nothing's gonna change

 ニューラグーン大学は幼稚園から大学までエスカレーター式の市内最大の教育機関である。

 エラスムス氏はそこで語学・文学・哲学を教える講師であった。その講義は、まず最初に教科書を音読する。そしてその後に簡単な質問をするという形式を取っていた。

「さて今日は『我思う故に我あり』というある哲学者の言葉についてです」

 彼は黒板にこう書いた。

 Idēllus cum spirituset ipsum.

「これは皆さんもご存じでしょう。私は考える、だから私がある。つまりこれが彼の言葉だと言われていますね。

 しかし皆さんには是非聞いてもらいたい事があります。彼が何故この言葉を考えたのかと言う事です。実は彼も若い頃は哲学者ではなく神学者でした。その頃彼は自分の考えた事を神様が認めてくれるか不安だったのです。そんな時ふとある本を読んだら、自分が考えた事が書いてあったのです。そこで彼は安心して自分の考えを口に出すようになりました。それがこの言葉になったのです。

 つまり、もし私が自分の存在を疑っていたなら、私の思いは神に届くことはないでしょう。でも私は信じます。だって、こうしてあなたと話をしているんだもの。私は幸せ者ですね」

 エラスムス氏の授業は、いつもこのような感じで始まる。

 彼の話はとても分かりやすく、面白いものであった。

 そんなエラスムス氏の講義を楽しみにしている生徒も多かった。

 しかしそれはある時を境に一変する。

 ある日の事、講義の途中で彼はこんな事を言い出したのだ。

「皆さんは夢を見ますか?」

 その問いに生徒達は一様に首を傾げた。

 そんな彼等を見て、エラスムス氏は微笑みながらこう言った。

「実は私は最近、よく見るんです。それも毎日のように。しかもその内容はいつも同じなんですよ。夢の中に出てくる人達の顔が日に日に見えるようになってきて……まるで実際に会っているみたいでしたよ」

 それからエラスムス氏は自分の見た夢の内容を話しはじめた。

 その夢の中では、自分は人ではない姿をしていたらしい。巨大な身体を持ち、鋭い牙や爪を持った恐ろしい怪物の姿だったという。

 そんな自分を人々が恐れている事に気付くと、彼は悲しくなったそうだ。

 そんなある日、彼は一人の少女に出会った。

 彼女はとても美しく可憐だったが、不思議な雰囲気を持っていた。彼女が歩く度に長い髪は銀色に輝き、白いワンピースからは細い手足が伸びていた。その姿を見た瞬間、エラスムス氏の胸は大きく高鳴ったという。

