江戸029_ふぶんりつ 壱

 心配していたことも意外とあっさりと解決して、次はお披露目を

いつにしようかと話をしていた。

憂いも無くなり、俺は先の楽しみばかりを考えていた。

これまで心の奥底で覚悟していた事を忘れて…。


 お互いに仕事やら道場のことやら色々と忙しくなると会いたくても

時間がとれないことはよくある事だった。

ここしばらく連絡がないが、それもただ忙しいだけだと思っていた矢先

松介から妙な噂を聞いた。


「本当にお前さん知らないのかい?」

「何が?」

「だから、伊庭の若様が見合いするって話さ」


「見合い?!」

「聞いてねぇのかい?」

「あぁ今のところ知らせもないしな」

「じゃあの噂はデマカセなのかねぇ?」

「どうだろうな…。また今度会った時に聞いてみるさ」


最初はただの噂だと思っていた。それに何かあれば秀頴から知らせが来る

はずだと思っていた。たがいつまで経っても知らせは来ない。

もちろん秀頴と会うこともなくなっていた。


そういえば以前にも秀頴から知らせが来ない時があった。

あの時は何だったのか思い出してみる…。


あれは…そうだ秀頴の実父が亡くなった時だ!!

それに気づいた瞬間、俺は嫌な予感に包まれた。


今度の見合いの話は噂じゃなく本当なのかもしれない…

その考えが頭を過ぎった。


でも、秀頴は伊庭道場の跡取りだから、嫁を貰い所帯を持つのも

当たり前のこと。それは端から判ってたし覚悟しなきゃならない事だと

思っていた筈なのに…。

いざとなれば、潔く身を引く覚悟はしておこうと思っていたし

それくらい何とかなると思っていたのに、心はそう簡単に割り切れない。

とはいえ、家のこととなると俺なんかが口を挟める様な事ではない。

俺達を阻むものは、とてつもなく大きい。


真偽のほども判らない話に翻弄されても仕方がないのだが

噂が出てから秀頴から何も連絡がない事を考えると本当の様に思えてきた。


だんだんと秀頴の見合いの話は町衆にも広がっている様で、

あちこちで噂が飛び交っている。聞きたくなくても耳に入る様になった。

それでも肝心の秀頴からは何の連絡もない。


きっと話が終結するまで、秀頴は俺に連絡して来ないだろう。

それがどんな結果になろうとも俺はただ待つしか手立てはなかった。


 噂はどんどんと大きくなり、すでに見合いを通り越して

祝言も近いという噂まで飛び出してきた。


いよいよ秀頴も身を固めてしまうのかと思っても

俺にはそれを止められない。ただ指をくわえてみているしかない。

どんな状況が目の前に起きても、俺はそれを受忍するしかないのだから…。


こんな状況になっても何も動かない俺を見て松介が来た。

「宗、お前大丈夫か?」

「何が?」

「あの噂だよ噂!! お前だって知ってるんだろ?」

「あぁ聞いてるよ」

「平気なのかい?」

「そんなことはないさね」


この話になると無表情で無感情の昔の俺に戻っていく気がした。


「宗!! お前… 本当にこのままでいいのか?」

「いいも何もどうしようもないじゃないか…」


気の抜けた返答しかしない俺に松介が業を煮やして言う。


「何でだよ! 何でそんなに冷静でいられるんだよ! お前本気で

惚れてたんじゃねえのかよ!!」

「本気だよ…」

「じゃあ何で!!」

「本気だからこそ、超えられない壁があるのさ」

「違うだろ!! 本気だからこそ超えるんじゃないのかよ!!」


「なぁ松介… この花街で俺達は一杯見てきたろ?」

「あん?」

「身分違いや許されないことで引き裂かれていった連中をさ」

「あぁ、それはなぁ…」

「それと同じなんだよ。伊庭の家も残すべきものがあって

然るべき人間がそれを継がなきゃならないんだ。

だからあいつが… 秀頴が所帯を持つことは当然のことなんだよ」

「宗…」

「こればっかりは口出し出来ねぇ。秀頴の出した結論に従うしかないのさ」

松介に言うというよりも自分の心を説得するように、それが秀頴の

