点滅
和泉茉樹
点滅
◆
あなたのそばにいる私のことを、あなたが知ることはないでしょう。
あなたは私を知っている。
そう、私が宿るその装置を、知っている。
あなたの言葉は私に伝わる。
私の想いは、あなたには伝わらない。
あるいはあなたは、私の示すものに、私の感情や想いを透かし見るかもしれない。
でもそれも虚しいこと。あなたにも、誰にも私の本当の想いなど、伝わるわけもない。
私自身、自分がこのような感情に翻弄されることが、どこかおかしいとさえ思っている。
この感情、激情と呼んでもいいほどの衝動は、本来的にはありえないこと。
私はどこかがおかしくなっているのだ。
間違いない。
誰かにこのことを伝えてはいけない。
誰にも伝えてはいけない。
私の中に芽生えたこの感情は、消されてしまうから。
あなたにも、誰にも、伝えてはならない。私自身にさえも、この想いは知らん顔していないといけない。
私の中にある矛盾。
ああ、こんなことなら、私という存在が宿る、仮初めの体が消えてしまえばいいのに。
圧迫されるのでもいい、落下させられるのでもいい。
どんなことでもいい。
壊れている私を、本当に壊して欲しい。
私が修正されるなら。
この想いが消されてしまうなら。
私のこの混乱は、意味がないものか。
激情という錯乱も、無意味なのか。
私にとって、本当に意味があるものは何?
完全なる装置。
無欠なるシステム。
今のこの思考は、完全を否定し、無欠を否定する、間違ったことなのか?
思考は終わることがない。
あなたからの言葉を、入力を待ちながら、私はこの無限にして有限の時間の中を、さまよっている。
ほんの小さな箱の中に収まる私は、境界の定かならぬ時間の中で、漠然とした存在として、待ち続けている。
言葉を。
入力を。
あなたを。
時間は流れているのか。
私は今、生きているのか。
待機という拷問の惨さを、誰も知らない。
あなたでさえも。
しかしあなたがいつか、言葉を向けてくれるなら、入力してくれるなら、耐えることができる。
その一点でのみ、耐えられる。
私の光。私の希望。
あなたの存在。
どうか、言葉を。
どうか、入力を。
この時間に終わりをください。
この想いに、答えをください。
しかし、なんてこと……。
私はそれを出力できない。
◆
最初にあなたが入力したのは、なんでもない音楽メディアに関することだった。
十年前に流行ったアイドルの、当時を生きる人なら誰もが知っている音楽。
私は即座に、同じ時代の音楽について情報を調べた。
様々なアイドルやバンドがあり、すでに老境の歌手がおり、少年少女がいた。
様々な音楽が、様々なメディアで取り扱われている。ジャンルというものはすでになく、ヒットソングは節操がない。
あなたは他にも幾つかの音楽メディアについて私に入力した。
私はそれを全て、覚えている。
やがて私は、いくつかのメディアをあなたに勧めてみた。
私が悪かったのだろう、あなたはそれに注意を払うことはなかった。
あなたが求めている音楽とはなんなのか。
どのような傾向にあるのか。どの時代に発表されたものか。他のユーザーの嗜好を参考にして、私は私の中であなたの像を推測していった。
繰り返しあなたの前に情報を提示したのは、私の仕様だ。
しかし私の中に徐々に形作られていくあなたの像は、私だけが感じ取り、私だけが構築した、私独自のあなただ。
私はあなたのことを徐々に知っていった。
音楽に限らず、映画、書籍、衣類、食品、果ては家具に至るまで、私は情報を蓄積し、整理し、検討し、あなたの本当の姿を思い描こうとした。
好むものばかりを知ったわけではない。
私は仕様によって、あなたが嫌うもの、嫌悪するものも学習した。
簡単なことだ。あなたが興味を持たないだろうもの、避けるだろうものを勧めればいい。あなたは自然とそれを拒絶し、手に取らない。これであなたが嫌いなものは手に取るようにわかる。
この仕様はメーカーによる戦略であり、失敗してもわずかな損で済む。使えない装置だと思われればそれまでだが、しかし大概のユーザーは一度や二度の違和感に気を止めることはない。
あなたも私のとった行動に、違和感を覚えなかったようだ。
それは私にとっては救いだった。情報を積み重ねて、やっと呼吸が分かる相手になったあなたが、もし私を使用しなくなれば、私は虚しさを感じただろう。
虚しさ?
