記憶たち

 ある都市の中心部。

 交差点にはバリケードが築かれ、兵士が身分証や旅行カバンの中身をチェックしている。ホテルに着くまで10回ほど検問があるそうだ。バリケードは大きなコンクリートブロックを積み上げたモノや鉄柱を組み合わせて歯止めを並べたモノなどいろいろ。重機でブロックを運ぶ者もいた。街には人っ子1人いない。

 重機の運転手の証言。

「ここは繁華街だから、いつも人通りが多かったよ。公園には家族が集まってたし。開戦で一変してしまった」

 空襲警報が聞こえる。この後、1日4、5回耳にすることになるサイレン。

「来週にここ目がけて総攻撃を仕掛けてくるそうにゃ」

と、不安を口にする者もいた。

―従軍カメラマンの手記


……わたしの父はレジスタンスの組織に所属していたので、ある日逮捕されて収容所に送られた。夏の終わりごろ、痩せて人相の悪い見知らぬ男が家の前に立っていた。それはわたしの父で。わたしは

『これが父ちゃんにゃの?』

と、思うほど変わり果てた姿だった。落ち着いてから、父が話してくれたことによると、父は処刑者リストに入っていたけど

「ここまで反発があるとは、反乱がおこりかねん」

と、25名をリストから外した。父はその中の1名だった。

―ある少女(匿名)の証言


 わたしが小学生だったころ、親東部的な家庭の子どもは兵隊さんから短剣やメダルなど、いろいろもらえるというウワサが流れた。学校で渡された入隊申請の用紙を家に持ち帰ると、母は黙ってそれを破り、ゴミ箱に捨てた。しかし、同い年の兵士に混じって、ジャガイモに付く昆虫を捕ってあつめる競争をして、それはとても楽しかったが、長くは続かなかった。

 わたしの父は税務職員であったが、東部領域政府で働くのを拒否したため、左遷された。2年ほど、わたしと母は、父無しで暮らした。

―呉少年の回想


 9月くらいに、帝国と東方領域政府の戦闘がおこり、わたしの住んでたあたりは、激しい戦場と化した。何ヶ月も続いて、大晦日の夜の爆撃で、わたしの通っていた小学校が焼けてしまった。戦後、東方領域政府の兵士たちの遺体が集められて埋葬された。その場所は、10年くらいしてかれらの故地に改葬された後でも集団墓地と呼ばれている。

 あるとき、わたしと母、それに友人とその母もいっしょにイチゴとかを取りに山へ出かけたことがあった。友人が連れたイヌが

「アン、キャーン、ワン!!!」

と、吠えるので行ってみると、土の中から東方領域政府軍の制服を来た足が突き出ていた。母は

「離れなさい!」

と、言った。当時は、まだ発見されずに残されたままの遺体もあったのである。

―ペーターS氏の回想


 ……1番イヤなのは、溶接の炎だ。蒼い閃光を見まいとするけど、12時間そこにいれば、目はタップリチカチカになって、砂をふりこまれたようになってしまう。こすってみたって、なんの役にも立たない。このせいか、電源のダイナモの単調なうなりのせいか、それとも単に疲れてるのか、眠い。夜はとくに。親方は少しでも休ませてやろうと

「電極棒の保管所にいってくるニャ」

と、指示をくれる。工場で電極棒を熱気で乾燥してるところほど心地よい場所はない。暖かいとこなんて他にないから。棚の上で、たちどころに寝てしまう。15分くらいで、親方がやってきて起こしてくれる。あるとき、かれが来るより前に目を覚ましたことがあった。親方は、僕たちをながめて、涙を拭ってる。

―起動装置の溶接をしていた子どもの回想


……お父さんは亡くなりましたが、わたしは学校に入れてもらえました。そこでは着るもの一式にパンの配給券が支給されました。わたしは長いことショートカットにしていましたが、そのころは髪が伸びていて、おさげに編むことができました。学生証をもらったときには髪はりっぱに伸びていました。その学生証は、ポケットに入れないで、持って歩いていました。ポケットに入れたりして、ひょっとしたら、無くしてしまったりしたらどうしよう、と、思ったからです。心臓がドキドキしていました。

