14

 覚束ない足元。意味を成してないガードをすり抜け頬に走る激痛は最早、他の痛みに紛れていた。顔を左右へ振るように更に振られる拳。そして最後は強烈な蹴りが踏ん張る事すらままならないユーシスを蹴り飛ばした。

 宙を進み壁へと叩きつけられたユーシスの体。そのまま壁を滑り落ちると雨上がり様に血雫が地面へと小さな溜まりを作っていた。


「無様だなぁ」


 力無く座ったままのユーシスの前で立ち止まったソルは、彼を見下ろしながら嘲るように呟いた。

 そんな彼女は付着した血はあれど見える範囲に傷の類は一切ない。

 だがソルに対し、ユーシスの方はどんな戦いが繰り広げられたか見ずとも想像に難くない状態だった。


「もうすっかり傷も治り切っちまった。別に吸血鬼も万能じゃねぇ。受け続ければ次第に傷の治りも遅くなってくる」


 上げた傷一つない腕へ視線を余所見させるソル。


「だが結局、アンタにそれ程の力は無かったみてーだがな」


 ソルの見下ろしたユーシスは血に塗れ俯いたままで返事は無い。

 だがふらつき顔を俯かせながらもユーシスは緩徐と立ち上がり始めた。唾交じりの血液は糸を引きながら地面へと垂れていき、壁には動きに合わせ雑に血痕が付着していく。

 そんな時間を掛け立ち上がるユーシスをソルはただじっと見つめていた。

 そして(未だ壁に支えられながらも)やっとの思いで立ち上がったユーシスだったが、すぐさま伸びてきた手が喉元を握り首を絞めた。そのまま壁へ押し付けられながら上へと持ち上げられ僅かに浮く足。手首を掴み振り解こうとするが、今のユーシスにその力は残っていない。


「もうこれ以上はいいだろ」


 依然と流れの止まらない鮮血は二人を繋げるようにソルの腕へと流れていくが、そんな事は気にせずその手はしっかりと喉元を握っていた。


「白狼と会った事でお前が少しぐれー強くなったかと思ったが――やっぱりお前はなんにも変わんねーな」


 息苦しさと絶えずそして激しく反応する痛覚に紛れ響くソルの声。


「同じウェアウルフ、アンタの中にもあの力があるはずなんだがな。結局アンタは、昔と変わらず何も出来ねぇって事か」


 そしてソルが更に力を入れると、喉はより締め付けられ僅かな酸素すら途絶えてしまった。徐々に抵抗は弱まりついに手首を握っていたその手が滑り落ちていく。

 ソルはすっかり反応の無くなったユーシスを確認すると手を離した。同時に無抵抗で地面へと落ちてゆくユーシス。俯き流れる血だけが動き続けるが当の本人はピクリともしない。

 だがまだ微かに、吹けば消えてしまいそうな意識がその内側には残っていた。夢見心地にも似た感覚と僅かに開いているが何も見てない視界は真っ暗。

 そんな状態の中、ユーシスの脳裏ではヴィクトニルの言葉を思い出していた。


『お前にウェアウルフの血が流れてる以上、この力はそこにある。求めるだけでは意味が無い。無理矢理にでも引き出せ』


 思い出した――というより靄のような意識の中、独りでに流れ始めたと言う方が今のユーシスにとっては正しいのかもしれない。ただその言葉とソルの声だけが、今のユーシスには聞こえていた。まるで遠くの他人事のように小さく、それでいてハッキリと。


「あの白狼でさえもアイツらには敵わなかったんだ。今のアンタは言葉にすらする資格は無い」


 聞こえてくるソルの言葉と意識を繋ぎ止める最後の一糸とでも言うように弱々しく響く鼓動。ユーシスの中に会ったのはそれだけだった。


「アタシ一人にすらこんだけボコられてちゃな。だからずっと言ってきただろ? アンタは弱い。その力はあるはずなのに――アンタはずっと弱い。結局、口だけの奴だったってことだ」

