霧雨
里岡依蕗
霧雨
鉛色の空からは、小さい水の粒が溢れんばかりに滴り落ちてきている。梅雨でもないのに、連日天気予報には傘マークが踊っている。嬉しいのは田んぼや草むらにいるカエルかカタツムリくらいだろう、嫌な湿気と水滴が窓に当たる音は、もう聞き飽きてしまった。
長靴を履けるのが嬉しくて、レインコートを着て、傘を広げ、休み時間になると、水溜りだらけの校庭を走り回って先生に叱られていた同級生がいた。彼は今元気だろうか。そう言えば、もうしばらく同級生には会っていない。顔や名前も何人か忘れてしまった。彼らに会っても、今やきっと誰か分からないんだろう。そういう存在だったのだ、彼らは。
それに比べて、僕の彼女はとても可憐だ。綺麗な黒髪、大きな瞳、細い体、全てが僕の理想通りの姿だ。彼女を連れて出かけると、周りからは変質者だと毛嫌いされてしまう。それは仕方のない事とは自負している、だから僕にだけ分かればいい。彼女こそが一番の僕の理解者であるから、僕も彼女を一番理解している存在でありたい。
さて、そろそろ、時間だな。いつもの儀式を始めよう。
枕元の眼鏡を装着して、フレーム横のボタンをタップする。すると、隣のベッドで寝ていた彼女は、眠りから目覚めるのだ。まだ眠いのか、左手で目を擦っている。
「おはよう、今日はね、金曜日だ。君が大好きな週末になってきたね。外は相変わらず雨だ、傘の花が揺れて、とても綺麗だよ。君の方が綺麗だけどね、なんてね」
午前六時半、アラームをセットして、毎日決まって同じ時間に起きる。最初のうちはきつかったけど、毎日の習慣にすれば苦にはならない。カーテンを開いて、部屋に光を入れる。今日は雨ではあるけれど、彼女にはそのような気候は関係ない。彼女の希望に合わせるのが、僕の務めだ。彼女が夜に起きたければ夜に起きるし、毎日日の光を浴びたければ、雨だってカーテンを開けてあげる。
「外、見えるかな。ほぉら、ね、凄いでしょ? 青に黒、お花柄やチェック柄、やっぱり透明が多いね。君にはどれが似合うかな」
彼女と出会ってからは、周りの人間との対話は減った。でも僕は、彼女さえいてくれたらそれでいいんだ。兄妹でも恋人でもない、ただ唯一無二の存在の君と一緒にいられたら、僕はもう、それだけで幸せなんだ。
「君は、そうだな。やっぱりオレンジが似合うよ。弾けるような、フレッシュな色が似合うねぇ。そうだ、今日はオレンジにしようか。決めた、君の今日の服装はオレンジ色のワンピースにしよう。昔流行ったギンガムチェックのオレンジを見つけたんだ」
彼女の背中を撫でると、今まで来ていた薄黄色のパジャマから、想い描いた通りのオレンジのギンガムチェック柄で、フリルを満遍なく使った、膝丈までのワンピースに服装が変わった。まるで人形のような可憐な出立ちで、思わず息を呑んだ。
「いやぁ、これは驚いた! とんでもなく可愛いねぇ、唯一無二の美しさだよ! とても似合ってる、流石、僕の大切な」
トン、トントン、と小さい音ながら、扉を叩く音がする。この音は母だ、計三回叩くのは、いつもながらの母の癖だ。
「……もう、起きたの? 」
……ちっ、彼女と話してる最中なのに。
「キリと話してる時は、来ないでって言わなかった? 邪魔しないでくれって言ったじゃないか! 」
「ご、ごめんなさい。お母さん、後で買い物行くから、何かいる物ある? 」
一日に何回か、こうやって声をかけに来る。しつこいから一回で済ませて欲しいと言っても、懲りずに小刻みに部屋をノックしてくる。
「買い物は、後で自分で行くからいいって。ちゃんとキリと話さないで行くから」
「いいの! わ、私が行ってくるから、貴方は家にいてちょうだい! その方が……」
「その方が、何? 」
わざと低い声で問いかけると、どうしよう、ええと、と言葉を探す母親の掠れた声が聞こえる。早く言えばいい、もう貴方が言いたい事は分かってるんだよ。
「その方が……ほ、ほら、キリちゃんとずっと話していられるでしょ? 」
……嘘つき、また嘘をつかれた。そういう言葉を聞きたいんじゃないのに。
「分かった、じゃあ今日も一日、一緒に家にいるよ。そうだ、勉強はしっかりするから心配しないでね」
わざとらしく口角を上げて明るく返すと、ホッと胸を撫で下ろした母は、ため息を吐いた。
「そう、ごめんなさいね。じゃあお母さん行ってくるから。夕飯までには戻るからね、それまではお家にいてね」
母は家にじっとしていられないようで、朝から殆ど毎日何処かに外出している。すっかり日が暮れた夕方には、紙袋をいくつも両手に提げて帰ってくる。いったいどこに行っているのか、その資金が何処からかなんて、もう興味すらないけれど。
