<冒頭試し読み>ちがいたくない(短編集「生き永らえよ救いはなくとも」収録)

青葉える

<冒頭試し読み>ちがいたくない(短編集「生き永らえよ救いはなくとも」収録)

 あいつは血を飲む。

 あいつは血を飲む。


〈又居による〉

「時計草の別名、パッションフラワーっていうんだって。見た目に反して熱い名前だ」

 隣でしゃがみ、そう言う矢羽を俺は見下ろす。矢羽は何も怖いもののない少年のようにはしゃぎ、花壇の時計草を眺めていた。

 受験勉強の息抜きとして、今日の生物の授業内容は野外観察に変更された。矢羽は夏休み中、理数科目の補習をみっちり受けさせられていたので、もうすぐ十月だという今でも「もう生物って言葉を聞きたくない」と漏らしている。だからあれやこれやの専門用語から解き放たれるこの時間は、まさに良い息抜きになっているようだ。一方、矢羽以外の友人たちは観察もそこそこに、向こうの木陰でお喋りに花を咲かせている。

 時計草の隣、キバナコスモスの花壇の辺りでは、クラスで浮いている存在とされている女子たちが四葉のクローバー探しをしていた。彼女たちは、クラスの中心にいる男子など視界に入れないと心に決めているように俺と矢羽に背を向けている。

矢羽は「確かに時計に見える」と笑い、「気がする」と付け足してまた笑った。俺が体を傾けて時計草を覗き込むと、彼はこちらを見上げてにっと歯を見せた。俺は表情が変わってしまわないよう努めつつ、口を開く。

「パッションには情熱と受難という二つの意味がある」

 きょとんとする矢羽に向けて続ける。

「時計草が意味するのは受難の方だ。ほら、キリストの受難とか。この前、授業で見た磔の絵の」

 矢羽は目を丸くしたまま、「……又居は真面目だ。授業を聞いてる」とふざける。沈黙は、感嘆からか、それとも無意識に湧き出た怯えや焦燥を押し殺すために生まれたものか。

「矢羽は杭が怖くないか?」

 俺たちの間を秋めいた風が通り抜け、制服を揺らした。

「急だな。杭ってキリストさんの手足貫いているあれ? 怖いだろふつう」

 矢羽はへらりと笑った。この友人は、はしゃいで単純に驚いて緩く笑って、脳みそが溶けているみたいだ。もっとも溶けていない脳みそを持つ男子高校生の方が少ないだろうけど。

 隣の花壇にいる女子たちは、互いの進路について真剣に話し始めた。目の前の落ち着きのない男がクラスの中心とされて彼女たちが浮いているとされるのも気の毒な気がした。

「そっか、怖いか」

「あと他に何かないの、時計草の豆知識」

「あー、色が互い違いに見えるのは花びらとガクの色が違うからとか、精神を鎮めるハーブにもなるらしいとか」

「又居、大学入ったら自己紹介で言えよ、『花に詳しい』って。もてるぞ」

「最近テレビで見たばかりだから覚えてるだけ」

 その番組を見たときから、時計草と矢羽を対面させてみたくて仕方がなかった。だから野外観察に向かう際、携帯電話を理科室に忘れたと言って矢羽を待たせてわざと他の友人たちから離れ、その後あてもなく歩くふりをして彼をこの花壇に連れて来たのだ。

「そういえば、そのテレビを見た次の日、電車で中学生たちが話しているのを聞いたんだけどさ」

 俺は矢羽の隣にしゃがみ、そう言いながら時計草を人差し指で突く。ゆらりと揺れる時計草を矢羽がどんな目で見ているのか、想像すると思わずあの思いを告げてしまいそうになったから止めた。

「飲血人種は時計草を怖がるって噂があるらしい。受難から杭を連想させるからとか、時の流れを表すものだからとか。そんなわけないよな、吸血鬼じゃあるまいし」

 あくまでもくだらない噂話だと思っていると伝える調子で言う。矢羽が黙ってしまってから数秒経ったので、表情を伺うため隣を覗き込もうとしたらちょうど教師が集合をかけた。矢羽が立ち上がり、俺もそれに続くとぱちりと目が合う。彼は「行くか」といつもの笑顔を浮かべて、俺の先を歩き出してからやっと「飲血人種はただ血が必要な人間ってだけなのに、そんな化け物みたいな扱いするのは違うよな」と返事をした。俺は渦巻く心を隠し、矢羽の後ろ姿を見ていた。

 数日後、登校した矢羽のスクールバッグのポケットから一本の時計草が覗いていた。「かわいかったから拝借しちゃった」とにやける矢羽は、「花壇から勝手に引っこ抜いたの、先生に告げ口してやる」とからかう友人の輪の中でへらへらと笑いながらも、自分自身を定義するだろう概念への怯えを隠しきれていなかった。俺が他の友人とは違う目で自分を見ていて、俺だけが自分の怯えに気づいていることに、矢羽は気がついていないだろう。そして俺はあの疑念をまた確信に近づける。