「あの時の彼女の姿を思い出すだけで心が熱くなります」

 エラスムス氏はそう言ってため息をついた。

 それを聞いた学生たちは

「どんな夢なんだろう?きっと素敵な恋物語に違いないわ!」

 と羨ましそうな声を上げた。

 しかしその時、教室の後ろに座っていた生徒が一人立ち上がってこう叫んだ。

「先生!それはただの夢ですよ!」

 それを聞いてエラスムス氏はムッとした表情を浮かべた。

「そんな事はありません。確かに私は彼女と会いました」

 しかし、相手はそれを否定するように首を横に振った。

「いいえ、絶対に違います。そんなものは幻覚です。先生はその娘に会ったのではなく、その娘の幻を見ていただけなのです。だって先生はずっと独身じゃないですか」

 そう言われてエラスムス氏はハッとなった。

「にゃ、しかし……」

 彼は戸惑いながらも何か反論しようとしたが、すぐに黙り込んでしまった。

 どうすれば良いのか分からなくなってしまったのだろう。

 彼はしばらく俯いたまま動かなかった。やがて、少し顔を上げると小さく呟くような声でこう言った。

「…………そうだね。きっとそうだ」

 そして彼はゆっくりとした足取りで歩き始めた。

 講義室から出て行く直前、彼は振り返って生徒達に向かってこう言った。

「皆さん。さっきの話は全て忘れてください。私にはもう夢を見る資格なんて無いのですから……」

 エラスムス氏が去ってから、授業が終わった後も学生達は彼について語り合っていた。

「やっぱりあれは本当だったんだよ。だってあの時先生の目には涙が浮かんでいたもの。それに今まで聞いた事もないほど弱々しい声だったし……」

「でもおかしくない?どうして彼はあんなに慌てて出て行ったのかしら?」

「そりゃあ決まってるよ。自分の秘密がバレてしまったと思ったからだよ。あの夢は、彼の頭が生み出した妄想だったんだ」

 彼等は皆口々に勝手な事を言い合った。


 だが、そんな彼等の中でただ一人、ある事を考えている人物がいた。

 それはエラスムス氏本人であった。

「私は一体何を怖れていたのだろうか?」

 彼は自分の研究室に戻ると、椅子に座って天井を見上げた。

「私は夢に出てきたあの子にもう一度会う為に頑張ってきたというのに……」

 エラスムス氏は小さな声で独り言を言うと、大きな溜息をついた。それから机の上に置いてあったコーヒーカップを手に取ると、中身を全て飲み干した。

 すると突然激しい眠気が襲ってきたらしく、彼はフラリとよろけた。

 そのまま倒れそうになったものの、彼はなんとか踏ん張ると自分の身体を抱き締めるようにして震えはじめた。

「怖い、恐ろしい……。自分が自分で無くなっていくようだ」

 エラスムス氏は怯えるような目つきで部屋の中をグルグルと回り続けた。

 その様子はとても正気とは思えなかった。まるでマタタビでもキメているようだった。

 しばらくして、ようやく落ち着いたのか、エラスムス氏はふらつく足取りでベッドまで歩いていくと、その上にドサリと横になった。


 彼の頭の中には先程見た夢の光景が蘇っていた。

「やはりあれは幻覚なんかじゃなかったんだ。私は彼女に会ったんだ。間違いない、彼女はこの世界のどこかにいるんだ」

 エラスムス氏はそう言うと目を閉じた。

「そうだ、私が探せばいいんだ。彼女に会う事さえできれば、きっと何もかも上手くいくはずだ」

 そう呟いて、エラスムス氏は眠りについた。

 その日からというもの、エラスムス氏は夢の中に出てくる少女を探し求めた。そして彼女の姿を一目見ようと、あらゆる場所へ出掛けていった。時には夜通し街を彷徨う事もあった。

 しかし結局、夢に出てくる女性を見つける事はできなかった。


 それから数日が経ったある日の事、エラスムス氏は大学に行く途中、駅のホームで一人の少女と出会った。

「あっ、あなたは!?」

 その姿を見た瞬間、彼は驚きの声を上げた。

 何故ならそこに立っていたのは、以前見た夢に登場した少女にそっくりの少女だったからだ。

 その少女は黒いワンピースを着ており、長い髪をポニーテールのように後ろで束ねていた。

「……あの、どうかしましたか?」

 少女が不思議そうな顔で尋ねると、エラスムス氏は慌ててこう答えた。

「いや、なんでもありませんよ」

「そうですか」

 そう言って彼女は微笑むと、エラスムス氏の隣に立った。

 それを見てエラスムス氏は胸が高鳴った。

(間違いない、彼女が夢に出て来た娘だ)

 エラスムス氏は緊張しながらチラリと彼女の方を見た。その時、彼は彼女の手に何か持っている事に気が付いた。それは古びた手帳のような物だった。

 エラスムス氏がそれに視線を向けると、少女はそれに気付いたようで慌てて手を後ろに隠した。

「ごめんなさい。ちょっと落としちゃったみたいです」

 少女は恥ずかしそうに言った。

「いえ、気にしないでください」

 エラスムス氏はそう言いながら、自分の胸に手を当てて大きく深呼吸をした。

 そして意を決すると、勇気を出してこう言った。

「あの……、お名前は何とおっしゃるのですか?」

「私ですか?私は……です」

「えっ?」

 エラスムス氏は耳を疑った。何故か名前が聞き取れなかったのだ。

「すみません、もう一度お願いします」

 彼が申し訳なさそうに言うと、少女は再び名前を言った。だが、今度はさっきよりも小さい声で、ほとんど聞こえないほどだった。

「……」

 それでも、彼は必死になってその名前を聞き取ろうとした。

 だが、どうしても理解する事ができない。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

 その様子を見て、少女は心配そうな表情を浮かべると、彼の顔を覗き込んだ。

「はい、大丈夫ですよ。少し考え事をしていただけですから……」

 エラスムス氏は笑って誤魔化した。

 それから彼は心の中で呟いた。

(一体どういう事なんだ?どうして名前だけが思い出せないんだ?)

