその人のことを考えているから」


 それはもう、ほとんど告白のようなもの。

 彼女はそんな風に、感じたかもしれません。


 けれど彼女は、それ以上に踏みこんだりはしませんでしたた。


「もしかして、いまも?」


 そうは聞けなかったのです。

 聞けば間違いなく、彼は「うん」と言ったはずなのに。


 勇気のない彼女は、けれどうれしそうに、彼と他愛ないおしゃべりを続けました。


「高校生になっても、また読書部がいいな」


「ぼくも、そうするつもりだよ」



 ふたりはいい雰囲気でした。

 でも、恋人同士ではありませんでした。



 *



 ふたりは同じ高校を受験しました。

 入試を受けた帰りの電車で、彼は眠りました。

 彼女の肩に寄りかかって、あどけない子どもみたいな顔で。


 彼に体をあずけられ、彼女は困ったような顔をしています。

 でもどこかうれしそうに、はにかんでいました。


 電車が駅に停車して、がたんと大きく揺れます。

 彼が、びくりと目を覚ましました。


「ごっ、ごめん!」


 彼は慌てて、すぐに彼女から離れます。


「べ、別にいいよ。わたし、実はここで降りたほうが早いから。じゃあね。卒業式が終わったら、部室で!」


 彼女も逃げるように、地元のひとつ手前の駅で降りました。


 きっと彼女は、卒業式の日に告白するでしょう。

 彼のことを、ずっと好きだったと。


 電車がゆっくり、動き始めます。


「ごめん」


 彼女が去った電車の中で、彼はつぶやくように言いました。


「なにが」と、私は聞き返しました。


 私たちはいい雰囲気ではありませんでした。

 でも、恋人同士でした。



 *



 高校生になった彼女に、彼氏ができました。

 英語部に所属する、一年生の男子だそうです。


「初めて好きになった人が彼氏になってくれるなんて、わたしは幸せだよ」


 彼女のその言葉を聞いて、元読書部仲間として私も彼も祝福しました。


 私たちは、いつも三人一緒でした。

 読書部でいい雰囲気だったのは彼と彼女でしたが、そこには幽霊みたいに存在感のない私もいました。


 彼女は彼に思いを寄せている。

 そのことが、私には手に取るようにわかりました。


 もちろん彼は気づいていませんでした。

 彼女の気持ちだけでなく、私の気持ちにも。


 彼が人肌恋しさについて語った日、彼女は恥ずかしさが限界に達して忘れものを取りにいくと教室に逃げました。


 おそらくあの日、彼女は恋に落ちたのだと思います。

 妹の手を握る話を聞いて、彼女の胸は小さく鳴ったのです。

 私には彼女の心の中が、自分のことのようにわかったのです。


 だから私は、部室に残された彼と珍しく会話をしました。


「私の手は、たぶんそんなにあたたかくない。握って離しても、そんなにさびしさを感じないと思う」


 彼は興味が湧いたようで、私が差しだした手を握ってくれました。


「本当だ。冷たい」


「部長の手は、あたたかい」


「自分では、よくわからないな。じゃあ、離すよ」


 彼が私の手を離しました。


「さみしい?」


 私が聞くと、彼はうなずきました。


「少し」


「私も」


 そんなことがあってからも、私たちに会話はありませんでした。

 けれど季節が進んで、彼は彼女に言いました。


『だってぼくは、その人がいない場所だけでなく、いる場所でもその人のことを考えているから』


 これが私のことだとわかったのは、その日の夜にラインで告白されたからです。


『もう一度、きみの手を握りたい』


 私の返事はあのときと同じ、『私も』でした。


 三人で同じ高校を受験した日、彼は彼女の肩で眠りました。

 彼は目を覚ましてすぐ彼女に「ごめん」と詫び、彼女が電車を降りてからは同じく私に「ごめん」と謝りました。


 もちろん私は怒ったりしませんでした。

 けれど自分たちの交際を、彼女に伝えるべきだと彼に言いました。

 それまでは、三人しかいない部活でふたりがつきあっていたら、残されたひとりが気まずいだろうと配慮していたのです。


 卒業式の日。

 彼女は彼に告白しませんでした。

 先に彼が、私とつきあっていることを報告したからです。


 だから高校生になった彼女が言ったセリフは、嘘ではないのです。


『初めて好きになった人が彼氏になってくれるなんて、わたしは幸せだよ』


 彼女は誰にも、想いを伝えていません。


 私の目には明らかだったけれど。

 自分自身には嘘をついているけれど。


 それでも恋心を、言葉に出したことは一度もないのです。


 誰にも言えなかった恋は、「最初から存在しなかった恋」にできます。

 失恋を、なかったことにできます。

 中学三年間のうち、終わりの三ヶ月で好きだった人への想いを消せるのです。


 もしも彼女が、もっと早くに勇気を出していたら。

 私よりも先に、彼女が彼の手を握っていたら。


 きっと私も、自分の恋をなかったこにしたと思います。


 だってそうしなければ、私の中学三年間はすべて消えてしまうから。


 だから私は感謝とともに、彼女の恋を消してあげたのです。

 彼女が彼を好きにならなければ、やっぱり私の三年間は消えていたはずだから。

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