 矢羽、お前は飲血人種なんだろう? そうではないと周りに思わせるために時計草を身に付けてみたんだろう? ああ、言ってしまいたい。


 ベッドに横たわり、純銀のナイフを眺める。中学生の頃に父親から貰ったものだ。嬉しくなかったのに美しかったから、今でもガラスケースに入れ、壁にかけて飾っている。

 飲血人種は全人口の二パーセントの割合で出生する人種で、特徴は人間の血液を水分同様に摂取する必要性がある点と、それを美味だと感じる点だ。必要性といっても、一生で摂取する必要のある水を百とすると、対する血液は多く見積もっても十くらいだという。骨折して初めてカルシウム不足を知るように、血液不足で倒れて初めて血の摂取を始める飲血人種も多いらしい。飲血趣味の人間と違う点は、血液を栄養に変える体の作りを持つ点と、日常的には血を飲みたいという欲求がない点だ。

 飲血人種は異常者ではない。マイノリティである。提供を了承してくれた人間の血や、証明書の提示により医療機関から処方される飲用血液を飲む必要がある以外は、マジョリティの人間と何ら変わりない。証明書は出生直後の診断で発行されるため、親には飲血人種だということを隠すことは出来ない。飲血人種に対する育児放棄は社会が取り組むべき問題の一つだ。

 一方、飲血人種が社会に問題を起こすことは殆どない。無理やりに他人の血を飲もうとすれば犯罪行為になると、当然ながら飲血人種もわかっているのだ。大量の血を間近で見たり、血を飲まないと生き延びられない状況になったりすれば本能的に反応してしまうかもしれないが、まずもってそのような場面には出会わないだろう。

 しかし、飲血人種という概念が独り歩きしてしまう現象は社会問題となっている。最も顕著な例がいじめであり、大勢で一人を「お前は飲血人種だろ」と攻撃する事象は全国の学校やコミュニティに溢れている。実際はそうではないのに言われた人間も、実際にそうであり言われた人間も、そのいじめの外にいる本物の飲血人種も、皆が辛い思いをする。

 俺が通った小学校でも、皆から「血を飲まれて殺される」「飲血人種がうつる」と避けられていた色白の男子がいた。俺は元々メディアにおける飲血人種の、マイノリティとしてマジョリティから大切にされるべきといった取り上げられ方も、マイノリティとしてのアイデンティティに誇りを持っているだのなんだのという当事者の主張も好きではなく、ひいては飲血人種という人たちに関わりたくなかったので、いじめの加害者とも被害者とも傍観者とも親しくせずにいた。つまり俺は教室に一人でいて、その男子が頬を腫らし目を充血させ涙を流している光景を見て見ぬふりし続けたのだ。実際に彼が飲血人種なのかは誰にもわからず、そんな状況下でどんな立場でもない俺が「大丈夫だよ」なんて言っても意味はないのだと自らに言い聞かせながら。彼へのいじめは卒業まで止まず、中学校でも、被害者と加害者を変えていじめは続いた。

 高校に入学し、さすがにいじめはなくなったが一人で過ごすのに慣れていた俺は誰とも行動を共にせずにいた。だが二年生になって矢羽に話しかけられ、最初はその馴れ馴れしさが面倒だったものの、だんだんと一緒にいるのが落ち着くようになっていった。そのうち気がつき、目が離せなくなっていったことがある――それが、いつも何も考えていなさそうな笑顔を浮かべている矢羽が、日々の何気ない会話で飲血人種の話題が出ると一瞬顔を強張らせることだった。気がついたのは俺が過ごしてきた環境から飲血人種という存在に注目せざるを得ない人間だったからで、他の友人たちにはわからなくても仕方ないほど微々たる強張りだった。それが意味するところを考えていた二年生の七月、倫理の授業で社会問題について調べ発表する時間があった。俺は自分が通っていた小中学校での、飲血人種の概念を悪用したいじめについて話し、自分は何もしなかったことも踏まえていじめへの批判をした。話しながら目に入ったのは、唇を噛み、青ざめた顔で目線を下にやっている矢羽だった。そのとき俺は、雷に撃たれたような衝撃を経て、ある疑念を持った。矢羽は飲血人種なのではないか、と。

