迫りくる歯

北見崇史

迫りくる歯

「祐樹、祐樹、開けて、ここを開けてっ」

 カップ麺を食べながら、西野祐樹がパソコン画面に夢中になっていると、アパートのドアを、彼の名を呼びながら誰かが激しく叩いていた。

「な、なんだ」

 聞き覚えのある声だった。祐樹はすぐに玄関へと行き、ドアを開けた。

「志乃」

 女が立っていた。目を血走らせ、眉間に太ミミズのような深いしわを寄せて、生臭くて湿った息を吐き出している。彼女の歪んだ表情が、現在の危機を訴えていた。

「どうしたんだ。痴漢にでも触られたのか」

 触れようとする彼の手を、その女の身体がすり抜けた。そして叩きつけるように閉じられたドアの残響が、隣の隣の部屋まで届いていた。

 さして広くないワンルームの最深部まで逃げ込んだ女は、隅に縮こまり、あきらかに怯えきった様子だった。

「ヤバいって。これ、絶対ヤバいやつだ」

「なにがだよ」

 女は祐樹と同じ大学の同学年であり、半年ほど前まで付き合っていた幸田志乃だ。

「つけられてるんだ。ヘンなのにつけられてるんだって」

「おいおい、俺と別れたからって、どんな男に手をつけたんだよ。ストーカーなんて連れてくるなよ」

 二人の付き合いは、そう長いものでも、たいして深くもなかった。別れ方もあっさりとしたもので、あと腐れがつゆほどもなかった。

 だから、恋愛関係のもつれにありがちなドロドロとした後遺症もほとんどもない。いまは、通常の友達関係へと落ち着いていた。

「違う違う、人じゃないんだって」

「だったら犬か猫なのか。どうせモテない男なんだろう」

 志乃は気さくな性格で、性根が暗めで孤立しがちな男子にも気軽に話しかけたりする。容姿は平均以上で、スタイルもいい。勘違いした男にでもストーキングされていると思っていた。

「そういうのじゃなくて、もっと、もの的な物よ」

「もの的な物って、意味わからんって」

「だから、なんていうか、とにかくヤバいの。ほんとだって」

 自分の言いたいことをうまく説明できなくて、もどかしそうだった。ごもごもと口を動かし、血の気の失せた表情が落ち着くことはない。彼女が訴えている恐怖が本物であり、それが継続中であることを、祐樹はなんとなく理解できた。

「訳わかんねえよ。、まあ、とりあえず、うわあ、な、なんだ」

 その時、玄関のドアが激しく打ち鳴らされた。何ものかが外側から叩いているようだ。

「きたっ、あいつがきたー」

 部屋の奥で志乃が叫んでいる。寄りかかっている壁が抜けるくらい強く背中を押しつけて、ドアの外にいるものから逃れようとしていた。

 祐樹は動けないでいた。ドアを叩く音が、明らかに尋常のリズムではないからだ。錯乱したような、それでいてひどく切迫しているような打撃音の連打だった。

「なんだよこれ。いい加減にしてくれよ」

 そう呟きながら、祐樹はドアノブに手をかけようとした。

「だめだっ、祐樹。やられるよ、絶対やられるわ」

 甲高い声で志乃が止めた。今まで見たことのないようなこわばった表情だ。祐樹の腹の底に冷たいものが落ちていた。

「開けないほうがいい」

 彼女に言われるまでもなく、祐樹にその気はなかった。得も言われぬ不安に襲われてしまい動けなかったのだ。

「きっと、誰かがものをぶつけてるんじゃねえか」

 子どもがイタズラをして、ゴミをぶつけているのかもしれないと祐樹は思った。不安よりも、確かめたいとの気持ちが強くなった。

「やっぱ俺、見てくるよ」

「だから、やめなって」

 気を取り直した祐樹は、志乃の言葉を無視することにした。全身に喝を入れて、なんとか動き出す。ドアの覗き窓から外を見るが、人影は見当たらないし、意味のありそうなものもなかった。なぜか、あの音も止んでいた。

「なにもいないようだけどな」独り言のように呟いた。

「ぜったい、いるから」

「ドアを開けて、確かめてみよう。きっと、イタズラだよ」

 ドアノブに祐樹の手がかかった。

「ばかっ、入ってくるって」

 叱咤の声が厳しく響いたが、祐樹はかまわずドアを開けた。恐る恐る顔を出してアパートの廊下を見るが、右にも左にも異常はなかった。人はおろか、猫もネズミもいない。ホッと息をついて閉めようとした瞬間だった。

