第2話 閉じられていた離れ


 あれから数日しても名案の出ないまま、兼悟は屋敷の離れに掃除に来ていた。久しぶりに窓を開け放ち風を入れ埃を払うと、窓から藤の香が入り込んで来た。


「あぁ、よい香りだ。よい季節になったものだ。空も蒼く、この窓からの眺めも美しい。きちんと掃除すれば十分に使える場所なのに。このまま閉鎖しておくのは勿体ない。」


 屋敷の庭棲みにある離れは、大旦那様の奥様が生前愛用されていた場所。奥様亡き後、大旦那様は寂しさが募るからと見ることを避け、想い出を閉じ込めるように閉鎖してしまった。その為に誰も立ち入らず、すっかり荒れてしまった。その後、大旦那様も屋敷と実権を若様に譲り、今は山の別荘で暮らしている。


 大奥様は風流なものを好む方で、離れには小さな蓮池と黒塗りの太鼓橋、母屋からの渡り廊下に沿った藤棚、沈丁花、梔子、金木犀など、四季の花香が漂う場所に造られている。若様も幼い頃はよくこの離れに来て、母との時を楽しんでいた。

 大奥様は書もお好きで、山と積まれた書が離れの一部屋を埋め尽くす程に残っている。


「あぁ、見れば見るほど勿体ない。掃除して整えて日々管理すれば、ここほど素敵な場所はないのに・・・ 大奥様が去られてもう数年が経ち、そろそろ悲しみも懐かしさに変わった頃だというのに。」


兼悟はそう呟き、窓から入る藤香の風に心地好く目を閉じ息をした。


 その時、ある名案が浮かんだ。またとない閃きに慌てた兼悟は、大声で若様を呼びながら母屋へ戻って行く。



 母屋の書斎に着くと兼悟は、そこに居る若様に目を見開いて話し始めた。


「若様。よい考えが浮かびました。今、よい考えが。」

「どうした兼悟。そんなに慌てて。何があったというのだ?」

春鸞は、兼悟のあまりの慌てぶりに少し笑いながら聞いた。


兼悟は一つ息を飲み答える。


「若様。離れですよ。離れ。大奥様が使われていた離れです。今、掃除をしようと窓を開けて思い浮かんだんです。

 あの場所は、四季の花香も蓮池も書もあります。それらを掃除し整え管理する者がいれば、いつまでも美しく使えます。屋敷の中であの場所ほど風流な処はありません。あのまま荒れさせておくのは勿体な居場所です。」


「確かに。母上が生きておられた時には、とても大切にされていた場所。美しく皆の心安らぐ場所だったが、それが名案とはどういう事だ?」


春鸞は少し困惑して聞くと、


「だからですね、若様。あの風流な場所を管理する者が居れば、再び皆の心安らぐ場所になるという事ですよ。ですがそれには、機転が利き心優しく風情の分かる者を見つけなければなりません。皆の悲しみが癒えるまでの時間と適任者がいない事で、今までほったらかしだった訳です。

 いいですか? ここからが名案です。あの娘ですよ。薬舗で見かけた姉弟の姉を離れの管理者として屋敷に呼んで、書を整理させ掃除も手入れも頼むんですよ。」

兼悟は嬉しそうに一息に話した。


「おぉ、なるほど。確かに。あの姉なら打って付けだ。うんうん。確かに名案、兼悟にしては上出来だ。今朝、兼悟に離れの掃除を頼んでよかったな。でかしたぞ、兼悟。よし、今日の掃除はざっとでよい。後の細かい所や様々な整理は、あの娘が来てから任せるとしよう。

 それから、あの娘の世話役兼同居の管理者として適した者を一人見つけてくれ。まだ幼い娘だから母親のような少し歳の離れた者の方がよかろう。急いで一人見つけておいてくれ。」

春鸞も意気揚々と兼悟に命じた。


 それから内密に娘の為の衣服や身の回りの物を用意させ、離れに運んでおくことにした。



 

 その夜、春鸞は妻に離れに管理者を置くことを話したが、元々興味もなく立ち入りを禁じられていた離れの事なので、妻はそれほど気に留めていない様子だった。この屋敷に嫁いで九年。一度も入ったことがない離れの為に雇う者の事。しかも、まだ子供とその母親のような歳の者だと聞き、特に怪しんでいる様子もなかった。


 妻のその様子に春鸞は、ほっと胸をなで下ろした。決して妻を裏切る訳ではないし、二人の間に子がないからと養女にする為に呼ぶわけでもない。なんら後ろめたい事などないはずなのに、妙にほっとしている自分に驚いた。


 この九年。妻とは仲良くやって来た。屋敷の内情にも問題はない。だが、春鸞の心には言いようのない寂しさがあった。一向に消える事のない寂しさが。どうにも溶け合えない心を抱えている自分に気付いてしまったのだ。いや、本当はもう随分前から気づいていたのだろう。それなのに気付かぬふりをしてきたのだ。


 だがもう、はっきりと気付いてしまった。寂しく満たされぬ心を抱えている自分に。そして、あの娘が来て離れが再び開かれると思うと胸が躍っている。この胸に在る寂しさが薄れて行くかもしれない予感が満ちている。それをはっきりと感じた春鸞の心に、希望の光が灯った。



 

