④物置

 もう何年も使用していない屋根裏の物置は、埃っぽくてとても長時間いられるような空間ではない。小さな白熱電球が天井からぶら下がってはいるが、窓がないので薄暗くて不気味だ。山のように積まれた段ボールの中身は全てが誰かしらの遺品。私の両親、そして祖父の死を経て、この物置は床が見えないくらい大量の箱が所狭しと積まれるようになった。

 扉近くの段ボールは祖父の遺品。亡くなったのが一昨年だからこの部屋のなかでは新しい。年の割にアウトドアな人だった。元気だった頃は私をキャンプやサイクリングへと連れていった。

 そんな祖父は重い病気になった。じわじわと全身の自由が奪われていき、ついには生命の維持もままならなくなった。小さな焚き火が自然に鎮火していくように、静かに祖父は亡くなった。静寂のなか祖父は見送られ、祖父の遺品もまた静寂が支配するこの物置に運ばれたのだった。

 物置の奥に進むと年季を感じる段ボールが並ぶ。両親、特に母の遺品だ。昨年が十三回忌だったので、亡くなったのはもうかなり昔になる。幼稚園児だった私は、両親が自動車事故で死んだと言われてもはっきりとは理解できなかった。両親がいなくなったので祖父母と暮らさなくてはならないことを、なんとなく受け入れるだけだった。

 もう両親の記憶はほとんど残っていない。それでも僅かに思い出せるのは、ふたりともコーヒーが好きだったということ。一人っ子で内向的な私にとって両親は唯一の遊び相手だった。でもふたりがコーヒーを淹れて飲んでいるときだけは、私にあまりかまってはくれなかった。今思えば、子育ての束の間の休息としてコーヒーくらいはゆっくりと飲みたいのだろう、と容易に想像できる。でも当時はそれがたまらなく寂しかった。大人だけの時間を遠くから眺めるうちに、コーヒーに憧れを感じる一方で両親を奪われるという嫉妬も抱いた。

「本当に奪ったのは車だったなぁ……」

 ひとりごとを言いながら段ボールを確認していると、側面に『美菜子 ミルなど』と書かれた箱を見つけた。開けると彼が持っていたような、豆を挽く道具や細い注ぎ口のケトルなどが入っていた。これだ。

 箱についた埃をあらかた払ってからキッチンへと運び出す。物置は空気が澱んでいて息が詰まる。早くここを脱出しなくては。さもなければ、私の持ち物も遺品としてこの部屋へと運び込まれることになるだろう。

 キッチンのテーブルに重量感のある段ボールを置くと、中身がガチャリと音を立てた。思ったより大きくて嫌な音だったので、ひとりで驚く。

「大丈夫? 何の音なの?」

 長電話をしていた祖母が不快な音を聞きつけて、リビングから顔を覗かせた。心配そうに眉をひそめていたしわの多い顔は、その視線がテーブルの箱に合った瞬間、恐ろしいものを見たときのようにすぅっと血の気が引いていくのがわかった。

「なに……やってるの?」

 怒りとも悲しみともとれるような冷たい呟きは、私を混乱させた。始めは、未だ埃にまみれた汚い箱をキッチンに持ち込んだことを怒っているのかとも考えたが、それどころではなさそうだ。母の遺品を持ちだしたせいだろうか。

 母のことについて、祖母の前ではなるべく触れないようにしてきた。愛する娘を失った祖母の苦しみは計り知れないし、無理に掘り返しても辛いだけだと思ったから。そんな私が母の趣味であったコーヒーに興味を持ち、母の使っていた道具を使おうとするのは、いけないことだろうか。私は箱の一点を見つめながら考えた。

 リビングからガタリと音がしてそちらを向くと、祖母が床に膝から崩れ落ちていた。顔を手で覆い、指の隙間からはぽろぽろと涙が零れ落ちている。

「え、おばあちゃん?」

 急いで駆け寄ると祖母は小さな声で、ごめんね、と繰り返した。祖父の葬式でも気丈に振舞っていた祖母がこんなに弱った姿を見せるとは。落ち着くまで小さな背中をさすり、ソファに座らせてから温かい緑茶を飲ませる。