「うわあ」

 そう叫んで後方にのけ反り、狭い玄関の土間に尻もちをついた。

「と、取っ手になんかついてる」

 震える声で祐樹が言った直後だった。外側のドアノブに付いていたそれが廊下に落ちてきた。

「早く閉めろ、バカっ」

 キーキーと、ヒステリックな声が部屋の奥から飛んできた。

「え、え」

 自分の陥っている状況が理解できず、祐樹はドアを閉めるという行為が頭の中になかった。

「な、な、歯?」

 歯に見えた。外の廊下の床に、人間のものと思しき歯が落ちているのだ。おじいちゃんの総入れ歯のように、すべての歯が上下で揃って、おまけに歯ぐきまでが備わっている歯だった。

 最初は驚いた祐樹だったが、よくよく見ればただの総入れ歯である。特段奇異なものでもない。たまたま落ちていた、あるいは何かの小道具的なそれを、誰かがふざけてドアノブにかけたのだろうと考えた。

「志乃、大丈夫だよ。やっぱ、誰かのイタズラだわ。健二かもしれない」

 健二とは、祐樹と志乃の共通の友人である。大学の同期生ですぐ近くに住んでいる。

「全然大丈夫じゃないって、バカなのっ。早く閉めろっ」

 なおも女は罵倒するように叫ぶ。祐樹が立ち上がって、ドアを閉めようとした。

 すると、「カチカチカチカチカチカチ」と、その歯が唐突に動き出した。

「うわあああ」

 祐樹は再び尻もちをついた。手と尻を駆使して慌てて後退する。カチカチカチカチと、上の歯と下の歯をしきりに嚙み合わせながら、その歯は追ってきた。

「そいつに噛みつかれたら、肉をえぐられるよ」

 そう言いながら志乃は部屋の窓を開けようとするが、たいがいに焦っているために手元が狂って、クレセント錠を回せないでいた。

「ちくしょうっ、なんなのよ、この窓は」

「来る、くるぞ」

 歯は、カチカチカチカチ鳴らしながら部屋の中へと入ってきた。

「このっ、あっち行け」

 目覚まし時計やマグカップなど、手近にあるものを投げつけるが歯には当たらない。相変わらず、カチカチカチカチさせながらゆっくりと、もったいぶったように接近してくる。

 投げつけるものを探していた祐樹の手が、ハムスターケージを掴んだ。もはや恐慌状態の彼は、後先も考えずにそれを投げつけてしまった。

 ケージが歯に衝突することはなかったが、床に当たった衝撃で壊れてしまい、中にいたキンクマハムスターが転がるように飛び出した。

「あっ」

 歯とハムスターが対峙した。その距離は十数センチしか離れていない。両者はお互いを見合ったまま、数秒間膠着状態になった。ハムスターは鼻をヘクヘクさせてそのニオイの中から、この得体のしれない物体の情報を探しあてようとしている。

 カチカチカチカチと鳴らす音が強烈になった。怯えたハムスターが逃げようとした時だった。

「食いついたっ」

 歯は、その小動物の尻の部分に噛みついた。げっ歯類特有の悲鳴が短く響いた。

「なんだよ、なんだよこれ。ハムハムが喰われてるじゃんか」

 ハムスターは尻から喰われていた。歯の力は存外に強力であり、第一撃の咀嚼で腹部の皮膚が千切れ、内臓が飛び出した。

 カチカチという音が、ぐちゃぐちゃとひどく醜い響きに変わった。ペットが残虐に殺され、さらにそうしているのが総入れ歯であるという事実に、祐樹は呆然となった。

「あの歯、食ってるよう。俺のハムスターを食ってるって。どんな味がするんだろうな」

「窓が開いた」

 ようやくベランダの窓が開いた。志乃はすでに片足を外に出している。

「祐樹、逃げるのよ、とにかく、それにかまうな」

 ハムスターは血まみれの挽肉になってしまった。毛皮と内臓類が混じり合って、歯の中で砕かれながら転がされている。腸が歯の間からだらりとたれていて、まるでミミズでも詰まっているかのようだった。

「バカッ、いつまで見てんだよ。ああなりたいのか」

 ハッとして、祐樹が志乃を見上げた。彼女はベランダに立って、来い来いと必死な形相で手招きしている。歯は、ハムスターを充分にかみ砕いた後、まるで歯の間に詰まった肉カスを取り除こうとするかのように、カチカチカチカチやっていた。