 翌日、春鸞は兼悟と共にあの娘の村へ向かった。村への道から見える山には、美しい紫色の山藤が所々に色を添えている。あの山の高台には、大旦那様が暮らす玄家の山荘がある。少しばかり父へ想いを馳せながら村への道を歩く。


「若様。何も若様自らが出向かずともよかったのでは? 内密にという事ですから馬車も使わずに歩いている訳ですし、私一人でも話は出来ますよ。」

兼悟は、主である春鸞を気遣って言った。


「まぁ、たまにはこうして歩くのもよいではないか。ほら、山藤があんなに美しく咲いているぞ。大事な話だからこそ、私も行くのだ。まだ幼い娘を預かるのだから、ご両親にも心配をさせないよう誠意を現さないとな。」


「はい。若様には、いつも頭が下がります。その若様のお心が伝わるといいですね。」

二人は村への道を急いだ。


 朝露が乾かぬ木々の香は、街には無い静けさを放っている。木々を抜ける風が、春鸞の躍る胸を清々しくなだめてゆく。




 村の入口に着くと、薬舗で見かけたあの弟が一人で遊んでいた。春鸞は近付いて声をかけた。


「やぁ、坊や。坊やにはお姉ちゃんがいるね。いつだったか街の薬舗の前で、お姉ちゃんと遊んでいたね。」

「お兄さんは誰? なんで僕を知っているの?」

幼い弟は後ずさりして言った。


「あぁ、ごめん。怖がらないで。私は街から来たんだ。坊やのお姉ちゃんとお父さん、お母さんに用があってね。私は、玄春鸞という。坊やの名は?」


春鸞が地面に膝を付きかがんで優しく話しかけると、

「僕は隆生ロンション。お兄さんは、僕の家に行きたいの?」


「あぁ、隆生。そうだよ。お父さんに薬を届けて、少しお話をしたいんだ。」

「お父さんの薬を持って来てくれたんだね。分かった。来て。」


隆生は少し微笑むと、村の奥へ入って行った。その後を春鸞と兼悟が付いて行くと、中程にある一軒の家の前で隆生は止まった。


「お母さん。街から春鸞さんが、お父さんの薬を持って来てくれたよ。」

隆生は、家の中に向かって大きな声で知らせた。すると中から、あの母親が顔を出した。春鸞と兼悟は軽く会釈をし、母親に近付いた。


「初めまして。突然に訪ねまして申し訳ございません。街の玄家から参りました。春鸞チュンランと侍従の兼悟ジェンウでございます。」

穏やかに挨拶したが、母親はとても驚いた様子で身動きせずにいる。


「はぁ・・・ 玄家の方がなぜ家に? これは一体どういうご用件でしょう?」

怪しんでいる母親は、隆生を奥へやった。


「先日、緑光薬舗で偶然にこちらの姉弟があなたを待つ様子を見かけまして、薬舗の番頭から少し話を聞いて参りました。」

春鸞は丁寧に事情を話した。


 気品と穏やかさが滲み出た話しぶりと手中の牌に、母親は都の名家、玄家の方だと信じた。それなのに馬車も使わずこんな村まで歩いて来た事に神妙な気配を感じ取った母親は、人目を避けるように二人を家の中に入れた。

 そして二人に、小さな土間の上りに腰かけるよう勧めると、娘の蓮香を呼び隆生としばらく外で遊ぶようにと言った。


 母親のいつもと違う様子を感じた蓮香は、心配そうな顔をしながら隆生を連れて出て行った。家の外に出た蓮香は、すぐに弟に聞いた。


「ねぇ、隆生。あの人たちは誰なの?」

すると幼い弟は、無邪気に答えた。

「あのお兄さん達は、街からお父さんの薬を持って来てくれたんだよ。」

「そう・・・ 父さんの薬を・・・」

蓮香は不安に思いながら、隆生と二人で外遊びをして時間をつぶした。




 土間の上りに腰かけた春鸞は、持って来た薬の包みを出して話始める。


「これは緑光薬舗で聞いて来たご主人の薬です。受け取ってください。今日は、楊さんにお願いがあって参りました。」

「いいえ、そんな。頂けません。何もなくお薬を頂くなんて出来ません。」

母親は包みを押し返した。


「どうか受け取ってください。突然押し掛けた若様からのお詫びの品です。」

兼悟は、薬の包みを春鸞から預かると母親の前に置いて頭を下げた。


「困ります。玄家の方がどうして家に? どんな御用でしょう?」

益々怪しみうろたえる母親の声を聞き、奥から父親が出て来た。

「どうしたのだ? 誰かお客様かい?」


「突然、お騒がせして申し訳ございません。街から参りました玄春鸞シュエンチュンランと申します。今日はお二人に、お願いがあって参りました。」


立ち上がって頭を下げながら春鸞が話すと

「玄家の方がなぜ家へ? 街へ出かけた際に何か至らぬ事がございましたでしょうか?」

父親も驚いて床に両手を付いた。


「いえいえ、違います。先日、緑光薬舗でこちらの姉弟を見かけまして、その事でお願いに参ったのです。」

春鸞は父親の手を取って言った。


 突然の玄家からの来訪に動揺している父親は、おろおろしながら問いかける。


「街で玄家と云えば一番の名家。京州の街の一切を取り仕切っておられる。そのような名家の若様が、私共にどのような御用向きでしょうか?」
















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