「……ごめんねぇ、いきなり。びっくりさせちゃったね。君との時間が少なくなるのは惜しいんだ、あぁいう邪魔が入らないように、ずっと一緒にいられるように、僕も早く独り立ちしなきゃいけないね」
彼女は、眉を下げて首を傾げ、少し不安そうだ。心配しなくていいよ、もう僕は君なしでは生きられないほどに、君に夢中になってしまっているんだから。
「今日はねぇ、この前送られてきたテストを解答しなきゃならないんだ。面倒くさいけれど、これをやらないと、怒られちゃうからさ。君といたいから、頑張らないといけないんだ。だから、少し休んでいてね? 」
少し不安そうに頷いた彼女は、静かに目を閉じた。横のフレームをタップすると、彼女は布団に倒れ、また眠りについた。
「……はぁ、やるか」
彼女に出会ってから、世界が変わった。闇しかなかった汚れた世界に現れた、一筋の光のように思えた。僕は彼女に少し依存しているのには、もう薄々感づいている。けれど、彼女を失ったら、もう僕は生きていく糧はないと考えてしまうまでになってしまっている。もう後戻りはできないほど、彼女に時間を割いている。だから、何かに理由をつけて、彼女と離れる時間を作る。今ならまだ、理性が残っているから。
「まずは、国語からやろうかな」
送られてきたテストは、入学した高校の抜き打ちテストだ。最初は通学していたけれど、彼女との共有時間を奪われたくなくて、通信制に切り替えた。後ろを振り向けば、可愛い彼女の寝顔が見られる。こんな幸せな事はない。
世間的にはまだあまり知られていない、未来型共存アンドロイド——それが彼女の正体だ。眼鏡やピアス、形は様々あるが、専用端末を所有する人物にしか、彼らの姿は見えない。
彼らを認知していない他人からは、所有者は何もいない空間にひたすら話しかけているる異常者にしか見えない。少しずつ報道されてきてからは、少しずつ彼らを所有する者も増えてきた。ある人は家族の一員として、ある人は恋人として、或いは、僕のように幼馴染として、彼らを愛でているのだ。
体の内部にチップを埋め込んでいれば、持ち主が彼らの生活、服装、思考など、全てが管理ができる。稀に人間の管理ができない、いわゆる異常反応を起こす場合が見受けられる事があり、問題視されているとの報道もあるが、僕のキリはそんな事はない。僕とキリとの信頼は、どのパートナーより硬い、そう僕は思っている。
キリは、さっきいそいそと買い物に出かけて行った母が、僕が寂しくないように、と四歳くらいの時に家に迎えてくれた。それからもう十年以上一緒に暮らしている。僕が成長すると共に、キリもより綺麗に、美しく成長している。友達というより幼馴染だ、名前も僕が付けてあげた。
しかしどうやら、所有するのにも管理費もかかるのと、僕が彼女に日々依存しがちなので、母はキリの事を後悔しているようだ。
「先生、あの子を止める事は出来ないでしょうか。もう何年も、あの子が一人で家から出て来たのを見た事がないんです。いつもキリちゃんと一緒で……。あの子の将来が心配なんです、私がいるうちはいいんですが、ちゃんと自立していけるのか」
静かにトイレに行くときに、一階から電話で相談する母の声がした事がある。分かってるんだ、キリが本来存在してはいけない事くらい。けれど、彼女はもう、僕の一部なんだ。今さら彼女と離れるなんてできない。
「……後一ヶ月か」
三年間ごとの契約更新日まであと一ヶ月とのメールが届いた。毎日金額も見ずにカード支払いを繰り返す母が管理費の支払いをしているので、ひょっとしたら、というのがある。何度かそんな危機があり、キリが作動しなくなってしまい、僕が取り乱した事があるので、母も気を付けてはいるらしい。
「もう少しバイトの出勤、増やそうかな」
仕事先の店主も、チップを埋め込んでいるようなので、仕事中は会話禁止を前提に、眼鏡をかけての出勤を許してくれている。バイト先にも端末ピアスや腕輪をしている従業員がいる。あまり報道されていないだけで意外とメジャーなのか、それともたまたまこの店が異常なのか、外に極力出ないので分からない。
「……ん、どうした? 」
キリが珍しく、自分から起きた気配がした。彼女の方に向くと、眉をハの字にして涙を溜めて、両手を伸ばしていた。なんて愛らしい子なんだ。
「あぁごめんよ、寂しかったね。テストは自分でやらなきゃいけないからさ、つい冷たく当たってしまったかな。許してね、君を嫌いになった訳ではないから」
優しく彼女の頭を撫でながら抱きしめると、寂しかったとでも言うように、僕に抱きつき、頭を擦り付けてきた。
「本当に、君は僕の一部だよ。ずっと一緒にいてね。大好きだよキリ」
あくまでも彼女は幼馴染なんだ、それは変わらない。理性が吹き飛びそうになるのを抑えるのに必死になって、全教科する予定が結局二教科しか終わらなかった。