『求めるだけでは意味が無い』


 すると、ユーシスの中で鼓動がひとつ。それはたった一度だったが、これまでの弱々しさとは打って変わり鼓舞するような強い鼓動だった。


「アンタにもっと力があれば。アンタがもっと強ければ……」

『それは奥底から煮え滾るような獰猛な力だ』


 ひとつ。また、ひとつ。ユーシスの中で再びあの鼓動が響き渡る。

 だがユーシスの体は依然とピクリともせず俯いたまま。


「フッ。いや、これが現実か」


 ソルの声が静かに消え辺りへ漂う時が止まったかのような沈黙。その間、彼女の双眸はじっと内側の感情を隠した表情と共にユーシスを見下ろしていた。


『無理矢理にでも引き出せ』


 ただじっと。ユーシスを見下ろし続けるソルは、手にした勝利に酔いしれる訳でもなければ喜びの欠片すら見せることは無かった。その口元は一本の線を描き続け、その表情は仮面でも被っているかのように感情を一切浮かべていない。


「理想を見すぎたようだな。目が眩む程に欲した理想を」


 ソルはそう言うと一歩近づきしゃがみ込んだ。伸ばせば手が届く距離で目線を合わせるが、ユーシスの顔は俯き二人の視線が交わる事はなかった。


「その所為で――理想を見過ぎた所為で、現実を見誤ったらしい」


 ――ドクン。それはこれまでよりも大きな鼓動だった。叩き起こすような鼓動が一つ、ユーシスの中で鳴り響く。


『この力はそこにある』


 鼓動は一回また一回と繰り返し鳴り響き、段々とその間隔は短くなっていった。ついにはまるで急かすように鼓動しては鼓動を繰り返す。


「今のアンタには無理だ。このアタシすら倒せないアンタには」


 ソルは言葉と共に小さく首を振った。


「アンタにテラは守れない」


 するとユーシスの体からは蒸気を上げるように白煙が立ち上り始め、たちまちその体を包み込んだ。

 そんな不可解な現象に対し微かに眉を顰めたソル。

 しかし次の瞬間、咄嗟に腕を眼前で交差させた。それに合わせ背側から腕の前へ現れた蝙蝠の翼。それと同時にソル目掛け伸びた拳。だがこれまでの全てが明らかに異なるように、拳が翼に触れるとソルの姿は消え反対の壁へと消えた。

 そして白煙が晴れ露わになる腕。それはこれまでと明白に変わり白い毛に覆われていた。立ち昇る白煙の中、緩徐と立ち上がる影。

 一方、地面へ落ちる破片と共に着地したソルの体にもう翼は無く、眉間に皺を寄せ鋭さを増した眼差しが白煙を見つめていた。

 そしてその視線先で煙が晴れると影の姿が露わになった。


「こりゃあいい」


 鼻を鳴らすように一笑すると、ソルは口元に笑みを浮かべた。

 そんな彼女の正面に立っていたのは、当然ながらユーシス。ではあったがその容姿は変わり果て、全身を灰色の毛が覆い人狼と化していた。白狼のようだが毛色は異なり、だが同じ種族だと証明するには十分な姿形。


「少しはマシになったか見せてみろよ」


 そう呟くように言うとソルは一瞬にしてユーシスの眼前へと間合いを詰め殴り掛かった。

 だがその拳は片手で容易く受け止めらる。

 その際、ソルと顔を合わせたユーシスの双眸に正気はなくまるで催眠にもかかっているようだった。


「ぶっトんでんのか? 初めてで刺激が強すぎたか?」


 相変わらずの余裕を見せるソルだったが、言葉を遮るように振り下ろされたユーシスの拳が頬へと伸び彼女を殴り飛ばした。振り出しに戻るように再度、壁へ叩きつけられるソルの体。そこまでのダメージはなさそうだったが、追い討ちを掛けるように態勢を立て直す暇すら与えず気が付けばユーシスは目と鼻の先へ。振り上げられた手にはずらり尖鋭な爪が並び、刃物のようにそれは振り下ろされた。

 反射的に腕を交差させるソル。そんな腕前にはあの翼が覆うように現れた。翼が爪を防ぎ散る火花。直後、ソルの拳が隙間を縫うように攻撃後の一瞬を突きユーシスの顔面をとらえる。それはこれまでのどの一撃よりも重く力の籠ったものだった。

 今度は殴り飛ばされたユーシスが壁へと戻されるが、塵煙から姿を見せた彼は何事も無かったかのように傷一つなく平然としていた。

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