 数週間後、再び倫理の授業で今度はマイノリティについて学んだとき、性的少数者や発達障害に並んで飲血人種が扱われた。俺にとってはくだらないとしか思えない飲血人種差別反対活動の様子の映像が流れる最中、俺の斜め前の席にいた矢羽はずっと下を向いており、授業後の休み時間もずっと姿を消していた。三年生になった四月、友人が、知り合いの知り合いが飲血人種だと恋人にカミングアウトしたらしいという話をしていたときも、矢羽は曖昧な相槌を打ちながら微かに深く呼吸をしていた。それが平静を装うための呼吸だと俺にはわかった。もちろん、他人に勝手なレッテルを張ることは良くない。だが矢羽の飲血人種に対する苦しみの滲む反応、そしてそれを隠そうとしている素振りは本物だった。矢羽は飲血人種として今まで、頬を腫らし目を充血させ涙を流してきたのではないか。今こそ俺は、見て見ぬふりをしてきたものに向き合い、本物の飲血人種に「大丈夫だよ」と言ってあげるべきなのではないか。そう考え始めてから今に至るまで、矢羽が飲血人種なのだという確信を得るため、少しずつ彼の心に踏み込んでみている。時計草もその一つだった。


 純銀のナイフは蛍光灯を受けてぎらりと光る。おとぎ話の吸血鬼ではないのだから飲血人種には純銀なんて何の意味もない。だが意味はなくとも美しい。これを見たら矢羽は、時計草と一緒に持ち歩こうと思うだろうか。先回りして逃げ道を作ってしまうのはマイノリティの悲しい性だ。

 矢羽は一年半前、どうして俺に話しかけたのだろう。いじめを無視し続け、飲血人種と自分とは関係がないという態度を貫き通した人間を選んでしまったのは、彼の失敗か。

「俺の体はお前の隣にあるけど、俺の心はきっとお前が想像もしないところからお前を見ている」

常に周りに誰かがいて、ひとり言など言う必要もなさそうな矢羽を思いながら、俺は独り言ちる。

「矢羽、怖がらなくていい。お前は少し人と違うだけだ。違う自分と同じ人だっているさ」

 リビングから母親のヒステリックな声がする。父親の怒鳴り声も聞こえた。俺は時計草だけを瞼の裏に貼り付けて目を瞑る。かわいそうな友人を思いながら、右手を伸ばして、携帯電話を手に取った。




〈矢羽による〉

「おれはバカなんだ。何も考えたくないし考えようとしない。毎日が楽しければいいとだけ思っているやつだって皆わかっているし、そういうやつだからこそ皆一緒にいて楽しいって言ってくれる。だからバカなのに悩み深い人間みたいにこうやってお前に喋ってるなんてそれこそバカみたいだ」

 ベッドに座り込んで、おれは天井を見上げている。

 今日、おれがバッグに差している時計草を、又居が見ているのに気がついた。飲血人種は時計草を怖がるなんて聞いたこともなく、何の意味もないとわかっていたが、恐怖に駆られて縋ってしまった。

 又居は大切な友人だ。でも怖い。あいつがおれを見る目は、他の人と違う。

 なぜなら又居はきっと飲血人種だから。いつかおれを罰する人だから。

 おれは、高校に入学したときには既に、飲血人種の話題に対しては体が固まり冷や汗が出るようになっていたが、吐き気や頭痛までもするようになってしまったのは二年生の七月、又居が飲血人種の概念を悪用したいじめについて授業で発表してからだった。その日の昼休み、又居に「顔色悪いけど大丈夫か」と言われ、反射的に大丈夫だと笑顔が出たが歪んでいないか心配だった。そうかと答える又居の目がすっと細められた。おれの罪が見抜かれたのかもしれないと思った。そして見抜けたのは、又居自身が飲血人種で、いじめや差別に晒されてきたからではないかとも。

 それから又居は、飲血人種の話題が出ると、他の友人に向けるものとは違う視線をおれに僅かに向けるようになった。それは「お前は皆と違う人間なのだろう」という視線で、つまり「無垢な皆とは違い罪を背負った人間なのだろう」という意味が込められているにちがいなかった。

又居はおそらく、おれが又居の視線に気がついていることに気がついていない。おれは能天気な生き方の塊のように思われている人間だから、それほど鋭いと思われていなくて当然だろう。過敏になり深読みし察してしまうのは、罪を自覚した人間の悲しい性だ。

「おれの違いを見抜くあいつこそ、飲血人種として皆と違うと思わされるような悲しい思いをたくさんして来たのかな。なあ黒豹」

 黒豹というのはおれの奥底からせりあがってくる黒い靄で、見えるようになったのは中三の秋だからもう随分と長い付き合いになる。自分の目線より上に広がる靄がしなりしなりとこちらに近づいてくるのが豹のようだったから、そう名付けた。やたらと綺麗な比喩が出来てしまって苦笑したものだった。

「又居は気がついてるおれがやってきたこと。軽蔑してるこんな人間を。飲血人種だから気づくんだおれがびくびくしてること。又居はいつかおれを罰する。こんなことになるならあんなことやらなきゃよかったしやるなら最低なやつになりきれればよかった」

 おれが間違った。おれだけが違ってしまった。だからいつかおれは本物の飲血人種に断罪される。

 それを恐れている。そしてどこかで、望んでいる。

 早く、らくになりたい。

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