煙
傘立て
煙
白い封筒を差し出してきた青年に見覚えはなかったが、目に馴染んだ筆致で書かれていたのは間違いなく自分の名前で、そう思って見てみれば、うつむき加減のその面差しには久しく会っていない懐かしい人に似通ったところがあるような気がした。
「遺品を片付けていたときに兄の机から出てきたものです。あなた宛のようだったので、お届けにまいりました」
「よく分かりましたね、ここが」
封筒の表面には私の名前があるだけで、住所は記されていない。受け取って裏返してみても、それ以上の情報はなかった。
「兄の研修医時代の名簿が残っていました。そこに住所が。同姓同名の別人の可能性もありましたが、あまりないお名前だったので間違いないだろうと」
「ああ、なるほどね」
名簿があるなら私の住居にたどりつくのも容易かった筈だ。角を揃えた几帳面な字で書かれた「花房 律様」という文字の並びに目を落とす。この字で書かれた手紙を受け取り、何度も読み返した時期があった。たしかにこの名前で別の人物を引き当てる確率は低いだろう。
「亡くなられたんですか」
「半年ほど前に。事故でした。昏睡状態が続いたんですが、二回意識が戻ったんです。二回目のときにちょうど僕ひとりがそばにいて、この手紙の処分を言いつけられました。義姉の目につかないように始末してほしいと言われただけなので、そのまま見なかったことにして捨ててしまってもよかったんですが」
「気が咎めた?」
「はい。それと、兄が最後まで隠そうとした手紙の相手がどういう人物なのか気になりました」
率直な物言いだが、不躾な印象はない。若者らしいまっすぐさはむしろ好ましく感じられた。初夏の陽射しが白い襟に反射して、彼自身の肌の白さを際立たせている。黒い瞳は記憶の中のあの人によく似ていた。
「そうですか。それで、手紙の相手に実際に会われてみて、いかがです?」
「失礼ですが、兄とのご関係は?」
あしらわれるつもりはないらしく、こちらの問いを無視して斬り込んできた。結ばれた唇や真剣な眼差しに懐かしさを覚える。彼も真面目な話をするとき、同じ顔をしていた。やはり兄弟は似るものだ。顔立ちそのものというより、表情やちょっとした仕草にそれが顕れる。そんなことを考えて思わず口元が綻んだのを、目の前の青年はどう受け取っただろうか。
「研修医の頃のごく短い期間に親しくしていました。それだけですよ。ご心配されるような仲ではありません。もう何年もお会いしていませんでした」
嘘ではない。私たちの関係は、心身共に疲弊する多忙な日常の中でモラトリアムの残滓を互いに舐め合うような、ささやかで脆弱なものだった。彼が病院の跡取り息子であることは聞いていたが、私には未来の院長夫人の座におさまろうという気どころか、関係を長く続けるつもりすらなかった。ふたりとも口には出さなかったが、彼も同じ気持ちであろうことは、隣にいれば分かった。辛い研修医時代を支え合った仲ではあったが、職場が離れ、それぞれが忙しくなるにつれて連絡を取り合う回数が減り、やがて自然に縁が切れた。そこに劇的な別離の物語などはなく、そのぶんお互いに未練も残さなかったつもりでいた。だから、私宛ての手紙が残されていたことに対しては正直驚いた。
封筒は指先で撫でると埃っぽく、紙のよれ具合を見ても、新しいものではなさそうだった。おそらく、封をされてから数年は経っているだろう。それが私と付き合っていた頃なのか、それよりあとなのかまでは分からなかった。
「兄の遺品の中に私的な手紙は見当たりませんでした。出てくるのは挨拶状や年賀状の類いばかりで、誰かと個人的な手紙をやり取りした形跡はなく、日記もありません。不慮の事故だったのに、兄は交友関係の痕跡を一切遺さなかったんです。この封筒だけです。あなたに宛てられたこの封筒だけ、なぜ見つからないような場所に隠し持っていたのか、心当たりはありませんか?」
縋るような問いかけに、私は答える言葉を持っていなかった。
青年を見送り、家の中に戻った。換気扇をまわし、ガス台に灰皿を置く。手紙を燃やすだけならこの程度で充分だろう。咥えた煙草に火をつけたのと同じ手で、封筒の端にライターを近づけた。ゆらめく火は簡単に手紙に移り、白い紙の端からじりじりと焼いていく。中身は読まない。結果的に捨てられなかったからここまで届いただけで、そもそもこの手紙は私の手に渡ることを想定したものではなかった筈だ。それならば、ここに綴られた言葉も、永久に彼だけのものでなくはならない。
手紙から立ち昇る灰色の煙は、私が吐き出した紫煙と絡み、もつれあって換気扇に吸い込まれていった。この一本を吸い終わり、手紙が燃えきったら、机に広げたままの論文の前に戻る時間だ。煙草を咥え、深く煙を吸いこむ。銀色の灰皿の上で、行き場のない手紙が少しずつ灰になっていく。
煙 傘立て @kasawotatemasu
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