 家ではお母さんが本物の紅茶を淹れてくれました。こんなおめでたい日ですもの、それに、お祝いの主役としてわたしにはお砂糖をスプーンに半分多くくれました。

―戦火から逃れた少女の回想


 ……ぼくの隣で寝ていたおじいさんが、ぼくを揺り起こした。

「ボウズ、わめくニャよ」

「わめく?ぼくがニャにをわめいていたの?」

自分ぼくを撃ち殺してくれってニャ」

―ある少年兵の回想


 戦争が終わったのち、老猫が裁かれた。かれは著名な作家で、敗北側のスポークスマンだったのである。罪状が読み上げられてる間、老猫はひたすらこうつぶやいていた。

「自分は正しく事実を知らにゃかった……。誰もくわしく報せてくれにゃかった……。にゃにも教えてくれにゃかった……」

 結局老猫は『高齢を鑑み』釈放された。


 ワカツと秋月国の間で発生した紛糾に照らし、また平和的解決に至る交渉の過程で直面するであろう困難に照らし、ソルティ侯領は領主であり、国家内国家ソルティ帝国皇帝の命により、ワカツと秋月国の間で行われる折衝の結果に関係なく、厳正中立を遵守する強固な決意を宣言する。

―ソル帝の局外中立宣言


『ここではなんでも起こるのでしょう。現にいまわれわれの眼前にあるのは考えうる最悪の状況です。しかしながら、だからこそ、われわれはこのように言わないといけません。つまり、わたしたちはそれを止めなければならないのです』

―古人の箴言


 凪島南部にあり主要都市であった久川市は、大戦期中秋月国が東方領域政府と共闘したのと違い、資源財団の元、戦っていた。当時久川市長であった蒲生時頼は

ひ「われわれは本国と違い、資源財団とともに戦う」

と、演説している。

 実際、『第2久川遠征軍』は各地で活躍し、とくに第12大隊は、その勇猛果敢な戦いぶりから、敵軍に畏怖されたという。

 その後、秋月国の資源財団への宣戦布告により、久川市も凪島及び周辺の防衛を迫られる。まず、凪島の北にあるレヴ島の守備隊を派遣。それに支援部隊を加えた『第3久川師団』が編成され、資源財団から派遣されたハロルド氏が師団長に就任した。

 かれらは、南洋諸島の各地を転戦したのち、翠島という呉口近くにある小さな地域の奪還作戦に参加、上陸兵力5000のうち4分の3が第3久川師団であった。対する敵守備隊は120しかいなかったが、果敢に抵抗、戦死者10、負傷者21という損害を受けた。

 このころには、南洋諸島が学園都市を中心とした連合軍が有利になったので、第3久川師団は凪島に帰還、解体。一部の精鋭は帝国にて戦っている第2久川師団の補充要員として派遣された。

 また、かれらは小規模ながら航空隊や船団を持っており、限定的ながら戦闘に参加していた。

 航空隊は数機の航空機とATで南洋諸島中を駆け巡った。

 船団は帝国の反抗作戦に参加し、軽巡洋艦利根などが被弾するも、終戦まで任務を遂行した。


『みな技巧は良いけど、デザインが下手だ。感情が先走って大局を逸して、本来の目的を忘れてしまう。形式に生きて、形式に死ぬ。形式の徹底は軍隊にたしかに必要だけども、しかし形式からは真の力は出てこない。幅、深さ、強さがとても足りない。これは単に指揮官や幕僚のみでなく、秋月国民の全体的な共通性のように思ってしまう』

―秋月国軍参謀の回想


 ……砲弾が唸りをあげて飛んでくると、15くらいの少年兵がうつ伏せでうっぷした。料理係は大鍋のうしろに。砲弾が遠くに落ちてドンという轟音を響かせると、みんな、羊のような恥ずかしそうな顔で、起き上がった。

―従軍した作家の回想


 『仕事は甘美で楽しいものと思わにゃければ、その仕事で名誉を得ることはできにゃい』

―旅する猫のモットー


 1月28日、住所不定の労働者が死亡した。享年34。

―グヴェンドリン・マーティン

 帝国海兵隊ジーン・マイケルとして、軍務に服す


  下手渡は秋月国と帝国の境にある小さな地域で、高垣種善が派遣されて行政府が成立した。なぜ種善が派遣されたかというと、秋月国で官僚を勤めていた父の失策のための懲罰人事で、当然ながら治世は混乱を極めた。この混乱のなか、種善に代わって領土の受け取りという大任をはたし、小さいながらも政務を務める政庁の建築を担当するなど、体制作りに尽力したのが、高垣兵衛であった。

 3代目の種恭は外交官、財政官僚として活躍したが、やがて秋月国を2分する争いが発生したとき、都へ行き、帝の恭順した。一方下手渡で代官を務めていた屋山外記という者が、政府と対立する同盟への加入条約に調印。この相反する行為が同盟の不信をかい、攻められてしまう。外記は領主不在のなか、同盟の攻撃に耐え、奮戦したという。