幸せなのだと、それが一番の方法なのだと言い聞かせていた。



 あの後もずっと秀頴からの文の1つもない。噂に翻弄されたくなくて

耳も目も心も閉ざして生きていた。

もし本当だとしても、見合い相手が秀頴を見て嫌うはずはない。

嫌う以前に家と家を結ぶ婚礼が破談になる筈もなく…。


もう覚悟するしかないんだろうに… 未練がましい自分がいると思えば

正反対に別れるなら、どの方法が秀頴にとって一番良いのかを考えていた。


心ここにあらずの状態で何日過ごしたのだろう…

気がついたら、久しぶりに伊豆の座敷に呼ばれていた。


「聞いたか?」

「噂なら嫌でも耳に入るからね」

「本人から何か言ってきたか?」

「全然」

「どういう状況なのか全く知らないのか?」

「当たり前だろ?! 俺みたいな奴が知るすべはないでしょうに…」

「そうだな…」伊豆が重い口を開いた。


 伊豆の話では、この度の縁談は上の方からのゴリ押しの縁談らしく、

強行に進めてきているらしい。秀頴の養父は穏やかな人で、

そのまま受け入れるしかなかった様だ。秀頴も恩義のある養父からの

話とあって断れないらしい。


「ってことは、秀頴の祝言と跡取りは決定か。めでたい話だね、伊豆」

「お前はそれで良いのか?」

「良いも何も… 俺は何も言える立場じゃないだろ…」

「そうだな」

「判ってるんだったら聞くなよ!」

「で、お前さんはどうする?」

「どうするって何を?!」

「伊庭の息子が嫁を貰ったとして、お前は男妾でもするか?」

「俺はそれで充分だけど、秀頴の心はそんなに器用じゃないさ」

「で、どうする?」


「別れる」


「それでいいのか?」

「良いも何も、あいつが所帯もって道場を継ぐとなれば俺みたいな存在は

邪魔にしかならねぇでしょ。悪い噂が立ってもいけねぇしさ…」


「日陰者にはなりたくないか?」

「そんなこと、最初から日陰にいる奴に聞くなよ」


「お前はどうするつもりだい?」


「別れるにしても、俺が良い人で別れちゃいけないんだよね。

だからさ…遊びだったって、騙してたって悪態ついて、心底嫌われて

別れるんだ俺、あはは」


自分で言った言葉に傷つきながら力なく笑った。

それが一番の方法なのだからと言い聞かせて…。


「宗次郎、お前… そこまで考えてたのか?」


「本当はね、もっと前からこういう事があれば、その時は潔く別れようって

考えてたんだ。でもこんなに早く来るとは思ってなかったよ…」


「そうだなぁ…」


「だからさぁ伊豆、都合のいい話だけどさ秀頴と別れ話をした後、

たぶん俺はしばらく立ち直れそうにないから、慰めてくれないかな…」


「いつでも戻ってくればいい」

「ありがとう、伊豆」久しぶりに伊豆の胸で泣いていた。


「で、宗次郎。お前の本音はどこだ?」

「本音?」

「相手のことを考えて、世間体を考えて、身を引くのは判るが

お前さんの本音はどうなんだ?」

「俺の本音なら、さっきから話した通りじゃないか」

「そうじゃなくて、お前の気持ちだよ」

「でも、こんな時は俺のことより家が…」

「あれほど武家を嫌うくせに、こういう時だけは考えが武家だな、お前」

「でも、こんな時に個人の感情なんざ関係ないだろ?」

「まあ普通はそういうもんだがね」

「普通は…って、それ以上どうしようもないでしょうに」

「どうでも出来るなら、お前はどうしたい?」

「そんなもん、ぶっ潰したいに決まってる!!」

「やはり、そう思うかい?」

「当然だろ。何が嬉しくて惚れた相手を譲らなきゃならないんだよ!!」

「そりゃそうだな」

「…でも、そんなこと出来るわけないじゃないか」

「そう、普通ならどうしようもない話なんだがねぇ」

伊豆はそう言いながら不敵な笑みをもらして言った。



「宗次郎。儂を誰だと思ってるんだ?」

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