 祐樹はそれを刺激しないように立ち上がると、志乃のそばまで来た

「靴を持ってこなきゃ」

「そんなヒマない。戻ったらあいつに噛みつかれるって」

 二人は靴を履かないまま部屋を出た。そして、どこに行く当てもなく歩道を早歩きしている。

「ヤバい。財布もケイタイも持ってない。志乃、おまえのスマホを貸してくれないか」

「私も、なにも持たないで出てきた」

 彼女も慌てて逃げてきたようだ。着の身着のままで、なにも持っていない。

「どうするよ。警察に行くか」

「ムダよ」

「え、どうして」

「あれは見える人にしか、見えないんだもの」

「見える人って、どういうことだ」

 志乃は、あの歯についての説明を始めた。

「さっき、私のアパートに宅配の人が来たんだ。そんで玄関のドアを開けたら、あの歯がカチカチカチーって入ってきたんだよ。びっくりして悲鳴あげちゃって。それで歯は走り回っていたけど、宅配の人はキョトンとして無反応なの。ほら、そこにって指さしても、なにもいないって言うの」

「それでどうしたんだ」

「どうしたもこうしたも、そいつが部屋の中に入って滅茶苦茶に暴れて、壁もボッコボコになるし。そのうちむかってきたから、怖くなってとにかく逃げだしたよ」

 歯は、志乃の後を追ってきたようだ。走る彼女に付かず離れずの距離を保って、カチカチカチカチ鳴らしながらついてきた。

 志乃は道行く人に助けを求めた。だが誰も歯が見えないらしく、彼女の言っていることを信じてもらえなかった。

「中古車屋さんの近くに猫がいるのよ。オスの野良猫なんだけど、あいつには見えたらしくて、面白がってちょっかい出してた。そうしたら噛みつかれちゃって、顔がえぐれてひどいことになってた」

