第2話 新しいバイト 


 『どうした?』


 体が震えている。冷や汗が浮き出る。

 今はなんだ。何が起きている。

 そうだ。自分は今、コクピットの中にいる。

 試合中だ。戦っているんだ。

 でも。あれ?


 手が、足が、動かない。関節は錆びついて、筋肉は動作不良を起こし、五臓六腑は萎縮している。脳の信号は途絶され、血管は鉛を流されたように酸素が行き詰まっている。


『私の…宿敵ライバルになるんじゃなかったのか?』


 耳鳴りが酷かった。頭が破裂しそうなほど痛い。

 視界が揺らぐのは、目が泳いでいるからだ。


 喉奥に栓がされたみたいだ。薄暗いコクピットの中で、窒息しそうになっている。


 恐怖よりも、絶望よりも深い〈何か〉が、全身を縛り付けている。


『残念だよ。諸星もろぼし


 酷く、冷徹な声が届く。

 刹那。

 眼前に佇む漆黒の巨人が総身を揺らす。陽炎のように迫り来る。

 獣のような鉄爪が襲い掛かる。

 凶刃が火花を散らし、モニターに映る景色を切り裂いた。

 視界が、ブラックアウトする。


「っぁ!!!!」


 ジリリリリリリリリリリ。目覚まし時計のベルが鳴き叫んでいる。

 最悪の目覚め。

 酷い夢。そう、夢だ。だ。


 寝汗がびっしょりと肌を濡らしている。重たい。起き上がる気力も削ぎ落とされている。頭がぼんやりと不快感だけを訴えて、気分が悪い。だが二度寝をしたところで、悪夢の続きを見るだけだ。


 諸星空也もろぼしくうやは、ゆっくりと上身を持ち上げる。


「っ、はぁ……面接じゃん、今日」


 空也は滑り落ちるようにベッドから降りて、朝の支度を始める。顔を洗って、歯を磨く。上下揃ったジャージに着替える。


「母さん、またそんなとこで寝て…」


 ソファで毛布にくるまって寝ている母に声をかける。泥のように眠る母に起きる気配はない。昨日も夜遅くまで仕事をしていたのだろう。やはり、起こすのは忍びないと思い直す。


「行ってきます」


 母の瞼が開かないように、小声で、そう言い残して家を出た。

 扉を開けると、寂浜町の潮風が吹き抜けた。

 

 最寄りのバス停に辿り着くと、空也は暇つぶしにスマートフォンを開く。SNSのニュース欄に、『ファイトギア・世界選手権開幕』との記事が浮上する。記事のサムネイルには、格闘競技用ファイトギアが映し出されている。華やかな銀色の塗装が施されたスタイリッシュなフォルムデザインが輝く。


 有人二足歩行ロボットが普及した今、この世界で最も注目を集めているスポーツ。それこそがファイトギア。鉄と鉄がぶつかり合う、新時代の格闘技だ。


(お、日本の機体結構勝ち上がってるじゃん)


 夢中になって読み進めているうちに、バスが目の前で停まる。

 スマホをジャージのポケットに押し込み、バスに乗った。

 車体は海岸沿いを走り、駅前へと向かう。寂浜の景色が窓の外を移ろいで行く。


 寂浜さびはま町は、神奈川県の湘南地方西部に位置する港町だ。

 砂浜に立てば、茫洋と広がる海の向こうに江の島が見える。夏になれば海水浴目的の観光客で賑わうが、季節はいまだ春の暮れ。ビーチに人足は少ない。


『次は、オリオン商店街。オリオン商店街です』

 景色に見飽きた頃、目的地のバス停で降りる。

閑静な商店街を、衛星地図に従って進む。


「ここか」

 空也が辿り着いたのは、商店街の一角にある古びた店だった。

 赤い看板に掠れた文字で、「白鳥モーター」と書かれている。

 店前には、全長1m前後の二足歩行ロボットが陳列されている。家庭用の小型ギアだ。都心では信じられないほどの格安特価で売られている。

 個人経営のギア専門店だ。鉄と油の匂いが鼻をくすぐった。


「すごい…」


 空也は、一瞬並んだ小型ギアに心を奪われるが、すぐに初心を思い出し、ガラス扉を開ける。ドアベルが軽快な音を鳴らし、彼の来店を伝える。


「すいませ〜ん。面接で来た、諸星空也です」


 店奥に聞こえるように声を出すが、返答はない。


「すいませ〜〜〜ん………」


 人の気配がない。天井で回るシーリングファンの音だけが寂しく鳴っている。


(いないのかな…)


 どうしたものかと考える。とりあえず、店は開いているのだから、人が出てくるのを待つべきだろう。少しだけ、店の中を見て回ることにした。


「整備用品に、発電機まで…」


 店内には、ギアの周辺機材が並べられていた。歯車の磨耗を軽減するためのオイルや、清掃用の高圧洗浄機、ギアの稼働に必要な膨大な電力を賄う発電機などが、殆どのメーカーで取り揃えられている。


「修理も、やってるのか…」


 張り紙に『小型ギアの修理、やってます』というシンプルな謳い文句が書かれている。


 あてどなく店内をうろついていると―――。


 ジジジジジジジジッッッッッ!!!!!!


 。工業的な鋭い音だ。


(! 誰かいるのかな)


 音が鳴る方へと目を向けると、店奥のシャッターが半開きになっていた。

 空也は引き寄せられるようにシャッターの方へ向かう。


 屈んで中を覗き込んでみると―――、暗闇の中で火花が散っていた。


「……!」


 ジジジッ、と蝉の鳴き声のような音を奏でながら、青白い火花が咲いている。


 見えたのは、少女のしゃがんだ後ろ姿だ。ふんわりとした癖っ毛が、散りゆく火花に照らされる。水色に近い淡い髪色が、フェイスシールドの下から覗いている。


(……つなぎ服?)


 少女はブカブカの作業着…グレーのつなぎ服で身を包み込んでいる。ガレージの中は薄暗く、そのくらいのことしかわからない。

 ただ、鉄の削れる音が断続的に響き、強い火花が閃光を伴って散っている。


(あれ、溶接だ)


 少女は地面に置いた鉄板に向かって金属の棒を圧し付けている。鉄板を放電による高熱で溶接しているのだ。弧状の青白い光が暗闇の中で鮮烈に瞬いている。


(…すごい集中力)


 思わず、見惚れていた。


 ろくろに向かう陶芸家の姿そのものが作品として成立するように、彼の視線は鉄板を溶接する少女に釘づけになっていた。

彼は屈んだ態勢のまま、シャッターの中を覗き込んでいる。


 時が止まったように、つなぎ服の少女を見つめている。

 

 すると、―――。


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