遠くからでも呼ばわりたい

悪夢というのは、実際にあった嫌なことを混ぜて煮詰めてエッセンスを抽出したようなものだ。

今回も、辛かったことばかりを直近からたどっていく。


最後に休んだ日がいつなのかわからなくなるくらい連勤を続けて、ふと立ちくらみがしてしゃがんだらそのまま立てなくなった時のこと。

何をしても上司から死ぬほど詰問されるのに、実のあるアドバイスも実際に手を貸してくれることも人手の補充も何もなかったこと。

わからないことだらけで手も回らない量の仕事だから常に何かしらミスをして、その度に上司から死ぬほど詰問されたこと。

研修もろくになく入社半年で管理職がやるような仕事を積み上げられて、けれど自分に転職なんてできないと思っていたから、慣れないこともわからないこともがむしゃらにやるしかなかった時のこと。

就活に失敗し続けてやっとひとつだけ取れた内定で、もう他に選択肢がなかった時のこと。

奨学金を取れるだけ取って単位を落とさないギリギリまでバイトを入れてもカツカツだった時のこと。

地元の大学に合格したけど親が望んだ進路ではなかったしもう親と一緒に生活したくなかったので家を出て一人暮らしを始めた時のこと。

自分にあとを継がせたい親とあとを継ぎたくない自分とで大喧嘩をしたこと。

自分は親が人を騙して稼いだ金で大きくなっていると気づいた時のこと。

親の言うことでたくさんの人が苦しんで不幸になっていると気づいた時のこと。

親の言うことでたくさんの人が騙されていると気づいた時のこと。

親に言われるがままにたくさんの人の前で親の望む通りのことを話した時のこと。

親が望むままの知識を吸収しそればかりほめられていた時のこと。


自分はまともに働けない人間だと思う。

自分の体はたくさんの人の不幸でできていると思う。

自分の親は子供を作るべき人間ではなかったと思う。


こんな自分が誰かと親しく交わって楽しさを感じていいのかという気がする。

もともと広く交友する子供ではなかったけれど自分の罪を自覚した頃から進んで人と関わるのをやめてしまった気がする。

まともに働けないし大切な人がいる訳でもないし体はあちこち辛いし、自分は明日いなくなってしまってもいい気がする。


気がついたら、今住んでいる部屋にいて、でもやたら静かな気がした。あちこち見回して、いるべき存在がいないことに気づいた。

買い物にでも行ったかなと思ったけれど、まだ暗いし、そんな時間ではないような気がした。でも台所にいない。ベランダにもいない。洗面所にもいない。風呂場にもいない。トイレものぞいて見たけどいない。

「……どこ行った?」

探そうとして、呼ぼうとした。でも出来なかった。どう呼べばいいかわからなかった。それでもあちこち探した。必死で探した。どこを歩いているかわからなくなっても探した。なんて呼べばいいのかわからないから、どこに行ったと声を出しながら足で探すしかなかった。

「どこ行った……」

どこかに行ってしまったのか。聖水だの塩だのかけられても平気だったのに、どこかで強い拝み屋にでも会って祓われてしまったんだろうか。怨霊は祓われたらどこに行ってしまうのか。もしかして消えてしまうのか。

「どこ行ったんだよ、俺のことずっと祟るんじゃなかったのかよ、なあどこ行ったんだよ!!」


『……おい、起きろ、起きろ、どうしたんだ』

はっと目を覚ましたら布団の中だった。怨霊(黒い一反木綿のすがた)が俺のことを揺り起こしていた。

『ものすごくうなされてたから起こしたぞ。大丈夫か?』

「…………」

体を起こした。暗かった。まだ夜明け前らしかった。

「……俺、そんなうなされてた? 何か変なこと言ってた?」

『大体いつもむにゃむにゃ変なこと言ってるけど、今日はすごかったぞ。ずっと、どこだーとかどこ行ったーとか言ってた』

大体全部、実際に声に出ていたらしかった。

『何か探す夢でも見てたのか?』

「うん……あのさ」

『なんだ? また水持ってくるか?』

俺は怨霊の手をつかんだ。

「あんたのこと、なんて呼べばいい?」

『は?』

怨霊は目を丸くした。

「名前あるの? なんて言うの?」

『え? 何だいきなり』

「なんでもいいから、教えてくれ」

俺は怨霊の手を強くつかんだ。

『いや、名前は、あるようなないような』

「なんて呼べばいい? なんて名前?」

怨霊は、あからさまにオロオロしだした。

『ええと、ワシは……いろんなのがたくさん混ざってるから、元々はいろいろ名前があるんだろうが、混ざりすぎてて、どの名前がワシの名前になるのかわからん』

たくさんの霊の集合体ということだろうか? そういうことがあるのかよくわからないが、この怨霊は男にも女にも老いにも若きにもなれるようだし、古い感覚とはいえ、ある程度の知識や技術は備えているし、いろいろなバックボーンを持つ複数人からなると言われても、わりと納得できる気がする。

『名前……ワシの名前なあ。いや、わからん』

怨霊は嘆息した。

「なんて呼べばいいのか知りたいんだよ」

『適当に呼べ、適当につけろ』

「今、名前つけたら、呼んだら返事する?」

『今!?』

「ちょっと待って、調べる……なんかいい名前ないかな、男でも女でもいけて、若くても年寄りでもしっくり来る名前」

枕元の充電器にセットしていたスマホを取って、あれこれ検索してみる。

『お前、熱はいいのか?』

「あると思うけど、どうでもいい」

『いや、よくはないだろ……絶対熱高いぞ、さっきからおかしいぞお前』

〈名前 男女兼用〉で検索して、出てきたサイトでめぼしいものをいくつか開き、ざっと流し見る。年寄りでも子供でもいける名前を探そうと思ったが、当てはまる候補が多すぎる。絞り込むために、何か適当な単語を追加してもう一度検索しようかと思った時、その名前が目についた。

「……なあ、七代祟るって、何年くらい祟るの?」

『少なくとも七代は、だ。もっと祟ろうと思えばいくらでも祟れる』

「千年くらい行ける?」

『楽勝だな』

「じゃあ、決まりだ」

男でも女でもいけるし、年寄りでも子供でもいける名前だと思う。飴みたいな名前と言われたら否定できないけれども。

「千歳。ちとせがいい」

『千歳?』

怨霊は首を傾げた。

「あんたを呼ばなきゃいけない時は、千歳って呼ぶ。今日からあんたの名前は千歳」

『えらく縁起のいい名前だな』

「いい名前だろ?」

『うん、まあ、悪くないが、お前熱あるなら寝ろ』

「うん、もう寝る」

『朝飯はいつも通り作っとくから食えたら食えよ』

「うん、またうなされてたら起こしてくれると助かる」

『わかった』

「さっきもすごく助かった」

『そうだったのか?』

俺は布団に潜り込みなおした。三回目接種からやっぱり三日寝込んで、何度もぐるぐるする悪夢を見たが、千歳は起こしてくれた。

『なんでうなされてる時、ワシの名前呼ぶんだ?』

と不思議そうに聞かれたが、うまく答えられなかったので、適当にごまかしておいた。

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