 しかも歯は容赦なく噛みつき続け、猫の頭部がなくなってしまったと、志乃はその時の光景を思い出して顔をしかめていた。

「どうして、俺達だけ見えるんだ。しかも、猫だってハムスターだって挽肉にされたじゃないか。しっかりと実在してるのに、なんでわからないんだ」

 祐樹は疑問をぶつけるが、志乃は答えられなかった。

 カチカチカチカチと不気味な音が鳴っている。陽はすでに落ちていて、周辺はすっかり暗くなっていた。

「きたー」

 歯がやってきた。暗がりの中を、歩くというより震えているように地面を叩いている。

 二人は走った。迫りくる歯から逃れるために、夜の住宅街をとにかく前進するしかなかった。

「祐樹、どこ行くの」

「健二の家に行く。ここからすぐ近くだ」

 友人である加藤健二は両親と一軒家に住んでいる。

「それでどうするの。彼に助けを求めたって、見えなきゃムダよ」

「犬だ」

「犬?」

「あいつの家で飼ってる秋田犬が、けっこう気が荒いんだ」

 彼自身も以前、危うく噛みつかれそうになったことがあった。

「あの歯、動物には見えるみたいだから、犬にやっつけてもらえばいい」

「犬がかわいそうよ」

 猫とハムスターが犠牲になっている。きっと犬も殺されるはずだと、志乃は確信していた。

「秋田犬だぞ。たかが歯に負けるわけないじゃんか」

 友人を巻き込むことに抵抗はあったが、見えなければ迷惑はかからないと考えていた。健二の犬は武器になる。とにかく、この異常な現象から一刻も早く解放されたかった。

「私、あの歯」

「なんだよ」

「いや、なんでもない」

 なにかを伝えようとした志乃だったが、言い淀んでしまった。

 カチカチカチカチと、後ろからあの縁起でもない音が聞こえていた。早歩き程度になっていた祐樹を志乃が急かす。

「早く走ってよ、あれが追いついてくるって」

「わかってるよ」

 二人は小走りになった。十分ほど走り、目的の住宅の前までやってきた。

「着いたぞ。あいつ、いればいいけど」

 二人はケイタイを持っていない。友人に会うには、直接自宅を訪問するしかない。

 ドアチャイムを鳴らすと、玄関の中から犬が吠え始めた。やや間をおいて人の気配がやってくる。

「なんだ、祐樹じゃないか。あれえ、志乃もいるのか。おまえら、元さやにおさまったのか」

 アイスを咥えながら、健二はのん気そうに出迎えた。後ろで大きな秋田犬が、ワンワンと吠えている。

「悪い、健二。ちょっとヤバいことになったんだ。とにかく中に入れてくれよ」

 健二が許可する暇を与えず、二人は玄関の中へと入った。志乃がしっかりとドアを閉めて、さらに鍵をかけた。

「なんだよ、急に」

 秋田犬は相変わらず吠えていた。ただし、家主がいるために飛びかかろうとはしない。

「それが」

 祐樹が事情を説明しようとした刹那、玄関のドアに何かが当たった。

「なんだよ、おい。外に誰かいるのか」

 秋田犬の吠え方が大仰になった。健二が首輪を掴んで𠮟りつけるが、怯まずに牙をむき出している。警戒を通りこして、攻撃の姿勢だ。

 買主は、リードを壁の手すりにきつく縛りつけた。それでも、秋田犬はそれを壊すばかりの勢いで引っぱっていた。

「おまえら、なにを連れてきたんだ」飼い犬の尋常ならざる様子に、ゆるかった健二の表情が固くなる。

 ドアを叩く音はますます強くなっていた。まるで、野球の投球マシンが連続して硬球をぶつけているようだ。

「歯だよ」と祐樹が言った。

「歯?」

「そうだ、なんだか知ららねえけど、歯が追いかけてくるんだ」

 真顔だった。隣にいる志乃もウンウンと、大真面目な顔で頷いている。健二は、この二人がなにかを企んでいるのではないかと訝しがった。

「歯って、おまえらアホか。意味わかんねえよ。なんだよ、歯って。俺にドッキリでも仕掛けてるのか」

「歯だから歯って言ってんでしょう。意味わかんないの、あんたの方よ」

 志乃は少しばかりキレていた。

「だから、歯なんだよ。歯が追いかけてくるんだ」

 祐樹がダメを押すが、もちろん友人が納得することはなかった。

 三人が話をしている間も、ドアの外からの打撃音は絶え間なく、執拗と思えるほどに打ち鳴らされていた。何が理由だろうと、このまま放置していればドアが壊れてしまうし、その硬質の音色から、すでに大きなキズか凹みはついているだろう予測できた。

「おまえら、ちょっとどけろ。外のバカをぶん殴ってくる」

 健二は空手の有段者だ。たいていのことでは怖気づいたりはしない。友達の誰かが悪ふざけをしているのだと思っていた。

 祐樹と志乃の間を割るようにして進んだ。秋田犬の鳴き声は、低くて重い唸りに変わっていた。

「おい、誰だ、ふざけてんのは。しょうもないことしてると、蹴り入れるぞ」

大型犬の呪わしいまでの唸りの中、健二は玄関の土間に足をつけてドアノブを握った。祐樹と志乃は、血相を変えてそこから離れた。

「あれ、誰もいないじゃんか」

 ドアを開けても人影は見当たらなかった。健二は玄関から半分ほど身体を出して、左右を確認するが、近くには誰もいない。

「なんだよ、ガキのいたずらか」

 秋田犬が再び激しく吠え始めた。健二が怒鳴ってやめさせようとした時だった。

「うわあ、な、なんだ」

 足元を、カチカチカチカチ鳴らしながら歯が通り抜けた。

 それが歯だと認識できたが、健二はとっさに離れた。人間相手ならば多少の荒事は躊躇しないが、よく知ってはいるが信じられないものが動き回っている。恐怖というよりも、気色が悪かったのだ。

 秋田犬は体勢を低くして、今にも飛び掛からんばかりの形相だった。だがリードが壁の手すりに固定されているために、歯には届かなかった。

 カチカチカチカチ鳴らしながら、その犬に歯が接近していた。飼い主は呆然と見ているだけだ。祐樹と志乃は二階への階段を数歩のぼっていた。上がりきらないのは、大型犬が歯をやっつけてくれると期待していたからだ。

 歯がジャンプした。熱せられたポップコーンみたいに、大きく爆ぜたといったほうがいい。ただしその勢いは弾丸のようであり、向かった先は吠え続けている秋田犬である。

 大型犬の鼻と口をガッチリと噛んだ。吠えることも息をすることもできなくなり、その犬は激しく首を振って振り放そうとした。

「ガチッ」っと生臭い音が鳴った。犬の甲高い悲鳴が響く。

 歯は、犬の突き出た鼻の部分を根元から、情け容赦なく噛み千切ったのだ。

 平面顔になった秋田犬は、廊下の床に血を撒き散らしながら悶絶していた。しかも、悲劇は間を置かずに続いた。

 歯は、平らになった犬の顔面に再度飛びかかった。バリバリと凄い音を響かせて骨が噛み砕かれた。秋田犬は昏倒する間もなく絶命し、歯は容赦なく咀嚼し続けた。

「あああー、てんめえ、このう」

 想像だにできない光景に凍りついていた健二だったが、愛犬の惨劇を見せられて怒りに火が点いた。玄関にあった祖父専用のパークゴルフクラブを握ると、それに向かって無茶苦茶に振り下ろした。

