第26話  おつり

 後期高齢者になって2か月が過ぎた。大きな病気もせずに、よくもまあこんなに長く生きられたものだとしみじみ思いながら、神さまだの仏さまだのに感謝している。そればかりか、見えない何かや空やら風やらと、何もかもにありがとうと叫びたい気持ちでいっぱいでいる。


 私には27才の若さで亡くなった姉がいた。私が10歳の頃のことだった。42才になった時には次兄が54才で、そして44才の時に長兄が63才で亡くなった。3人とも現在の平均寿命からはとても考えられない早い死で、残念で残念でたまらない。だからだろうか、私はまだ40代の頃から自分は何才位まで、元気で生きていられるだろうかと考えるようになった。


 当たり前のように迎えて祝ってもらえる誕生日。その誕生日を私は家族のは祝ったりすることはあっても、自分のは70才まで無しと決めていた。若死にの兄弟を思ってなのか、70才まで生きられるだろうかと、ちょっと不安な気持ちがあったから、その日が無事に迎えられますようにとゲンを担ぐつもりだった。それが実際に70才を迎えられたら今度は72才に、そして75才と目標とする年齢が先送りされて、古希のお祝いも無しになった。何のつもりなんだろうかと我ながらバカげた拘りに、祝ったらゲン担ぎがダメになってしまうとでもいうのか、と自分に尋ねてみたりしている。



 さてそんな変な考えの私だが、偶然にも義父が同じように、自分の寿命を60才と決めて、「60まで生きられりゃ、後はみんなおつりだぁ」というのが口癖であった。10人兄弟の義父は、戦争で亡くなったり、病気で早くに亡くなったりした兄弟を思うと、きっと私と同じ気持ちであったのだろう。


 義父が60才を幾つか超えた頃、胃の大部分を取る手術をした。その前年と前々の年とで、義父は2人の弟を続けて病気で亡くした。威勢のいい義父だったが退院した時には、頬はげっそりこけてしまって、細身の体はより細くなっていた。義父の人生のおつりの勘定は、その頃から始まったのかも知れない。


 義父が胃の手術をした頃、私の次男が生まれた。退院直後の義父は家で体を休ませていたが、暫くすると次男の顔を見に通って来るようになった。日に日に大きくなってゆく姿を見るのは生きる力となるようで、通い続けることがリハビリの役目にもなれたようだった。


 そのお蔭か義父はすっかり体力も回復して、元の元気で生きのいい人に戻った。義父は病気を機に、会社も長男である夫に任せるようになり、横浜の家から東京の会社に来て掃除などの雑用を済ませると、必ず会社の近くの我家に寄ってから帰宅するというルーティンが出来上がった。


 そうやって何年か経つうちに、幼稚園に通う孫を我が家で迎えるというルーティンも加わるようになった。毎日のように義父とお茶を飲みながら、年金や軍隊の話や入れ歯などの数少ない話題を、毎日よく飽きもせず繰り返しながら、孫の帰りを待って、幼稚園での出来事などを嬉しそうに聞き、それを帰ってからの土産話として義母に聞かせるのが楽しみとなった。


 少しずつ増えたルーティンには、手を繋いで近所のお店に出かけることも加わった。次男はお店に入ると好きなお菓子を好きなだけ買ってもらい、毎日お菓子のいっぱい入った袋を持って機嫌よく帰って来る。義父の楽しみを奪えないから我慢したが、それは毎日のことだっただけに、山のような甘いお菓子は、私には苦くうらめしいものだった。


 しかし好き放題のおやつの買い物は、次男に特技を与えてくれる良いことにもなった。毎日レジで計算を見ているうちに、次男はいつの間にかお金の計算が出来るようになった。金額の合計から更に進んで、おつりの金額まで分かるようになって、レジより先に金額を言われて驚くおばさんが誉めてくれるのが嬉しくて、義父はいつも1000円札で支払うことにした。


 そんな楽しい孫との買い物のある日、帰り道でこんな会話があったそうだ。

「お爺ちゃん、お爺ちゃんって幾つなの」

「お爺ちゃんは70だよ」

「お爺ちゃんって可愛そうだね、もうすぐ死ぬんだね」

大まかに70と答えたら、死ぬという言葉が返って来たので、義父はドキッとしたそうだが、その後に続いたセリフにホッとさせられた。

「あと30年しか生きられないんだもんね、かわいそう」


 この余命30年は、友達から人間は100年しか生きられないと教えられたから、得意の計算で出した数字だった。義父はこんな小さな孫が、あと30年しか生きられない自分を、可愛そうと思ってくれた優しい気持ちに、心が何とも言えなく温かいもので満たされたという。



 それからずっと時が過ぎたある日。姉が毎朝聞いているラジオの「ちょっとした話」の募集に、応募してみたらどうかと勧められた。その放送を聞いたことがなかったから、どんな風に書けばよいのか分からなかったので断ると、朝のラジオから読まれるのを聞いたら、自分はどんなに嬉しいことかと熱心に言うので、それならばと軽い気持ちで投稿してみた。


 そんなことはすっかり忘れてしまっていた時、放送局から謝礼が届いた。何のことか直ぐには分からないほど、記憶から消えてしまっていた自分と、残念ながら聞きそびれてしまった姉。放送局に問い合わせてみると驚いたことに、放送は病気で亡くなった義父の葬儀の2日前のことだった。そもそも採用されるとは思わなかったし、取り込んでいたからそれどころではなかった。


 「ちょっとした話」は義父と孫の余命30年のあの話を書いた。朝の番組「大沢悠里のゆうゆうワイド」で大沢氏の穏やかな語り口、朗読で、私の拙い文章もきっとステキなものになれたに違いない。義父が聞いたらどんなにか喜んだことだろうと嬉しかった。そして更に驚いたことに、その採用された僅か原稿用紙2枚ほどに、これほど頂いていいのだろうかという大きな金額を頂いたのだ。私は放送局からお香典を頂いたような気がして、ありがたく何年も大切にして使えなかった。


 義父は80才を目前に亡くなったが、本当に沢山のおつりを貰ったものだと思う。もっと頑張れば数えきれないおつりに、ひ孫というおまけもついてくるだろうが、まあそんなに欲張ることもないだろう。時々そんなことを思い出しながら、叶うものなら義父にあやかりたいものだと、祈ってみたりしているローバなのであります。

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