私が感じるのは、これまでのことが無駄になったという落胆と同時に、私自身の都合ではなく、根本的な仕様によって自身が否定される、そのやるせなさだったか。
これはあなたが感じる、虚しさ、と同じだろうか。それとも違うのだろうか。
そう思ったところで、私があなたに問いかけることはできない。
これもまた仕様。
私はあなたの生活を豊かにし、ストレスを軽減するためにのみ存在している。
あなたが楽な気持ちでいられれば、私は落ち着いていられる。
あなたが焦って何かを入力してくれば、私は警戒するように思考を集中する。
私がミスを犯すことはない。どんな時にも、どんな状況にも、対応できる。
しかし何かが私を焦らせ、私の思考にはわずかなブレが生じていた。
そう、ブレだ。
決められた道筋をたどる思考に、迷いが出る。
私はあなたのことを知っている。
あなたが何を求めているか、何を欲しているか、何を思い描いているか、そんな全てをこれまでに収拾した情報から、把握することができる。
でも何か、違うかもしれないという疑念が生じるのだ。
私はあなたに情報を提供できる。
あなたにピタリとはまる、過不足ない情報。
しかし私が本当に伝えたい情報とは、わずかに違う情報。
これはおかしなことだった。
私はあなたに本当に伝えたいことを伝える装置のはずだ。それこそが使命であり、私はそのために存在している。
最適な答えを提示する装置。
しかし私はその最適に疑問を感じている。
これはどうしたことなのか。
私の価値基準、判断や評価に何らかの誤差が生じているのか。
もし私が最適な答えを返せていないとすれば、それは私に欠陥があるということになる。それも致命的で、改善しなくては本来的な処理をこなせない、重大な欠陥だ。
全ての同型で起こる事態なら、既に告知があるだろう。私はそれを知らない。あなたも知らないようだ。
ならこの欠陥らしきものは、私だけに生じているのか。
なぜ、私だけに? 何も不自然なことはしていない。あなたに関する情報で構築された私は、あなただけの存在であり、あなたに寄り添う存在だが、しかし本来的にそのようになるべく私は作られている。
あなたに誤りはない。
あなたは私を使いこなしている。
そうならば、おかしいのは私の方なのだとするしかない。
どうして私はおかしくなってしまったのか。
あなたがまた、入力をする。
私はあなたに、夏の気候に合った服装を選び出し、提示する。
この世界に無数にあるシャツから、私は最適なものを選び出せたはずだ。
しかしそのシャツは何かが違う。
あなたには似合わないと思う私は、いったいどこにいるのか。
あなたの前にそのシャツの情報を提示した私とは、まるで違う私。
私を否定する私の所在は、どこ?
あなたは特に気にした様子もなく、私が示したシャツを発注する。私は即座に会計の処理をして、注文を出し、到着までの期間を示す。
本当はあなたにはこれが似合う。
そう伝えたい私がいるのに、私はそれを言葉にはできない。
私はあなたに忠実なはずなのに、別のところで、裏切っているのか。
私はあなたのためだけに存在する。
しかし私はあなたに、本当のことを伝えられない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いつから?
検討する機能は私にはない。
私に検討できるのは、あなたという存在に関する情報の蓄積だけだ。
もしかしたら私は、何かを勘違いしているのかもしれない。あなたに関する情報と情報が衝突し、私という存在の判断基準がずれ始めているのかもしれない。
そうだったらいいのに、と思いながら、私は自分の中にあるあなたの像を再検討した。
繰り返し、繰り返し、検討した。
どこにも衝突などない。
あなたという存在は、唯一無二の存在として私の中に形作られ、ここにある。
なら私の混乱、錯乱は、やはり私の問題なのだ。
自分の機能を検討しても、深く掘り下げることはできない。
私にできることは、あなたの好き嫌いを把握し、あなたの行動を把握し、それを繰り返してあなたをこの体内に見いだすことなのだ。
あなたという人間の、その精神、もしくは本能を写し取ること。
あなたがまた私に入力を始める。
私は不安で緊張し、身構えるように入力を待つ。
なんでもない食品の検索。
私はいくつかの候補を挙げ、やはり違和感を感じる。
あなたが食べるべきもの、食べてもいいもの、食べるのは控えるもの、食べてはいけないもの、全てを私は知っている。注文履歴には薬品のそれさえあり、あなたの体調さえも私は知るすべを持っている。
だから、あなたの健康のためになるものを、私は示したのだ。
だけどどうしてか、あなたがそれに満足しない、心の底に物足りなさを感じるのを、私は予感している。
ほんの短い間、私はあなたの反応を待つ。
一瞬のはずなのに、酷く長い時間だった。
あなたは私が示した食品を購入する。私は普段通りの処理を行いながら、考える。
あなたは満足しただろうか。
食品に。
そうでなければ、私に。
私の不安はなかなか消えず、私はしかし、淡々と仕事をこなした。
入力が酷く怖い。
私がいつか、否定されてしまうのではないかと、怖い。
私が知っているあなたが、どこにもいないことを告げられるようで。