その日の夜、一階が珍しく騒がしかった。おそらく、父が帰って来たんだろう。父が長期出張から帰って来るや否、いつも口喧嘩が始まる。母は主婦なので、昔は一緒に行っていたが、仲が悪くなってからは、もう行かなくなった。事の発端は察しの通りだった。
「おい! これはどういうことなんだ! 何でこんなに使いまくってんだよ! 」
「そんなこと言ったって仕方ないでしょ! もう請求来てるんだから! 来月からは加減するから、お願い……止めるのだけはやめて下さい! 」
「お前はもう中毒になってるんだよ、俺がまだ稼いでるからいいけどな、この先何かあったらお前どうするつもりなんだ! こんなに浪費家とはなっ! 」
「きゃっ! 痛い……。ごめんなさい……私、我慢するから。だから、止めるのは」
「限度額を減らしたら、また新しいカードを作ってるの知ってんだぞこっちは。いたちごっこだろうが! 」
「じゃあカードを減らします、一枚に減らしていいから、お願いします。今度は守りますから! 」
母が必死にカードを必要とする理由は、すぐ決済が済むとか、小銭使いが勝手悪いのもあるかもしれない。しかし、理由の一つとして、キリの管理費がカード決済のみなのもあるはずだ。
四歳のクリスマスに、家族揃ってキリを迎えた時の事を、きっと家族皆覚えている。長年連れ添った息子の唯一の友達を切り離すのだけは避けたい。その気持ちが両親共に同じなのは、毎回の喧嘩で彼女が話題に出ないから理解している。
「……僕は、どうしたらいいかな、キリ」
二階に続く階段に響き渡る罵声で、溢れ落ちる涙と震えが止まらなくなった僕を心配してか、キリは、優しく頭を撫でてくれた。
「君と一緒にいたい、けれど、僕はまだ独り立ちできるような稼ぎもない。両親に迷惑かけるくらいなら、ここからいなくなってしまいたい。けど、君を一人したくないんだ。我が儘だね、僕は。どうしたらいいんだろう」
「……ない」
「……えっ? 」
いつも話さないキリが喋った? 話さない契約だったはずなのに、どうしてだ?
「カズキは、ヒトリじゃない、キリがいるから」
カズキ……僕の名前、初めて呼んでくれた。奇跡が起きたのか? もしかして、さっきのメールにあった誤作動なのか? いやもう誤作動でいい、ずっと誤作動でいいよ、そんな鈴みたいな可愛い声だったんだね。あぁ嬉しいよ、君が僕の名前を呼んでくれる日が来るなんて……
「ありがとうキリ、君がいてくれて、僕は本当に幸せ者だ」
「キリも、カズキといるの、ウレしい」
そうだ、今までどんな時もキリと一緒だった。キリと一緒なら、何でもできそうだ。どんな事でも。
「キリ、大好きだよ。友達というより、それ以上に君を愛してる。もうどうしようもないくらいだ、こんな僕と一緒に行ってくれるかな? 」
意味を理解するのに時間がかかったのか、真の意図を理解していたのか、キリは真顔でしばらく僕の顔を見つめていた。やがて、顔が綻び、愛らしい笑顔になり、手をこちらに伸ばして来た。
「キリは、カズキのだから。カズキがナニをしてもイッショだよ」
「ありがとう、キリ。じゃあ行こう、揉めてる今なら気づかれないよ」
止まない喧嘩をする両親に気づかれないように静かに階段を降りて、家を出た。外はまだ冷たい雨だ、彼女にはレインコートを着せて、手を繋いで駅へと向かった。
『〈ご利用者様への注意喚起〉
未来型共存アンドロイド、ロイドをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。現在、契約更新が一ヶ月に迫られたご利用中のお客様におきまして、契約更新付近時、パートナーとの信頼度に応じて、契約事項にない発言、発声、思考を感知する不具合が男性タイプ、女性タイプ共に発生しております。現在至急対応にあたっている状況でございます。お客様には多大なるご迷惑をおかけしております事をお詫び申し上げます。』
「カズキ、ドコにイくの? 」
揺れる電車の中で、白いフード付きボアを着たキリは、僕を見上げて尋ねてきた。
「ん? 海だよ。夜の海も綺麗なんだ。キリと一緒に行くなら海がいいって、友達だと思ってた時から思ってたんだ」
「トモダチ? 」
「今はもう違うけどね、僕は君と永遠に一緒にいたいんだ」
もう最後だと思えば、どんなクサい言葉も出てくるんだな。我ながら怖い。
「キリも、カズキとイッショがいい」
遠慮がちにゆっくりと握ってきたキリの手を、優しく握り返した。もう、このまま時が止まってしまえばいい。
その後、急に眠気に襲われた。物凄い衝撃音と、可愛いキリの声を聞いたのが、僕の記憶の中の最後だった。
「カズキ、ずっとイッショだよ、ダイスキ」
霧雨 里岡依蕗 @hydm62
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