第26話『鏡』

「くそっ、やられた…」

ストレロクはよろめきながら呻いた。


「なんであいつら、今日に限ってこんな深いところまで…」

ついさっき…少なくとも体感時間では…の事を思い出す。

危険地帯の深部に向かっている探検家気取りの連中の依頼で、いつもよりも深いところまで進んだらこのザマだ。

正規軍の特殊部隊に出くわすとは思わなかった。

こっちが気づくよりも先に一斉射が飛んできた。

一発の弾は脇腹を貫通したらしい、銃弾の通り抜けた衝撃で身体が悲鳴を上げている。

軍の部隊は危険地帯で出くわした人間には問答無用で攻撃を行うが、わざわざ追いかけて殺しはしない。

それだけが救いだった。

ふらふらと歩き続け、どうにか貨物駅まで戻ってきた。

傷を止血具で塞ぎ、応急措置をする。


痛みと鎮痛剤のせいか、意識が混濁し始める。

風に揺れる木々の葉が不出来なコマ撮りのように見える。


…一軒の小さな家のイメージが浮かぶ。

夢の中で、それが自分の生まれた場所だと認識する。

知っているはずのことを知らない感覚、知らないはずのことを知っている感覚、地に足の付かない奇妙な不安感。

忘れてしまったのか、知りもしないのか、両親だと脳が認識する見たことのない男女のイメージ。

それまでの人生で一度も得たことのない、安らぎと幸福のイメージ。


激痛でストレロクは目を覚ました、おぼろげな夢の記憶はそれですっかり消し飛んでしまった。

鎮痛剤を追加してから、いつの間にか検問所が遠くに見えるところまで歩いてきたことを知った。


ロゴージン軍曹の担当している検問所の様子を双眼鏡で確認する。

思った通り、先程の遭遇戦で警報が出ているらしい、当分は検問所を通って帰るのは無理だろう。


警戒態勢が解除されるまでこの場所でじっとしているか、それとも別のルートで脱出するか、決めなくてはならない。

どちらにも危険がある、警戒が解除されるまで何日かかるのかわからない、昔検問封鎖を食らったときには6日も危険地帯の中で隠れていなければいけなかった。

そう考えると、物資の入ったバラックバッグを捨ててしまったのは間違いだったかもしれない。

ここに隠れて待つのは無理だ、なんとか脱出してPPたちを呼ぶしか無い。


仕事の前に手に入れた"最新"の地図を開いてルートを検討する。

この地図は不完全で、嘘まみれで、大抵は既に状況が変わってしまっているが、それでも無いよりはマシだった。

「危険、非推奨、アノマリー発生中…地雷原を歩くのと、アノマリーを避けて歩くのはどっちがマシだろうな」

古いトンネルの一つを使うことに決めて、ストレロクは呟いた。


そのトンネルの入り口には、おざなりに「危険」「立入禁止」の看板が置かれているだけだった。

それだけで哨戒中の兵士には意味がわかるし、ここは既に隔離された危険地帯なのだから、丁寧な封鎖は必要なかった。

このトンネルに検問所も地雷原も無いのは、それが必要ないほど十分に危険だと判断されたからだ。


ストレロクはトンネルに入った。発光性のアノマリーが周囲を照らしている。


明かりがあるのは良いが、こういうところに"歪み"や"蚊柱"があると命取りだ。

そもそもこの蛍光色の液体に触れたってひどいことになるのは目に見えている。


ストレロクはそっと小石を拾って、眼の前の空間に投げ込んだ。

小石が押しつぶされるように砕け散る。


"歪み"だ、これ一つだけなんて、都合のいいことはないだろう。

アノマリーの巣の中で、いかれたツイスターゲームをするしか無いようだ。


ストレロクは慎重にアノマリーの有無を確かめながら長いトンネルを進んだ。

出口付近に近づくと腐臭が鼻についた。

辺りに腐乱死体が散らばっている。


「馬鹿な素人が、邪魔ばかりしやがる」

いや、アノマリーの位置を教えてくれる役には立つか?

もっとも、今更の話だ、見極め方を知っているからここまで来れたのだ。


トンネルを抜けた。爽やかな風が頬を撫でる。

ここは、危険地帯の外だ。

極限状態で抑え込まれていた身体の痛みが目を覚ました。

なんとか無線機を取り出してPPを呼び出す。

「撃たれている、すぐに来てくれ」


──知らない女が自分の名前を呼んでいる。ストレロクではない、"本当の名前"を…

うまく聞き取れない、思い出せない、自分の名前。

「…お友だちができたのね。お母さん嬉しいわ」

「母さん?」


「お前でも、こういう時はそんなうわ言を言うんだな」

部長が言った。

「…」

「気を悪くしたなら謝るよ」

どうやって合流したかの記憶は曖昧だが、気づいたときにはBMPの兵員室に寝かされていた。

「変な夢を見たよ…」

起き上がろうとするのを部長に制止される。

「そのまま寝てろ、学校についたら保健室まで連れてってやるからよ」

「夢の続きでも見てなって」

メガネがタオルで、私の顔の汗を拭いながら言った。

夢…夢か…危険地帯から離れていくたびに、夢のイメージがおぼろげに霞んでいく。

私の知らない、私の過去。


また眠りに落ちた、今度はもう、夢は見なかった。

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