③引力

 キャンパスの桜は、先日の雨のせいでかなり散っていた。二限の授業を終えた学生たちは、ぞろぞろと食堂に吸い込まれていく。あまりの人ごみに嫌気がさして、学食での昼食は諦めた。校内のコンビニで菓子パンを買い、日陰のベンチでスマートフォンを片手に貪る。

 指は自然と、彼とのメッセージの履歴をタップする。一言、一文字が自分に向けられていることが嬉しくてたまらない。理由もなくトークのページを閉じたり開いたりする。アカウントのアイコンは、コーヒーカップを持って照れ笑いを浮かべる彼の写真。どこかのカフェのようだ。誰に撮ってもらったのだろうか。もしかして彼女だろうか。

 彼のことが気になる。まだ一度しか会っていないのに。こんなに他人に興味を持ったのは初めてだ。出身は? 家族構成は? いつからコーヒーが好きになった? コーヒー以外に好きなものは? 聞きたいことは際限なく生まれる。今なら、先日授業で隣になった男が私を質問攻めにしたことが、少しだけ理解できる気がする。確か、古川とかいう名前だった。茶髪で奇抜な恰好の―――

 ふと視界に入った派手な男を目で追うと、その男と目が合った。手を振りながらこちらに向かってくる。

「あれ、久しぶりじゃない? 休んでた?」

 黒いシーツを身体に巻き付けているようなトップスに、ダボついた真っ赤なズボンを履いている。古川だ。

「ああ、久しぶり、風邪ひいて……」

 マジかヤバイな、と驚いてから古川はカバンを漁る。革のカバンは年季が入ったもののようだ。くぐもった光を反射している。

「いつから休んでた?」

「大学は昨日と一昨日休んだけど」

 古川は何冊かのノートを差し出すと、私の手に持たせた。訳がわからず目線を上げて顔を見ると、屈託のない笑みを向けられる。

「ええと、ノート?」

「必修のだけどいらない? もう借りた?」

 古川は授業のノートを貸してくれたのだった。意外と良いヤツなのかもしれない。ペラペラとめくると、どのページも丁寧な字で綺麗なノートだ。

「あ、ありがとう」

「まあ、困ったときはお互い様だからな」

 思わぬ親切に照れる私を見て、古川も照れて後頭部を掻いた。午前中で帰るようだったので古川とはそこで別れた。人って見た目じゃないんだな、としみじみしながら食べかけのメロンパンを頬張る。糸の切れた凧のように、不安はどこかへと飛んで行った。



 そよ風とコーヒーの香り。懐かしくて切なくて、泣きたくなる。ぬるま湯のなかにいるみたいな心地のいい眠り。

 あれ、なんで寝ているんだっけ。ぼんやりとした頭で考えてもわからない。目を開けて辺りを見ると、自分が教室にいたことに気付く。そういえば待ち合わせていた教室に早く着いたから、彼のことを待っていたっけ。

 はっとして状態を起こすと、右の長机でコーヒーを淹れていた彼がびくりと驚いた。

「あ、起きた。おはよう」

 約一週間ぶりの彼は、相変わらず穏やかそうに笑みを浮かべる。机にうつぶせで寝たせいで下敷きになった腕がしびれていたが、そのしびれさえ忘れるほどに心が癒される。

「お、おはようございます……すみません寝ちゃって」

「大丈夫。気持ちよさそうに寝てたね」

「恥ずかしいところをお見せしました」

 暗いスマートフォンの画面に映る自分を見て、ボサボサになった髪を直す。顔に跡がつかなかったのが不幸中の幸いだ。

「ちょうどコーヒーがはいったんだ。今日はアイスコーヒーにしてみた。カフェオレでいいかな?」

「それで大丈夫です。ありがとうございます」

 紙コップを受け取ると、ヒヤリと冷たさが伝わってきて気持ちがいい。薄茶色の液体をごくりと飲み込む。冷たさが染み渡り、寝起きの火照った身体が静まってゆく。水分を欲していたせいかあっという間に飲み干してしまった。

