誰も知らず消えた恋
秋色
〈前編〉出会い
まるで全てが夢の中の出来事のようだった。
その店の奥に私は座り、ヘッドフォンから流れる音楽を息をひそめて待っている。店の中は紅茶の薫りがたちこめている。
思い出す、色々な事。その写真の人との出逢い。
✥
それは突然の事だった。私がその人を知ったのは。夏の終わりに祖父母の貸していた田舎の一軒家に親と大掃除に行った。祖父母の頼みで、次の借り手が見つかるまで綺麗にしておくためだった。前の中年の住人は、急に親戚のいる故郷に戻る事になり、出ていったのだと言う。
「
そんなお父さんの勝手な思い込みで手伝わされる羽目になった。
「あ、前の住人が残していった物はもう要らないから、好きにしていいって伝言があったんだって。要らない物は処分するからまとめておけばいいさ」
車の中でお父さんは呑気にそう話していた。着いてみると、その家はとても綺麗に使われ、出ていく人はゴミを
物が残されていたのは一階の奥の部屋だけ。その奥の部屋を、前の住人は、趣味の収納場所として使っていたらしい。スチールの本棚にアウトドア関係の雑誌が何冊か、それに隅には、真四角の木目の入った箱が残されていた。箱の中を見ると、透明な袋に包まれた真四角の薄い冊子のような物がぎっしりと縦に並んでいる。
「これは、レコードと言うんだよ」
お父さんが教えてくれた。
「レコード?」
「ああ。今は音楽を買うってなると配信されたものを買うか、CDを買うかだろ。昔は配信ってなくって、CDの代わりになるのが主にレコードだったんだ。昔はこれが売れる数で人気が分かったんだよ。ここにあるのは全部ジャケットと呼ばれる厚紙に包まれてあるから、曲が何曲か入っているLP盤と呼ばれるものだ」
「じゃあここにあるの、全部音楽が聞けるのの?」
「うーん。それを聞くためには、レコードプレーヤーというのが要るんだ。この部屋にはないけど、前の住人は引っ越す時、持っていったのかな」
「なあんだ。じゃあこれだけあっても聞けないんだ。ここにあるのは当時、売れてた人気のレコードなのかな」
「どうだろう。こっちの何枚かはたぶん昔ヒットしたんじゃないかな」
「え、見分け方ってあるの?」
「ほら、ここにある縦の紙は『帯』と言うんだ。推しの言葉が書いてあってね。そこに『全米で大ヒット』、『伝説のアルバム』なんて書いてたら本当に人気あったんだよ」
「なんだ。意外とシンプルな見分け方だね」
「それにしてもここの住人は様々な分野に通じてたんだな。洋楽も邦楽も、メジャーなのもマイナーなのもある。あ、それとさっき売れる数で人気が分かるって言ったけど、それだけじゃないんだ」
「それだけじゃないって?」
「売れなくて、でもごく少数の熱心なファンが必死に探すというのもある」
「結局、数だけじゃないんだ」
「それはいつの時代も同じさ」
お父さんは、さっとLP盤を二つの束に分けた。
「こっちの右は中古ソフトを扱ってる業者に引き取ってもらえるかもしれない。左のはゴミに出そう」
私は、ゴミ出しに決まったLP盤の束を
――捨てるの、何か勿体ないな――
私はそのジャケットを一枚一枚見ていった。最後の方の数枚になった時、私の視線はある一枚の上で止まった。
それは他のLP盤のジャケットのような華やかさはなく、帯もない。でも青っぽい色合いで、心に自然に入り込んできた。日本のどこか、都会でも田舎でもない芝生の多い、がらんとしているのにカフェが後ろにあるという風景の中に、このレコードを出した歌手と思われる細身のシャツとベスト姿の青年が写っていた。正確には、少年っぽさの残る青年といった感じ。少し横向き加減で傘を閉じようとしていて、おそらく雨上がりに自然体で撮影した一枚のように思えた。その不思議な透明感に心を奪われた。レコードのタイトルは「いつかその街角で」で、歌手名は
