『デブの残り香【実話】』(2022-7-18)

 先日、地下鉄に乗った。

 何か特別な用事が有ったとかではなく、ただ単純に、学校の帰りだ。

 午後六時と言うことも有り、電車内は人間でひしめいている。

 僕はリュックサックを両手に持ち直し、それでもスペースが空いていなさそうだったので、仕方なく、一本待ってから乗ることにした。

 轟音。

 腹の底に響く重低音と、金切り声のような高音が、ホーム全体に響き渡る。

 炭酸の抜けるような音と共に、扉が開いた。

 僕は降りる人を待ってから乗車する。割と入り口付近に、人と人の隙間が有ったので、僕はそこ目掛けて小走りした。

 何とか、このポジションは他人に取られず済んだらしい。全く、帰宅ラッシュの地下鉄はこれだから。

 油断も隙も有ったモンじゃない。

 他人に場所を取られない為、少しでも良い場所を取る為には、ぶっちゃけ配慮なんてしていられないのが、この場所だ。

 ふう。でもこれで一息つけ──。

 刹那──背に広がる柔らかい感触と共に、僕はバランスを崩す。

 何だ!? 何が起こった!?

 お、押される……僕ごと周囲の人間を押し退ける、この柔らかい物は……ッ!!


「ふー、ふー、ふぅぅー……」


 巨体──。

 それは余りにも巨大であった。

 絶え間無い発汗により、肌はぬらぬらとテカり、尋常ならざる不快感を周囲にバラ撒いている。

 ふしゅう、ふしゅう、と。

 蒸気機関の如き鳴き声は、その事実を如実に表していた。

 ──デブ、デブだ! それもかなり大きい!

 勿論、僕も人様に言える体型なぞしていないが、それでも、それの数倍は大きい。


『ドアが閉まります』


 発車と共に、車内が揺れる。

 彼はバランスを崩したのか、その巨躯を再び僕へと押し付けた。

 お、押すねえぇ〜? かなり押すねえ?

 前方から舌打ちが飛んで来る。僕じゃない。するならば後ろのヤツにやってくれ。

 巨躯はやけに柔らかく、クッションを連想させる触れ心地だった。これが女性の胸ならば、どれほど良かったことか。

 しかし、現実は非情である。ただのデブ男の腹だ。何も嬉しくない。

 しかも、驚くべきことに、良い香りがする。

 後方のデブから、良い香りがする。

 僕は一瞬、何が起きたのか理解に苦しんだ。

 そんなはずはない。こんなデブから、爽やかな香りが発せられるはずがない。見ろよ、こんなに汗をかいているんだぜ?

 自己暗示のように、脳内で何度も何度も繰り返す。

 しかし、やはり現実は非情だった。


『ドアが開きます』


 電車が止まる。僕の降りる駅だ。

 僕は流れる人混みに揉まれながらも、無事降車を果たす。

 その時だ。

 僕の隣を、あの巨体が通り過ぎて行ったのだ。


「んふぅ…………」


 デブの残り香は、やはり、柔らかな良い匂いがした。

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