「うおおー、うおおー、死ね、死ね」

 犬を噛みちぎって血だらけの歯に向かって、彼はそれを何度も振り下ろすが、床のフローリングをへこますだけだった。

 歯は、カチカチカチカチ鳴らしながら絶妙のタイミングでかわし続ける。それが縦横無尽に動き回るので、床に血の幾何学模様が描かれていた。

「健二、逃げろ。下手すると、噛みつかれるぞ」

 階段の中ほどで、祐樹が怒鳴るように言った。だが、彼の友人は頭に血がのぼってしまい、その警告が耳に入らなかった。

「うぎゃっ」

 歯がジャンプして健二の左手の親指に噛みついた。その指は瞬時にもぎ取られてしまい、彼は棒で叩かれた犬のような悲鳴をあげた。ゴルフクラブは捨てるしかなかった。

 床に落ちた歯は、カチカチカチカチやっている。再び飛びかかる気配が漂っていた。

 祐樹が階段を駆け下りる。友人は血を流した左手を抑えて、あーあーと呻いていた。歯に足を噛まれないように飛び越えたが、それも合わせるようにジャンプした。危うく股の間を噛み切られるところだったが、寸前でかわした。健二を引っぱって、そのまま玄関を出ようとした。

「待って、おいていかないで」

 階段から志乃が叫んでいた。彼女は降りてこようとしたが、歯がカチカチ鳴らしているので怖気づいていた。オロオロと戸惑い、足が動こうとしなかった。

 歯がカチカチしながら階段の下までやってきた。しかし、段差につっかえてしまい登れない。一段目を乗り越えられなくてカチカチしていた歯が、焼き蛤が口を開けるように爆ぜた。すると、段差を越えることができた。そして、また爆ぜて一段一段と階段をのぼってゆく。あと一飛びで志乃に到達するところまでやってきた。

「志乃、手すりを乗り越えろ」

 志乃は五段目から手すりを越えて廊下に落ちた。祐樹が駆け寄ってきて、尻もちをついている彼女を強引に立たせた。

「早く」

 健二はすでに外に出ていた。左手から血を滴り落としながらも、二人のためにドアを開けていた。ひどく痛いのか、顔は歪み蒼白であった。

 三人は走った。

 どうしたらよいのかわからなかったが、とにかくあの歯から離れなければならない。あれは動物だけではなく、人間にも襲いかかるのだ。

 健二の治療が急がれる。この時間では外来診療は終わっているので救急病院に行くしかないが、走っても三十分はかかる距離だ。

「くっそ、いったい何なんだ、あれは」

「俺にもわからない。突然やってきたんだ」

 健二の問いに、祐樹は納得できる答えを持ち合わせていない。あの歯が部屋にやってきてからの経過と、見える者にしか見えないと説明するしかなかった。

 志乃は黙って走っている。三人は住宅地を抜けて河川敷まできていた。

「ちょっと待ってくれ」健二がそう言って止まった。

 噛み千切られた指の付け根が激しく痛むのだ。神経を固いハンマーで打ち砕いているかのような強烈な痛みで、地に足をつけるたびに激痛が襲う。

「ちくしょう、いってえな。あの歯、毒でもあるのか」

 健二はその場でうずくまった。うーうー呻きながら脂汗をかいている。

「救急車を呼んだ方がいいんじないの」

 だが、三人ともケイタイを持っていなかった。

「タクシーを拾ったほうがいいか。志乃、金もってるか」

 彼女は首を振る。

「俺もねえぞ、ちっくしょう。なんでこんなに痛いんだ。死んだ方がマシだ」

 健二は空手のけいこの最中に、骨を折るなどの怪我をしたことがある。痛みには耐性があると自認していたが、この苦痛には耐える自信がなかった。

「ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」

 唐突に、志乃が謝りだした。

「きっと私だ、あの歯は私を狙ってるんだ。二人を巻き込んじゃって、私、私」

 彼女はオロオロ声になって涙を流している。ごめんなさいごめんなさいと、謝罪の言葉を必死になって地面に叩きつけていた。

「おい、どういうことだよ」

「弟よ、あれは弟の歯だって」

「はあ?弟って、なんのことだ」祐樹が聞き返す。

 志乃の弟に関することを聞いたのは初めてだった。付き合っている時には、弟の話しなど微塵もなかった。彼女を一人娘だと思っていた。

「死んだの。悠斗は小学生の時に死んだ。溺れ死んだ。私と遊んでいて、川でおぼれて死んだのよ。私が死なせてしまった」

 その死が、自分に責任があるかのような言い方だった。

「悠斗を助けられなかった。姉ちゃん姉ちゃんって、必死に叫んでいたのに、私、川辺で見てるだけだった。だって、凄く深そうで、私は泳げないから怖くて怖くて」

「おい、志乃。おめえの話しは意味がわからんぜ。その弟ってのは死んでるんだろう。しかも、歯だけがやってくるって、なんだよ。っつう、痛えなあ、ちくしょう」

 激痛のために、健二は会話を中断しなければならない。

「悠斗は流されてしまって見つかってない。ずっと見つかってない。あの歯は悠斗の歯だ。間違いないよ。だって、悠斗のニオイがするもん。ごめんんさい、ほんとうにごめんなさい」

