34. 汚されたドレス

 綺麗なドレスが台無しである。

 幸い汚れていたのは服だけであり、フローラの顔や髪にはインクがついてはいなかった。

 エマが急いでフローラのドレスを拭く。

 だが、ハンカチで頑張ったところで、そう簡単にインクの汚れは取れない。

 エマが泣きそうな顔で必死に手を動かす。

 飴玉模様の可愛らしいハンカチが真っ黒になる。

 しかし黒い汚れは取れなかった。


 フローラがエマの手を止める。


「もう充分ですよ」

「しかし、まだ汚れがついたままです」

「汚れてしまったものは仕方ありません。今日のパーティは休みましょう」

「そんな……」


 この状態でパーティに出るわけにはいかない。

 それどころか人前に出ることすら躊躇われる。

 ドレスがインクまみれの惨状を人前に晒すわけにはいかないのだ。


 エマは悔しい気持ちだった。

 誰かがフローラを貶めた。

 それは明らかだ。

 フローラのドレスにインクを落とした人物を、エマは恨めしく思う。


 今日のパーティでフローラは主役となるはずだった。

 いや、そんなことは関係ない。

 敬愛する主人が汚されたことをエマは何よりも許せなかったのだ。


「今からでも新しいドレスに着替え、パーティに臨みましょう」

「パーティ用のドレスは他にはないですよね?」


 フローラがそう言うと、エマは俯き両手をぎゅっと握りしめた。

 侯爵令嬢とは思えないほど、フローラの保有するドレスは少ない。


 ――フローラ様は無駄なものにお金を使うよりも、スラム街に寄付するような清廉潔白な心の持ち主だけど。まさかこんなことになるなんて……。全ては私の準備不足だわ。どうお詫びしたら良いのか……。


 ご存知かと思うが、フローラは清廉潔白などではない。

 ただ単にドレスに興味がないだけである。

 そんなものに無駄遣いするくらいなら、寄付してやったほうがよっぽどマシだという考えだ。


 エマの葛藤とは裏腹に、フローラは能天気なものだった。


 ――これでパーティに出なくて良いんだよな? やったぜ! 誰がインクをぶっかけたかは知らんが、どうもありがとう。パーティを休める口実ができた!


 フローラは小躍りして喜びたい気持ちを必死に我慢する。


「残念ですが、パーティの参加は断念しましょう」


 とフローラは悲しそうに告げる。

 もちろん、彼女は一ミリも悲しがっていない。

 むしろその逆だ。


 ――よっしゃ。部屋に戻ってダラダラするぜ!


 まったく残念に思っていないフローラである。


 おバカな思考のフローラに対し、エマは悲壮感を顔に漂わせていた。

 フローラはエマの顔を見て慌て始める。

 まさかエマがそこまでパーティを楽しみにしているとは思わなかったのだ。


「大丈夫ですよ。パーティにはまた今度参加すれば良いですから」


 フローラは慰める。

 エマは顔を上げて、ハッと気づいたようにフローラを見た。


 ――きっとフローラ様が誰よりもパーティを楽しみにしておられた。


 エマはフローラがずっとお茶会やパーティに呼ばれてこなかったことを知っている。

 それは豚令嬢の悪評のせいだ。

 主人が一番今宵のダンスパーティを楽しみにしていた、とエマは考えたのだ。


 ――この日を最も楽しみにしておられたフローラ様が笑顔で耐えているのに。私がへこたれてどうするのよ。


「フローラ様……。お気遣いありがとうがとうございます。早速部屋に戻って着替えましょう。フローラ様にそのような格好をさせておくわけには参りません」

「謝るのがが先でないでしょうか?」

「謝るとは? 誰にでしょう? フローラ様が謝る必要はありません。むしろフローラ様にインクをかけたクソ野郎が、誠心誠意土下座をして惨めったらしく謝罪すべきです」


 エマの本心がぽろっと出た。

 スラム育ちのエマは時々口が悪くなるときがある。

 彼女はしまったという顔をする。

 そして謝罪をしようと口を開くが、それよりも先にフローラが言った。


「謝る相手はノーマン様です。私のミスでパーティに参加できないのです。まず謝罪するのが筋でしょう? それに私が行かなければノーマン様をずっと待たせることになります」


 相手に迷惑をかけたら謝る。

 それはフローラからしたら当たり前のことである。

 たとえ自分に大きな過ちがなくても、だ。


「私からあとで伝えておきます。事情を知ればノーマン様もきっと理解してくれるはずです」

「いいえ。私が直々に謝らなければなりません。それに謝罪というはすぐに行うべきです」


 フローラは基本的に怠け者である。

 前世では謝罪を面倒に思い放置していたせいで、痛い目をみたことがある。

 相手にこっぴどく怒られ、その経験から謝罪は早い方が良いと学んだのだ。


 そして今回の相手はノーマンである。

 フローラは第一王子とノーマンをねちっこい連中だと思っている。

 そんな相手に謝罪が遅れたらどうなるか?

 今後もずっとネチネチと言われ続けるだろう。

 面倒なことだからこそ、先に終わらせておくべきなのだ。


「さすがフローラ様です」


 エマはただただ感心していた。

 普通の令嬢なら、ドレスを汚された時点で発狂するだろう。

 その上で、従者に着替えを用意させるように怒鳴るはずだ。


 しかしフローラは一般的な令嬢とは全く異なる対応をしようと言うのだ。

 自身に否が全くないにも関わらず『まずは謝罪を』と口にしたフローラ。

 その敬愛たる主人の姿に、エマは感服した。


「それではノーマン様のもとへと参りましょう」


 と、フローラが言ったときだ。


「あれ? フローラ嬢。こんなところでどうしたの? もうすぐパーティが始まっちゃうよ」


 突如、男子生徒がフローラに声をかけてきた。

 その人物はマシュー。

 エマはさっとフローラの体を隠す。

 不格好な主人の姿を見られたくない、とエマを思ったのだ。

 しかし、エマの行動は無意味だった。

 マシューはフローラの汚れたドレスを視界に入れていた。

 そして彼は一瞬で状況を把握する。


「大変なことが起きたようだね。僕にできることはある?」

「お気持ちはありがたいのですが、私の方で解決します」


 フローラは丁寧に断る。


 ――もしドレスの用意でもされたら、パーティに出る羽目になる……。頼むから何もやらないでくれ!


 さすがは怠惰のフローラ!

 休むことに関しては抜かりないようだ。


 しかしフローラの思惑を破るようにマシューが告げた。


「あ、そうだ! 良かったら僕たちが作ったドレスを着てみない?」


 マシューは『これぞ名案』とばかりに提案してきたのだった。

 だが当のフローラからしてみれば、この上なく迷惑な提案であった。

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