 右からの視線に気付いてそちらを向くと、彼は自信ありげに私を見つめていた。

「どうだった?」

「おいしかったです。冷たくて、さっぱりしていて、飲みやすかったです」

 それはよかった、と言わんばかりの満面の笑みで頷いている。そんな彼のコップにはブラックのコーヒーが注がれていた。

 ビーカーには余ったコーヒーが光を受けて、琥珀色に輝いている。どうしてもそこから目が離せなくなる。不思議な引力によって私の意識は吸い寄せられていく。どんな香りでどんな味だろうか。そんなにブラックコーヒーがおいしいのだろうか。母の愛した、そして彼の愛するコーヒーは一体どんなものなのだろうか。

「大丈夫?」

 少し掠れた優しい声で現実に戻された。

「す、すみません。ボーっとしてました」

 焦って取り繕う私を見て小さく笑ってから、彼は自分のカップを差し出した。

「ブラック、飲む?」

 魅力的で、神秘的な黒い液体は、紙コップのなかで艶やかにきらめく。心は高まり、手はゆっくりと、しかしためらうことなく彼のカップを受け取っていた。口をつけると、芳香とともに冷たいものが口腔へ流れ込む。

 苦い。冷たい。酸っぱい。今の自分にはあまりにも刺激的だ。身体は拒絶するが、何とかして飲み込む。苦い香りとともに、ハーブのようなさわやかな香りも残る。液体は苦いがこの後味は嫌いじゃない。

「にが……いけど、ちょっとだけおいしいです」

「本当に!? 大丈夫? 苦すぎない?」

「後味がすっきりしてるので飲めそうです。でも、まあ苦いかもです……」

 まだ早かったかなぁ、と呟く彼に断ってから、ペットボトルの水を飲む。不思議な後味はスッと消えていく。コーヒーと彼に少し申し訳なさを抱きながら、ごくごくと流し込む。そんな私をふたつの丸い眼が捉えていた。

「ねぇ、今度は佐藤くんがコーヒー淹れてみない?」

「い、いや、無理ですよ! さっきだって、寝てて先輩が淹れてるのを見逃しちゃいましたし、まだ全然わからないので」

 彼は不満そうに頬杖をつく。

「えー、そう? 一回やれば色々わかるようになると思うんだけどなぁ、俺だって教えるし」

「まだ先輩のを見て学びたいんです。もう少しコーヒーを知ってから淹れたくて」

「うーん、そっか。じゃあドリップの練習はまだおあずけかぁ……」

 彼は口を尖らせて言うと、私が残したコーヒーを一気に飲む。横顔は夕日に照らされて燃えるように赤い。

「それじゃあ、そろそろ帰ろっか」

 あっさり放たれたその言葉で、私は急に寂しさを覚える。名残惜しくてたまらない。遠くからは『夕焼け小焼け』が小さく聞こえてくる。この時間を手放したくない。”次” があるならそれが確実でないといけない気がした。

「あの、また、こうしてコーヒー飲みましょう」

 意志に反して声が震える。彼は片づけをする手を止めて、こちらをじっと見る。それから花がほころぶような柔らかな笑みを見せる。

「うん、そうだね、また来週にでも誘うつもり。あと、もしよかったらサークルにも入らない?」

「サークル、ですか。確か、この前会ったときもコーヒーのサークルの活動でしたっけ?」

「そう、俺以外のメンバーは三人でみんな理工学部だから別のキャンパスなの。去年まではこっちのキャンパスの先輩と一緒にコーヒー淹れてたんだけど、卒業しちゃってさ」

 困ったようで、寂しそうで、放っておけない。どうしてか彼が気になる。なぜだろう。そんな難しいことを考える前に、言葉は声になっていた。

「わかりました、入ります」

「え、本当に!」

「本当です。これからもお願いします、先輩」

 満面の笑みで握手を求められたので手を出すと、ぎゅっと握られてぶんぶんと揺さぶられる。

「先輩、腕とれちゃいますよ」

 夕日に赤く染まった空き教室で、肩がおかしくなるくらいの握手をした。触れ合った手の感触は、時間がたってもなかなか消えることはなかった。

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