 彼は焦りを感じていた。だが、それを表に出さないように笑顔を保ったままでいた。

 やがて電車がやって来た。二人は一緒に乗り込むと、扉の近くに並んで立った。

 やがて動き出した電車の中で、二人は他愛のない会話を始めた。それはとても楽しい時間であった。それは今まで生きてきた中で、最も幸せなひと時であったと言っても過言ではないかもしれない。

 しかし、エラスムス氏の心の中はまだ混乱し続けていた。

 何故なら、彼は未だに少女の名前を思い出す事ができないままだったからだ。


 それから数日後、エラスムス氏はいつも通り少女の姿を夢の中で見た。

 彼は喜びに震えていた。

 ところが、夢の中の彼女は以前見た時と違って悲しげな表情をしていた。

 彼女は泣いているようだった。

 彼は少女に声をかけようとしたが、なぜか声が出なかった。

 すると突然、彼女の姿に変化が現れた。

 全身が薄く透けていき、その向こう側にある景色が見えるようになった。

 さらに髪の色までも変わっていき、最後には消えてしまった。

 そこで目が覚めた。

 エラスムス氏はしばらくの間、呆然と天井を見つめていた。

 しばらくして、ようやく我に帰ると、彼は深い溜息をついた。

「……一体どうしたというんだろう?」

 エラスムス氏はベッドの上で呟くと、ゆっくりと上半身を起こした。

「今日は大学の講義がある日じゃないか」

 彼はそう言うとベッドから出て着替え始めた。

「早く支度をしなくては遅刻してしまう」

 こうして、その日の授業を終えたエラスムス氏は急いで家に帰ろうとしたのだが、駅へ向かう途中で不思議な物を見つけた。

 それは古い手帳のようなものだったが、表紙がボロボロになっていて中身を確認する事はできなかった。

 エラスムス氏は不思議に思いながらも手帳を手に取った。

 そして次の瞬間、信じられないような出来事が起こった。

 なんと、その手帳が自分の身体の中に吸い込まれるようにして消えたのだ。

 それと同時に、エラスムス氏は激しい頭痛に襲われた。

「ううっ……!」

 あまりの痛みに耐えきれず膝をつくと、そのまま地面に倒れ込んでしまった。

 薄れゆく意識の中、彼は自分が見ている光景の意味を理解する事はできなかったが、直感的にこう思ったのだった。

(ああ、やっと彼女に会える)


 それから数時間後、病院の一室で目を覚ましたエラスムス氏は、自分の身に何が起きたのかを知る事になった。

 医者の話によると、エラスムス氏は頭に強い衝撃を受けた事で、それまでに体験してきた事を全て忘れてしまったのだという。

 それを聞いたエラスムス氏は、すぐに夢で見た少女の事を思い出した。

「あの……、彼女はどこに行ったんですか?」

 エラスムス氏が恐る恐る尋ねると、医者はこう答えた。

「彼女というのは、どなたのことですか?」

「夢に出てくる女性です」

 エラスムス氏が答えると、医者は首を傾げた。

「そんな女性は知らないが、君が夢で見る女性の名前はわかるかい?」

「名前はわからないのですが、女の子だという事だけは覚えています」

 エラスムス氏がそう答えると、医者はしばらく考え込んだ後に口を開いた。

「おそらく君の勘違いだろう。夢に出てきた女性が現実に存在するはずがないからね」

「いえ、確かにこの目で見ました」

 エラスムス氏は食い下がった。

「なら聞くけど、その娘はどんな姿をしていたんだい?」

「それは……」

 エラスムス氏は考えた。

「すみません、やっぱり違います。僕の勘違いだったみたいです」

 エラスムス氏は何も言わずに立ち上がると、診察室を出て行った。


(きっとそうだ。彼女があんな所に居るわけがない)

 そう自分に言い聞かせながら、エラスムス氏は駅へと向かった。

 電車に乗っている間、彼はずっと夢の中で出会った少女の事を考えていた。

 そして気が付いた時には、いつの間にかあの古びた手帳についていたペンダントを持っていた。そのペンダントはどこかで見た事がある気がしたが、どうしても思い出す事ができなかった。

 やがて、彼は少女と出会った場所へたどり着いた。

 そこは小さな公園のような場所で、中央に噴水があった。

 エラスムス氏は辺りを見回した。

 しかし、そこに人の姿はなかった。

 彼は噴水の近くまで行くと、周りに誰もいない事を確認してから、そっと腰を下ろして地面に触れた。

「……」

 しばらくの間、彼は何もせずにじっとしていた。

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