龍笛の風

七織 早久弥

出逢い

第1話 幼き姉弟


 都の賑やかな往来で、春鸞チュンランはふと足を止めた。その視線の先には、薬舗の石段に腰かけた幼き姉弟の姿があった。なんだか気になり少し近付いて見ていると、二人はあまり裕福ではない身なりで弟はお腹を空かせているようだった。


「もう、お腹が空いた。お母さんはまだ? お腹空いたー。」

幼き弟が、今にも泣き出しそうな顔で姉に甘えている。


「もう少し待ってて。母さんは今、薬草を届けているところよ。もうすぐ出て来るから。そしたら菓子を買ってもらえるわ。父さんへのお土産も買って帰ろうね。」

「もう待てないー。お腹空いたー。」

弟はべそをかき始めた。


 見たところまだ四、五歳の幼き弟を、こちらも十を過ぎた位かと見える歳の姉が懸命になだめている。


「そうだ。これを食べて。母さんの芋餅よ。これを食べてもう少し待って。」

姉が風呂敷から小さな包みを出して広げると、そこに薄緑色をした芋餅が一つあった。


「わぁ。まだあったの? うん、食べる。でも・・・ 姉ちゃんは?」


「私はいいの。今はお腹空いてないから母さんが戻って来るまで待てるわ。これは隆生ロンションが食べなさい。最後の一個だから大事にね。」

「でも・・・ でも・・・」


弟はなかなか手を伸ばさない。一つしかない芋餅と姉の顔を交互に見つめている。


「分かったわ。じゃぁ、こうしましょう。私は、この一口だけあれば十分。後は隆生が食べてね。」


姉はそう言って、芋餅を一口分ちぎって食べた。ほんの少しの芋餅を笑顔で。


それを見て安心したのか、笑顔を見せた弟は小さな両手で芋餅をしっかりと持ち頬張った。姉は空になった包みを丁寧に風呂敷に戻すと、弟が食べ終えるまで愛しそうに見つめていた。



 そして弟が食べ終わると、姉弟は手遊びを始めた。地面に狐や蝸牛など、様々な影が現れるのを二人は楽しんでいる。


 不意に石段の狐が消え驚いた姉が見上げると、薬舗から母親が出て来て二人の影狐を覗き込んでいた。待ちわびた母親の姿に喜んで立ち上がった姉弟を連れ、母子三人は街の通りへ歩いて行く。

 幼い弟は母に抱きつき、姉はそっと後ろから付いて行く。



三人が見えなくなると春鸞は、薬舗へ入って行った。


「あっ、これは若様。先日お見えになったばかりで、今日はどのような御用です?」

この薬舗の贔屓頭である玄家の若様を見た番頭が声をかけた。


「あぁ、どうも。実は別の用事で近くまで来ていたのだが、今ここの前で幼い姉弟を見かけてね。少し気になったものだから。今のご婦人は何処の?」

春鸞は少しきまり悪そうに聞いた。


「あぁ。今しがた出て行った村の者のことでしょうか?」

「うん。おそらく。あまり裕福ではなさそうな身なりの母親だ。」


「でしたら、街を抜けた山際にある村の楊さんですよ。いつも山から採った薬草を届けてくれるんです。

 ですがね、数カ月前にご主人が体調を崩されてからは、ああして奥さんが届けてくれるように・・・ 薬草はどれも上質の物を届けてくれるのでうちも随分と助かっているんですが、楊さんは家族四人食べていくのがやっとかと・・・ 他にも染物やらも売りに出しているようですが、それとて元手が掛かりますからね。」