 弟のニオイとは具体的にどういうものであるか、彼女はそれ以上説明しない。ただ、真っ青な顔して、懺悔の言葉を押し出すのだ。

「死んだ弟がいま頃になって姉に復讐かよ。つか、そもそもおまえのせいでもないだろう」

「見捨てた。私は見捨てたから」

 救えなかった、いや、身を挺しても救わなかったことを強く悔やんでいる様子だった。

「とにかく救急車だ。ほかの人間にあの歯が見えなくても、健二の怪我は本物だからな。病院に行けば、何とかなるさ」

 夜の河川敷に人影はまばらだった。少し離れたところに散歩している人がいて、祐樹は、そこに向かって走っていった。救急車を呼んでもらうように頼むつもりである。

 しかし、すぐに全速力で戻ってきた。

「歯がきたっ」

 その言葉に、痛みで脂汗を流している健二と、泣き続けている志乃が即座に反応した。祐樹と同じく、もてる限りのすべての力で走りだした。

 歯の勢いが増していた。スピードも段違いに早くなり、三人の数メートル後方を遅れずについてくる。カチカチ音のリズムも早まっていた。

「志乃っ、あの歯は本当におまえの弟で間違いないのかよ」

「だから、間違いないって」

 健二が琴線に触れてくるので、志乃は多少キレ気味に答えた。

「だったら、おまえが面倒をみれや」

 志乃が転んでしまった。なんと、健二が彼女の足を蹴ったのだ。

「健二、なにするんだっ」

 志乃は呻きながらも、すぐに立とうとした。しかし足がもつれてまた転倒してしまった。健二は左手を気づかいながら、かまわず走り続ける。祐樹は立ち止まろうとしたが、あのカチカチ音が近づいてくるので、結局そのまま走り続けていた。

「志乃をおいていけないって」

「あいつの弟の歯なんだから、俺達には関係ねえ。あいつがなんとかすればいい。俺の知ったことか」

 左手の痛みにもがき続けている健二は、この事件の原因であると告白した者を憎んでいた。あの女が悪いと悪態をつきながら、走る速度をおとさない。助ける気持ちなど毛ほどもないのだ。

 祐樹はどうしたらよいのか迷っていた。友達を助けたいが、下手に近づくとあの歯に噛みつかれてしまう。健二の怪我は思いのほか深そうであり、しかもその苦悶の表情から、歯は激痛を誘発する猛毒を持っていると思われた。志乃とはすでに別れているし、女としての未練はなかった。結局、彼女を見捨てることにした。

 二人の男はそれから十分ぐらい走って、橋脚の陰で一息ついていた。近くに人がいなくて、救急車を呼ぶことができなかった。

「ぐわああああ」

 健二の左手から信じられない量の血が噴き出していた。地面の上を喚きながら転がり回っている。祐樹が介抱しようとするが、具体的に何をしてよいのかわからず、ただオロオロとするほかなかった。

 突然、人の気配がした。祐樹が振り返ると、そこには志乃が立っていた。暗くてはっきりとしないが、とくに怪我などないようだ。

「よかった、無事だったか」

 彼女を置き去りにしたことへの後ろめたさはあったが、それは後で謝罪しようと思っていた。どうせ付き合っている女ではないし疎遠になってもかまわないと、少しばかりの打算含みである。