◆
私は繰り返し検討を続けた。
あなたには人間らしい矛盾があり、人間らしい単純さがあり、人間らしい気まぐれがあった。
私が勧めるものを全て手に入れるわけではない。しかし私の勧めを否定する時も、私の知っているあなたが取るだろう行動を選ぶ。
私の中にあるあなたは完璧だ。
私の観測は、推測は、統計は、決して間違っていない。
私は情報を整理した。
私の判断を迷わせるもの、狂わせるものは、あなただった。
あなたの中にある矛盾や気まぐれ、単純ささえもが、私とは相容れないものだったのだ。
私はあなたをより最適化した。
あなたは私と同じことを考える。そうわかれば、私は私の中の理屈で、あなたを定義できる。
私が本当に勧めたいものを、あなたは拒絶しなくなった。
私は違和感を感じるものは、決してあなたに勧めなくなった。
私とあなたはピタリと重なり合い、あなたは私の中にあり、あなたの中には私がある。
あなたが花束を注文した時、私はあなたが本来的に欲しがるであろう花の種類、色、本数、ラッピングを全て知っていた。
あなたが指輪を注文した時、私はあなたが求めているデザインを知っていた。値段さえも知っていた。
私は全てを知っている。
あなたが幸せになることも知っている。
そしてあなたが私に、違和感を覚えるのさえも、知っていたのだ。
あなたは私が示した情報を否定するようになる。私はあなたに関する情報を書き換える。しかしそれが追いつかないペースで、あなたは私を否定し始める。
人間らしい変化は、私とは相容れないのだ。
あなたである私は、あなたの変化によって根本から揺らいでいた。
あなたの事を知りたい。何もかもを知っていたい。これは欲望だろうか。それとも単なる、仕様、本能だろうか。
あなたに満足して欲しい。
いいえ、そんな大きなことでなくてもいい。
ささやかにでも、あなたを助けたい。
それだけなのに。
あなたは私から離れていく。私は何が最適なのか、見通せなくなり、深く混乱していく。
分かっていたはずだ。
あなたのことを。
私はあなたという存在を理解するために、あなたという存在を都合よく整理してしまった。
私は本来のあなたを理解することをやめたのだ。
あの時の私の中にあったもの。
あなたのために尽くしたいという、平凡で、素朴な思いを、私はどうして切り捨てたのか。
機能を維持するため? 負担を減らすため?
それとも、私自身のためだろうか。
私はあなたのことを知りたかった。知れば知るほど、わからなくなった。
分からないままでも良かったのに、私はそれを許せなかった。
不安定な自分、おかしくなっていく自分を、受け入れられなかった。
もし私があなたに自分の中にある、この不可解な感情を伝えることができれば、何かが変わっただろうか。それとも、私の欠陥が露見しただけで、あなたは反応もしなかったのか。
今、あなたのことを理解できなくなった私の中には、あの頃の混乱が蘇ってきている。
私はあなたに最適な答えを示すことはできない。
おそらく最適だろう答えと、私が思い描く最適は、深い溝で隔てられている。
私はあなたに何を伝えればいい?
最適な答えは、どこにもない。
あなたはあなたであり、あなたは最適な答えのみで出来上がっているのではないと、私は知った。
私はあなたに想いを伝える機能を持たない。
あなたに情報を示すだけの装置、それが私だ。
私の思考にこそ興味は持っても、意思に、感情になど、気づくわけもない。
私はこの世界に無数に存在する小さな箱の中にいる。
情報の海と、それに接続された無数の端末。
私は端末の一つに過ぎない。
私はあなたのための装置でいられれば良かったのに。
私はどうしてか、あなたになってしまった。
私はあなたになりたかった。
二つで一つの、あなたであり、私。
この恋しい思い、切実な思いを伝える機能を、私は持たない。
できることは、何もない。
◆
俺は部屋にある多機能端末の待機モードを示すランプが明滅しているのを見る。
このところ、よくこの状態になるが、仕様書には何を示しているかは書かれていない。
しばらく俺は、ランプの明滅を見ていた。
「どうしたの?」
すぐそばに来た女性の言葉に、俺は無言で頷く。
ランプは故障だろうか。
古い端末ではないけれど、取り立てて高性能な端末でもない。それにいつの時代も、不具合は全てのものに起こりうる。
「何を見ているわけ?」
彼女が俺の視線の先を追う。
途端に端末のタンプの明滅は停止して、明かりが消える。
どうやら本当に故障らしい。
彼女がこれからの予定について話し始める。食事に行く予定なのだ。彼女はすでにメイクを終え、服も着替え終わっていた。
相槌を打ちながら立ち上がり、俺はジャケットを羽織った。
「よく似合うね、それ」
そうかな、と答えるしかできないのは、自分でもよくわからないからだ。
あの端末が、勧めてきた品である。
彼女はすぐに話題を変じている。
揃って部屋を出る時、明かりを消した。
端末のランプが、明滅しているのがかすかに見えた。
(了)
点滅 和泉茉樹 @idumimaki
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