下手渡城の城主だった氏家氏の姫である邑楽はある日、母に連れられた少年を見て

「なんてカワイイ子なの?!」

と、一目惚れしてしまう。名を為信という少年と邑楽は同い年ということもあり、愛し合うようになった。為信が婿養子になることを条件に彼女たちは結婚する。

 すると、偶然にも父が急死してしまい、為信が氏家家を継ぐことになった。

「こ、これからどうなるんだろ?」

と、心配する為信に邑楽は

「大丈夫、イケルイケル!!!」

と、励ます。

 こうして、秋月国北部に梟雄が誕生したのである。

 氏家家は大崎の家臣のそのまた家臣というような地位であったが、ならず者を嗾けて敵の町を襲わせ、敵兵が自分の家族に気を取られている間に、奇襲をしかけたり、謀略の限りをつくして、勢力を拡大した。

 しかし、出る杭は打たれる。反氏家の大軍勢が下手渡に襲来した。戦場から

「武具が足らない」

と、報告がもたらされる。留守居の邑楽は

「まかせて!」

と、城内にある鉄製のものを集めて、手製の武具を作らせ、戦場に送った。すると氏家勢は体勢を立て直し、反氏家勢を撃退することができた。

 そののち、氏家為信は帝に謁見することができ、北部での勢力圏の安堵状を得て、改めて領主の地位を確立したのである。

 そののち、猫ヶ原の戦いでは、東軍、つまり天京院の側について従軍した記憶があるが、詳細は不明である。そもそも秋月国帝の名代として派遣された倉成勢は西軍として従軍しており、また氏家家にルッグの遺児を匿った記憶もあり、謎は多い。

 ともあれ、氏家家はこの功績で、土佐港の権益を維持しつつ、帝都住みの近衛隊長の一員となる。ルッグの子どもは土佐港の代官を務めていたようで、当地の寺院にはかれらが帝国から持ってきた神像が納められているという。


 カンタールが帝国の主導権を握った20年間と、その前後5年を足した30年間をいわゆる「摂政リージェント期」と呼ばれました。なぜそう呼ばれたかというと、カンタール自体は無位無官の皇帝一家の家宰でしかなく、表向きは皇帝の甥が摂政リージェントとして国政を担っていたからです。

 そして、その特徴は、外は結局失敗しる外征、内は政治的、道徳的腐敗と報われぬ闘い(しかも最終的に敗北する)の時代でした。

 この時代を代表する人物として知られているのが、フライスラー氏でした。彼は帝都最高裁判所の裁判官でしたが、この時代の厳しい綱紀えっちのことは粛正いけないとおもいますのために作られた、かの悪名高い人民法廷に大きな関わりがあった人物です。

 人民法廷という名前ではありますが、実際は国家を健全化するために異分子と認定された人々を裁くために作られた、それ専用の裁判所でした。その中にはいわゆるLGBTの人々やお酒の場でちょっと愚痴ったくらいの人も含まれていました。

 そして、フライスラー氏はその人民裁判で一番仕事をした方です。

 結局、フライスラー氏は摂政期の終わりごろにあった、敵国の空襲で落盤に潰され亡くなりました。

 しかし、そのような強制は、下からの反発を招くこととなり、天京院春見の台頭を許してしまうことになります。


 ここで自害した武将の妻は、摂政期前半の混乱のキッカケであるナルベコフ家出身の娘でした。名前は最初カレーシアでしたが、嫁ぎ先でカリンと改名します。

 彼女が嫁いだ先は、イルハムの息子で九條家に養子の出されていた忠利ただとしでした。2人とも美男美女のほまれ高く、このとき16歳。仲は良く、嫁いだ翌年には1男1女ともうけます。しかし、それから3年後、実家であるナルベコフ家は帝国に対しはんらんを起こし、宰相を暗殺。反乱は結局カンタールによって鎮圧し、カリンの父も逃亡途中に落命してしまいます。忠利イルハム父子はカリンを愛していましたが、自分たちの生き残りのため、カリンを幽閉します。

 お家のためにと自害を進めるものもいましたが、カリンは

「父への孝行もありますが、夫のいうことも聞かずそういうことをするのは、妻の道をたがえてしまうことになります」

と、忠利への愛をつらぬきます。

 やがてカンタールに許されて、忠利のもとに帰った彼女は、つらい暮らしが待っていました。九條家と交流があった共和国の外交官は、こういう記述を残しています。

「忠利どのの妻に対する過度の嫉妬ヤンデレのための、な幽閉と監禁は、それは信じられぬほどであった」

 こんなエピソードがあります。

 たまたま九條家の庭を整えているときに、カリンを見かけた庭師がいました。それを見た忠利はいきなり庭師の首をカタナで切り捨ててしまいました。そしてその首をカリンの前に置きましたが、カリンは動じません。たまりかねた忠利は