 女は突っ立っているままだった。祐樹が近寄ると、一歩二歩と後方にさがった。ちょうど、橋の街灯が照らす範囲に入った。

「あう、う」と、彼女は言葉にならぬ声を発していた。

「弟のカタをつけてきたのか」

 投げつけるように健二が言うが、志乃が答えることはなかった。

「志乃、志乃、大丈夫なのか」

 彼女の様子をまじまじと見ていた祐樹は、その異様さに気づき始めた。

「これは」

「うう、うっ」

 志乃の身体がビクンビクンと爆ぜた。そして服が内側からボコボコともり上がり始めた。まるで身体の内部から拳を突き出しているかのようだ。

「ぶはっ」

 真っ黒い血を吐き出した。それらのほとんどが祐樹にぶっかけられた。

「うわあ」

 我が身に浴びた鮮血を手で拭って、祐樹は存分に驚愕するのだった。

「おいおいおいおい、なんだ」健二が叫ぶ。

 志乃の身体が破け始めた。胃のあたりが膨らんだと思うと、まるでチャックでも引き下ろすように腹の肉が縦に裂けた。腹圧で腸が押し出されているが、ぴったりとした服を着ていたので、それはとび出すことなく足元へとぶら下がっている。だらだらと血が滴り落ちていた。

 志乃の左鎖骨が急に盛り上がってきた。信じられないくらいの巨大な肉腫が育っていた。 

 パンと弾けて、その瘤から何かが飛び出してきた。それは数メートルをジャンプしてから 地面を転がるように着地した。そして、カチカチカチカチと音を立てていた。

 志乃がぶっ倒れた。背中の真ん中に大きな穴が開いて、その周囲が血で汚れていた。ささくれた骨が突き出し、挽肉のような肉片もこびりついていた。

「うわあ、なんだよこれは。志乃はどうなっちまったんだ」

 うつぶせに倒れた志乃の背中を触るか触らないかしていた祐樹は、自らの足元に接近しているモノに気づいていなかった。

「おい、おまえのそこに歯が来てるぞ」

 カチカチカチカチと、あの耳障りな音がすぐ傍にあった。そこに歯を視認するやいなや、一メートルは飛び跳ねた。手足を滅茶苦茶に振り回しながら、健二のもとへと戻ってきた。

「背中の肉を食い破って中に入っていったんだ」

 歯は、志乃の背後から飛びつき、彼女の背中を抉りながら不可侵な内部へと侵入し、内部を散々に噛みちぎりながら、終いには鎖骨付近から飛び出してのだ。

「死んだ。志乃が死んだ」

 祐樹の表情が崩壊していた。元恋人の悲惨な死、その彼女を見捨てて逃げた卑怯者の自分、あり得ない化け物の襲撃。いまの状況は彼が受け入れることのできる範疇を大きく超えていた。

「死んじまったもんはしかたねえぞ。それより、あれをどうにかしねえと、こっちもやられる。指を嚙み千切られたけど、信じられねえくらい痛え。くそー、くそー」

 健二は、橋脚のコンクリートに血だらけの左手をバシバシとぶつけていた。激痛を紛らわすために、さらなる痛みを呼び込もうとしている。

「あれには絶対触るなよ。猛毒だからな」

「志乃」

 痛みの権化のような毒を持つ歯で、身体を内部から蹂躙され続けた志乃は、いったいどれほどの苦痛を受けたのかと、男たちは戦慄していた。

「おいおい、くるぞ」

「うわあ」

 歯がカチカチカチカチと迫っていた。二人は慌てて走り始めた。

「あれは、きっと宮本だ」

 出血が止まらない左手をおさえ、ふらふらと酔っぱらいのように走り続けている健二が言った。

「宮本って、誰だ」

 唐突に人の名を言われて、祐樹は戸惑った。二人の共通の友人に、宮本という名はなかった。

「俺の中学んときのダチだ」

「そのダチが、なんだっていうんだ」

「ああー、痛ってえ。ちくしょう、このう」

 空手で鍛えた強靭な身体にでも、歯の毒によると思われる激痛は容赦なく突き刺さっていた。あまりの痛みに挫けそうになって歩調が遅くなるが、強気な性格がなんとか根性を奮いたたせていた。

「中学三年の時、クラスに宮本ってやつがいたんだ。無口で大人しくて、女みたいなやつだ」

 健二は、はあはあと苦しそうな息遣いだった。祐樹は彼がしゃべりやすいように歩調を弱めた。

「そいつがどうしたんだ」

「すげえ大雨が降ってた時に、そいつが川のそばにいたんだ。俺、おもしろがってそいつを蹴ったんだ。いつも、ふざけて蹴り入れてたからな。そうしたら、そいつが川に落ちて流されちまったんだ。流れが速くて、あっという間に見えなくなった。俺、怖くなって逃げたんだ。誰にも見られてなくて、俺がやったってバレることはなかったんだ」