「お茶まで淹れられるようになって。随分と大きくなったんだねぇ」

 涙混じりの弱々しい声。祖母は悲しそうに笑う。

「当たり前じゃん。だってもう大学生だよ」

 少しでも空気を明るくしようと、私は精一杯の元気な声で言った。

「美菜子もね、あっという間に大きくなって、結婚して、あんたを産んだんだよ。さっきの箱は全部、美菜子のコーヒーの道具」

「へえ……」

「昔は美菜子が何種類も大量にコーヒーを淹れてね、あんたのおじいちゃんと一緒に飲まされて、感想を言わされたの。あんたもそうなるのかもね。」

「そんな、お、おかあさんみたいにはならないよ」

 おかあさん、その単語を口に出すのは何年振りだろうか。うまく口が動かない。

「こうやってあんたのおかあさんのことを話すのは久しぶりだね。小さい頃は美菜子のこと聞きたがったのに、いつの間にか聞かなくなって……ねえ、美菜子のためにもコーヒーの道具は使ってやってよ。埃かぶってるだけってのも寂しいからね」

「それも、そうだね」

 湯呑の緑茶をジビリとすする。少し渋かった。

「私らふたりであんたの両親も、おじいちゃんも見送ったね。私らは取り残されるばっかりで。それにあんたはおばあちゃんも見送らなきゃいけないんだ」

「おばあちゃんはまだ死なないよ。もっと長生きするって」

「どうだろうねぇ、また昔の同級生が亡くなったんだって。さっき電話があったの。明後日がお通夜で、明々後日が告別式。ちょっと遠いから泊っていこうと思ってて……留守番頼んだよ」

 そうか、それで弱っていたのか。祖母はつい最近もかつての同級生と旅行などをして交流していた。たまにうちにも来て、お菓子をくれた人だ。

「そっか……気を付けて」

 くたびれたようにソファに横になった祖母は、以前より一層老けたように感じる。いつか祖母も私を置いていなくなる。そしたら本当に私はひとりぼっちだ。

 キッチンで箱が寂しく放置されている。ソファから立ち上がり、箱の中身を出す。見たことあるものからないものまで様々だ。動画サイトで適当に見つけたコーヒーの淹れ方の解説動画をみながら、器具を用途や状態の良し悪しで分類していく。

「これがミル、これはドリッパー。うわ、プラスチックにヒビがある……」

 名前や使い方がわからないものもあったが、あらかた仕分けが終わると達成感がある。はやく自分でコーヒーを淹れられるようになりたい。足りない器具は多く、コーヒー豆もないので淹れることはできないが、モチベーションは最高潮だ。

 並べた器具を満足しながら眺めていると、ズボンのスマホが振動を伝える。通知を開くと彼からだった。

『明後日、どうかな? いつもの教室にいるね』

 文字列だけで心が躍る。明後日、彼に会える。コーヒーの淹れ方を教わろう。器具や豆のことも聞いてみようか。もう一回ブラックコーヒーも飲んでみたい。

『行けそうです。道具を揃えたいので色々と伺えたら嬉しいです』

 返信すると、彼からすぐリアクションが来る。

『じゃあ、明後日一緒に買い物しない? もしよかったらおすすめの道具でも紹介するよ』

 彼と一緒に出掛けるということだ。胸は高鳴り、自然と口角が上がる。同級生ならまだしも先輩と外出するのは初めてだ。緊張よりも心待ちにする気持ちが勝つ。一緒に買い物をしたら、彼とより親しくなれるし、彼のまだ知らない一面も見られるかもしれない。なんて魅力的な提案だろう。期待で宙に浮いた気持ちをそのまま文面にしたためる。

『是非行きたいです! 嬉しいです、助かります!』

 ダメ押しで、喜んでいるキャラクターのスタンプも送信した。送信してから、はしゃぎすぎてしまったと後悔した。

『明後日楽しみにしてるね!』

 一緒に送られてきた、二頭身の猫が何かを心待ちにしている様子のスタンプは、柔らかなタッチで可愛らしくて、少し彼に似ている気がした。

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