番頭も少し心配そうに話してくれた。


「そうだったのか・・・ とても仲の良い姉弟、母子のように見えたが、そのように大変な暮らしぶりなのだな。」

「どうもそのようです。」


番頭は更に悲し気な顔になった。


「ありがとう。来たついでだ、いつもの薬と茶を追加でもらって行くよ。それと湯あみ用に薬草も頼みます。」

「かしこまりました。いつもご贔屓にありがとうございます。今すぐご用意します。少しお待ちを。」

番頭は奥にある椅子を春鸞に勧め、すぐに薬を量り始めた。


 春鸞は奥の椅子に腰かけて待つ間ずっと、さっきの幼き姉弟の事を考えていた。




 薬舗からの帰り道。

そろそろと歩きながら春鸞は、まだ幼き姉弟と親子の事を考えていた。薬舗からだいぶ離れた所まで来た頃、連れて来た侍従の兼悟ジェンウに思い切って聞いてみることにした。


「なぁ、兼悟。さっき薬舗の前で見かけた幼い姉弟をどう思う?」


先程から黙りこくって何を考えているのかと心配していた兼悟は、若様が話しかけてくれたことでほっとした。


「えっ? 先程の姉弟ですか? 若様、その事をずっとお考えになっていらしたんですか?」

「あぁ、そうだ。あの石段に腰かけていた幼い姉弟は、兼悟にはどう見えた?」

春鸞はいつになく深遠な面持ちで、一点を見つめている。


「どう見えたかと云われれば・・・ とても仲の良さそうな姉弟で・・・ そう、優しい姉と可愛らしい無邪気な弟だと思いました。ただ、生活は苦しそうでしたが。」


「うん。私もそう思った。薬舗の番頭の話でも暮らしぶりは苦しいようだった。あの姉は、とても賢く人の心の奥が分かる娘だ。そう思わなかったか?」

「・・・と云いますと? 何かそのような事がありましたっけ?」


兼悟は少し困った顔をして、頭をかきながら申し訳なさそうに春鸞の顔を見ている。


「はははっ。兼悟は感じなかったか。ほら、弟がお腹が空いたと泣きべそをかいた時、姉は芋餅を取り出して‘食べなさい’と言っただろう。だが、たった一つしかない最後の芋餅に弟も気が咎め手を伸ばせずにいた。」


「えぇ、そうでした。弟はためらっていました。とてもお腹が空いていたのに。」


「そうだ。だから姉は‘今はお腹が空いていない’と言った。そうして、弟が手を伸ばしやすいようにほんの少しの小さな一口分をちぎって、先に食べて見せたのだ。自分はもう食べたから、お互いに分け合ったのだと弟に思わせたのだよ。」


「あぁ、なるほど。確かに。それで弟は、気兼ねなく芋餅に手を伸ばした。」

「うん。だからあの姉は賢くて優しく、人の心の奥が分かると言ったのだ。まだ年端もゆかぬ子供なのに。」


「えぇ、確かに。若様の仰る通りです。私が姉なら、あのように出来たでしょうか? ただ食べろと勧めるばかりで、手を伸ばさぬ弟に終いには怒り出したかもしれません。」

「あぁ、私だってそうだ。きっと兼悟と同じ事をしたと思う。自分だってお腹が空いているのに、弟に譲るのだから。」


「えぇ、その通りかと。手を伸ばさぬ弟に、‘なぜ、この気持ちが分からぬのか’と腹を立ててしまうところでしょう。」

「うん。・・・なぁ、兼悟。あの姉を屋敷に引き取ろうかと思うのだが、どうであろう?」

「えぇー。若様。どういう事ですか?」


兼悟は目を見開いている。


春鸞はいたって冷静に、落ち着いて話を進める。


「いやね。暮らしぶりも大変なようだし、一人減れば幾らかは楽になる。それに、あのように賢く優しい娘を村の中だけで埋もれさせるよりは、書を与え知恵を付け生きる術を増やせばもっと如何様にも生きる道は開けると思うのだ。母や父と薬草を採っていたのなら、医術や薬師の道だってある。」


「えぇ、まぁ。確かに。若様のお話はご最もです。屋敷に一人増えたところで玄家の暮らしに心配はありません。ですがあの娘は、まだ幼いとはいえ可愛らしい娘です。奥様には何と申し開きをなさるおつもりですか?」


「そうなのだ。そこなのだよ。養女とするか、侍女とするか。」


「困りましたね。奥様はなかなかに勘の働く方。いろいろ気を揉まれるでしょう。まだお二人にお子様がいらっしゃらないのも苦にされているようですし・・・」

「うん。どうするのがよいだろうか・・・ 兼悟もしばらく考えておいてくれ。」

「はい、若様。考えてみます。」


名案のでないままぞろぞろと歩き、二人は屋敷に帰って来た。
















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