 吐露するのが辛いのか、それとも左手の激痛が耐えがたいのか、とても苦しそうな表情で、一言一言を絞り出していた。

「それで、そいつはどうなったんだよ」

「知らねえよ。行方不明ってことになったけど、学校にもこなくなったし、たぶん死んだんだ」

「なんだよ、さっきの志乃の話しとダブってるぞ」

「あの歯は、絶対あいつのだ。俺の方が正しい」

 健二はその記憶を辿ることが辛いのか、それ以上は話さなかった。

 カチカチ音が、ガッチガッチ音になって接近していた。

「おい、健二、もっと早く走れ」

 歯が迫っているという恐怖で、祐樹はいてもたってもいられない。ノロノロと動く友人にいら立っていた。

「るっせーっ、これが限界だっつうの」

 祐樹の心の中で、カチンと音がした。もし健二のいうことが真であるならば、あの歯は志乃ではなく彼を狙っていることになる。健二さえ歯の犠牲になってくれえれば、自分は助かるのだ。

「ちょっと待て、これ以上走れないんだ。待ってくれよ」

 どんどん前へ進む祐樹に向かって、健二は懇願するように言った。体力的に限界がきたようだ。足がもつれていて、いつ転倒してもおかしくなかった。

 祐樹はいったん止まって、足元に落ちていた木片を拾った。そして、後ろに向かって力いっぱい投げつけた。

「ブン」と風切り音を響かせたその木片は、健二の足首に命中した。「うっ」と短く呻き、彼は転げるように倒れた。

「うわ、わああ、やめろ、やめてくれ。ギャアー、痛い、痛い」

 芝生で倒れている健二に、すぐさま歯が襲いかかった。野太い悲鳴が響いたが、ものの数秒で静かになった。歯が健二の喉に噛みつき、わしゃわしゃと咀嚼しながら内部へと入っていった。

 健二の身体の中で歯が暴れている。鍛え抜かれた筋肉質の身体が、内部から突き上げるように何度も盛り上がる。手足があらぬ方向にひん曲がったまま痙攣していた。どれほどの衝撃と苦痛を受けているのか、暗闇の中でも容易に想像できた。

 祐樹は走った。とにかく、その現場から逃げたいという気持ちしかなかった。



「陽菜、陽菜、開けてくれ。ここを開けてくれ」

 狭いワンルームアパートで、夕月陽菜が出来合いのお弁当で遅めの晩ご飯を食べていると、玄関のほうが突如としてうるさくなった。

「祐樹、祐樹なの」

 慌てて玄関へ行くと、すぐにドアを開けた。確認するまでもなく、その声から外にいるのが付き合っている男だとわかった。

「どうしたの」

 ドアを開けた途端、祐樹は飛び込むように入ってきた。カチカチカチカチと、不気味な音が鳴り響いていた。

「俺のせいだ」

「え、なに」

 陽菜はキョトンとしていた。

「俺が二人を見捨てたんだ。いや、わざとやった。だって、そうしないとアレにやられるから。すげえ痛いんだよ。あれはヤバい、ヤバいって」

 祐樹は血相を変えて話していた。しきりに後ろを気にしている。

「きたきた、きたあ」

 そう叫んで、叩きつけるようにドアを閉めようとしたが、なにかが引っかかっていた。

「入れ歯?」それを見下ろして陽菜が呟いた。

 次の瞬間、それが大きく爆ぜて祐樹の左頬に噛みついた。彼は床に転がり七転八倒しながら、その歯を引き剥がした。だが、頬の肉がたいがいに抉り取られて、奥歯が見えるほどの大穴が開いていた。血が噴き出し、信じられないほどの痛みが彼を襲っていた。

 陽菜は悲鳴をあげた。床に落ちた歯は、噛み千切った頬肉を味わうようにカチカチカチカチやっていた。

 悶絶している場合ではなかった。祐樹は恋人の手をつかんで、玄関から飛び出した。ケイタイも財布も靴もなく、ただ走り続けた。

「俺が志乃と健二を見捨てたからだ。くそう、痛い、痛い」

 逃げる二人の後を、歯がカチカチカチカチ鳴らしながら迫っていた。なんだか知らないが、あの歯が物凄く危険なものであることを陽菜は理解していた。自責の念にかられて言い訳ばかり言っている祐樹をみて、この男が責任を負うべきだと考えた。そして、恋人の足首を蹴った。

「あっ」といって祐樹は転んだ。そこに歯がやってきて、彼の全身を噛み千切り始めた。顔と手と足の三か所を同時に噛まれ続けて、祐樹は激痛の中で絶命した。



「どうして追ってくるのよ。私が祐樹を見捨てたからなの。彼を犠牲にしたからなの」

 陽菜は走り続けていた。カチカチカチカチと、あの不吉な音は止まらなかった。 

 歯は四つになっていた。


                                 おわり

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迫りくる歯 北見崇史 @dvdloto

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