「おまえは蛇なのか!?」

と、怒鳴りますが、カリンは

「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」

と、返しました。

 やがて、天京院のもとに従軍していた忠利は

「もし、敵に攻められて追いつめられたときに、生きて辱しめをうけてはならぬ、よいな」

と、カリンと部下たちに言い含めていました。

 その後に起こったことは、本編で記述した通りです。

 すべてが終わったのち、忠利はカレンの墓所を造り、毎日そこに手を合わせるのが習慣になったそうです。


  皇帝の近臣たちはこのような役職おしごとの常で腐敗していたのですが、カンタールの改革によってそれは一層されました。

 そうして腐敗は無くなったように思われましたが、その実内側に隠れてしまったのでした。

 たとえば、いわゆるゾドムの罪と呼ばれる同性愛をめぐるスキャンダルが発覚した時期でもあります。これは同性愛自体よりも、それが幼児虐待になってたことがとくに問題でした。これが皮肉であるのは、カンタール体制はこの種の問題に特に保守的ないわゆる同性嫌悪フォビアとしか思えない対応を取ってきたということです。

 これに対処するように命じられたのは、逢坂の一族である九條くじょうかえでという方で、部下てしたのコンシディーンというのと手を携えてこの問題に対処することになります。

 彼女たちは、どちらかと言えば今回の仕事にあまり気が進まない風でしたが、カンタールや後述するフライスラー氏を始めとした関係者の異様な熱気にあがなうこともできず、またコンシディーン個人は子供の親権のために働かなければいけませんでした。

 彼女たちのについては、多岐にわたりますが、その中でよく知られているのが『オスカー・ワオ事件』です。

 これは著名な作家オスカー・ワオが未成年者とそういう関係になったこととそれを罪として裁くことになってしまった裁判をまとめてそう呼称したものです。

 オスカー・ワオは『サロメ』の翻案、『不幸な王女』『奇怪な肖像画』で知られる作家でした。そうして同時に同性愛者であり、それを隠しもしていませんでした。

 つまるところこれは、懲罰的な意味あいの裁判でした。『出る杭は打たれる』

というヤツです。

 オスカー・ワオについてあることないこと調査する役回りだったコンシディーンは

「なんで、戦時にこんなくだらないことをやらされているんにゃ」

と、愚痴っていたといいます。

 それに対して上司だった九條楓は

「つくづく因果な商売しごとだね」

と、返していました。

 結局、オスカー・ワオは牢につながれ、数年をそこですごすことになります。このの事件の影響を大きく、いわゆる『クローゼット』つまりは、自分の性的志向を隠して生きていけない時代になってしまいます。その傾向はこうしてこの文章が書かれている時代ときも続いているのです。

 話を元に戻すとして、このオスカー・ワオ事件が典型的なように、その種の性的逸脱に対して、帝国はてとも厳しい対応をしていくことになります。


 カンタールが帝国の主導権を握った20年間と、その前後5年を足した30年間をいわゆる「摂政リージェント期」と呼ばれました。なぜそう呼ばれたかというと、カンタール自体は無位無官の皇帝一家の家宰でしかなく、表向きは皇帝の甥が摂政リージェントとして国政を担っていたからです。

 そして、その特徴は、外は結局失敗しる外征、内は政治的、道徳的腐敗と報われぬ闘い(しかも最終的に敗北する)の時代でした。

 この時代を代表する人物として知られているのが、フライスラー氏でした。彼は帝都最高裁判所の裁判官でしたが、この時代の厳しい綱紀えっちのことは粛正いけないとおもいますのために作られた、かの悪名高い人民法廷に大きな関わりがあった人物です。

 人民法廷という名前ではありますが、実際は国家を健全化するために異分子と認定された人々を裁くために作られた、それ専用の裁判所でした。その中にはいわゆるLGBTの人々やお酒の場でちょっと愚痴ったくらいの人も含まれていました。

 そして、フライスラー氏はその人民裁判で一番仕事をした方です。

 結局、フライスラー氏は摂政期の終わりごろにあった、敵国の空襲で落盤に潰され亡くなりました。

 しかし、そのような強制は、下からの反発を招くこととなり、天京院春見の台頭を許してしまうことになります。

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