「ねえ、お父さん、お母さん、笙野圭って知ってる? 昔の歌手」
「知らないな。何だ、まだLP見てるのか」とお父さん。
お母さんがやって来て、一緒にジャケットを見た。
「こんな歌手、知らないよねえ。1974年って、私が生まれた年に出てるレコードよ。この歌手、ニューミュージック系みたいね。少し先に学生街があって、昔は学生がデビューする事もあったみたいだからローカルな歌手かも」
ジャケットに書かれた曲目は「砂時計」、「練習曲」、「通り雨」、「
私は、その一枚をゴミ行きの束から救出し、自分のものにした。以来、私の心から笙野圭が消える事はなかった。
私の家にレコードプレーヤーはなかったので、笙野圭の歌を聞く事は出来なかった。調べてみると、今でもレコードに興味を持つ人は意外といて、レコードプレーヤーは売られているらしい。それで親に何とか買ってもらおうとねだったけど、すぐに却下されてしまった。
そうなるとタイトルから曲を想像するしかない。想像の中で音楽を奏でてみた。きっと歌い手にふさわしい柔らかく美しいメロディなんだろうな、と心の中のギターでイントロをつけてみたり。やっぱりピアノの弾き語りかもと雨音のようなピアノの音色を頭の中で思い描いてみたり。ネットで検索しても笙野圭については、何も出て来ない。
私は毎日、「いつかその街角で」のレコードを取り出し、写真の中の笙野圭の少し寂しげな雰囲気のある優しい面差しを飽きもせず、眺めていた。でもその笑顔を想像するのは難しかった。
新学期が始まり、休み時間に一人、窓の外を見ながら空想の中で色々な演奏を繰り広げていると、切ない気分になった。すごくその当時の笙野圭に会いたかった。でもそれは自分の生まれるはるか昔に青春時代を過ごした人で、あのジャケットに写された風景の全てが今はもう無いに違いない。
そんなある秋の夕方、バスに乗っていた私は、一瞬目を疑った。前方に立っている乗客の中に、笙野圭そっくりの横顔を見た気がしたから。でもそれは本当にほんの一瞬。見間違いに思えた。ただ萩丘三丁目というバス停付近だった事だけは心に刻んでいた。
それからニ週間も経たない土曜日の午後の事だった。その日、バスの一番後ろの席に座る私の心は弾んでいた。鞄の中には、例の笙野圭のLP盤が入っている。
先週私は自分のお小遣いで買えそうなレコードプレーヤーがないか、家電ショップをブラブラしていた。その時店員さんがお勧めの機器を紹介してくれ、「今、若い人の間でもレコードって流行ってるんですよ。もし、お嬢さんが聴きたいレコードを持っているんなら、一度持って来て、実際にここで聴き、音を確かめてみてはどうですか?」と言ってくれたのだ。
「え? 本当にいいんですか? でも……」
「あ、ヘッドフォンで聴けるので恥ずかしがらなくていいですよ。大体、レコードプレーヤーで聴く時には、私はヘッドフォンをお勧めしているんです。音が違いますから」
今日、ついにLP盤の歌が聴けると思うとうれしく、そわそわしていた。
その時、前方に立つ数人の乗客の中に再び彼を見つけたのだ。笙野圭そっくりの人。いや、そのものに見えた。写真の中と同じアイボリーのベストを着ているため、尚の事同一人物に見える。萩丘三丁目のバス停が近付いた時、その人が降りる素振りを見せた。私は、自分でも信じられない行動に出た。同じバス停で降りて、その後を追ったのだ。
商店街沿いの舗道を歩き、路地へそれ、右へ曲がると広く緩やかにカーブした坂道が山に沿い、続いていた。まるで大きなロータリーのようだ。静かな住宅の並ぶ坂道で、道の脇には
「何か用?」
真後ろに「笙野圭」の顔があった。
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