家族のそれから【読み切り】

トゥータタボン小河原

2019年5月

 5月の半ば、母が死んだ。報せはスマホに届いた父からのショートメッセージだった。

「母さんが死んだ。明日通夜、明後日告別式」

あまりに唐突で無感情な文字列に最初は何が起きたのか理解出来なかったが、「亡くなった」ではなく「死んだ」という単刀直入すぎる言葉が父の逼迫した精神状態を想像させ私の胸をギュッと締め付けた。

「分かった。明日の午前中にはそちらに着くようにする」

私は父のメッセージに呼応するかのように極めてシンプルな返事をした。なんだかそれがある種礼儀のように感じられたからだ。すると程なくして返信が来た。

「母さんはコロナで死んだ。お前も気を付けて来い」


 翌日、私は大した荷物も持たず特急列車で東京から故郷の群馬へと向かった。喪服は向こうに置いてある。4年前に曾祖母が亡くなったときに買ったものだ。着ることは東京ではないし、次に着るときはボケが急速に進行している祖母のときだろうと思っていた。

 揺れる電車の中で私は駅の本屋で買った太宰の『人間失格』を読んでいたが、まったく内容が頭に入ってこない。おかしなことに、私は母の死を悲しむよりも先に「祖母は自分の娘の死を悲しむことができるのだろうか」ということばかりを心配していた。

 祖母には4年前のボケが始まったばかりのときに会いに行ったが、そのときでさえ私のことが分からず父が説明して「ああ、久し振りねえ」と嘘か真か分からないような反応をするのみだった。そんな祖母が、私の母、つまりは自らの腹を痛めて産んだ娘の死を果たして理解できるのだろうか。


 本は1ページも進まないまま、無情にも列車は群馬へと着いた。駅から実家へは歩いて10分ほどだ。

 久し振りに帰った故郷だが、足取りは軽くはない。家への一歩一歩が、母の死へと近付いていくことのように感じられ、まるで足に鉛の塊のように重い。「歩く」というより足を上げて前へ出すことを繰り返し、やっとの思いで家へ辿り着いた。

 玄関の扉がぎいと鳴いた。久し振りの実家に「ただいま」と言って良いのかどうか分からず立ち尽くす私のところへ、まるで今来ることが分かっていたかのようにすぐに父がやってきた。

「おかえり」

いつも通りの落ち着いた父の声に、私も自然に「ただいま」と返事をしていた。


「母さんはあっちの部屋にいるよ」

案内されるままに行くと、そこには母が静かに横たわっていた。まるでまだ母が生きているかのような言い方とは裏腹に、母は悪ふざけみたいな量の花に囲まれていた。

 私は思わずいつもの調子で「母さん、ただいま」と声を掛けたが返事はない。台所の冷蔵庫の音だけが遠くから響き、虚しさをより強調していた。

 私は反応を確かめるように母の手を取った。その手の冷たさに驚き、一瞬手を離しそうになったがグッとこらえた。ここにいる、いや、あるのは母ではなく、母だったものなのだ。そう理解したとき、私の眼からは涙が溢れていた。

 現実が私を襲う。泣きじゃくる私の横に、父は声も掛けずにただただ立っていた。久し振りに会う兄、家族や親戚に挨拶をし、その日は終わった。


 翌日の簡素な通夜を経て、翌々日は告別式だ。このご時世だから集まった親戚は少なく、久し振りに会う顔もマスクをしていてよく分からない。社交的だった母は悲しんでいるかもしれない。私がそんなことをぼやくと、父は

「きっとみんなの泣いている顔を見ずに済んで良かったと言ってくれているよ」

と言った。遠く宙空を見つめる父の横顔は、静かに笑みをたたえているようだった。


 ボケが進行している祖母が兄に連れられてやって来た。私は緊張のあまり全身の筋肉がすくみ上り、そして祖母から目が離せなくなってしまった。しかし、ほどなくして目が合ってしまった。

「あら。わざわざご足労ありがとうございます」

他人行儀な祖母の言葉からは悲しみは感じられない。どうやら私のことも、そして誰の葬儀なのかもまだ分からないでいるようだ。祖母は周りをきょろきょろとして落ち着かずにいる。


 式が始まる前、集まった親戚は一つの部屋に集められた。そこで式場のスタッフから説明を聞き、母へ死に装束を着せるのだ。

 着せる人は親交が深かった人から何人か選ばれる。当然祖母もその中にいた。祖母は前日の通夜には来ていたなかった。ここで初めて冷たくなった娘との対面を果たすのだ。私はつばを飲み込み、その様子を遠くから見つめていた。

 棺が開かれる。

「文江!」

祖母は娘の名を叫び、大きな声で泣き出した。気付くと私の頬にも涙が流れていた。この涙が悲しみの涙なのか、はたまた安堵の涙なのかは自分でも分からない。

 遅れてやってきた悲しみに耐えられない祖母は泣くのを止められず、他の人と役割を交代したが、部屋の隅ではずっと祖母の嗚咽が響いていた。


 一通りの儀式が終わった。その間祖母は別室にいて、式場にはいなかったらしい。

 そして、火葬が行われる。母の顔が見られるのは本当にこれで最後になる。私は母の安らかな顔をその目に焼き付けた。

 棺が狭い空間へと押し入れられる。焼き上がるまでは1時間ほどかかるという。永遠のように感じられる1時間、否応が無しに色々なことを考えてしまう。


 これから家族、そして父は一体どうやって過ごしていくのだろうか。家事全般をこなしていた母を失った家族は慣れない日常に四苦八苦するかもしれない。あの昔気質な父が掃除や料理をしている姿、ちょっと見てみたいかもしれないと少し思った。

 でも、母のちょっと味の濃い料理をもう食べられないかと思うと再び涙が溢れて来た。母との旅行だけが趣味だった父はこれからどうするのだろうか。少し落ち着いたら父の好きな山登りに一緒に行ってみるのも良いかもしれない。


 そして、娘を失った祖母はその悲しみをどう受け容れていくのだろうか。もしかしたら数日もすれば祖母は娘の死を忘れてしまうかもしれない。そんな祖母と家族はこれからどうやって接していくのだろうか。


 はたして、東京で暮らす私には一体何が出来るのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、母は白い物質へと変貌し、私達の前に現れた。もう母の顔を見ることは出来ないとはっきりと分からされ、本当にお別れが済んだ気がした。


 翌日、私は東京へと帰ることにしていた。人のいない寂れた駅のホームまで父が付いて来た。少し早めに着き、私と父はずっと無言で地面を見つめていた。

 遠くから列車の音がすると、父は私の眼をじっと見つめて

「こっちのことは心配しなくて良いから、お前も身体に気を付けろよ」

と私の肩をポンと叩いた。列車のドアが開き、私が乗り込むと父は手を差し出してきた。人生で初めて交わした父との握手は、温かくて少し安心感を覚えた。ドアが閉まると父は一所懸命に大きく手を振って見送ってくれた。


 列車が動き始め『人間失格』を鞄から取り出した。窓からふとホームの方を振り返って見ると、帰ろうとする父の背中が見えた。父は少し猫背になっていて、その背中は小さかった。

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