第13話
Chap.13
春花に会えたユマのあまりの喜びように、春花はびっくりし、次いで胸がじんとして、なんだかとても謙虚な気持ちになった。
私なんかに会えてこんなに喜んでくれるなんて。もしかして私が来るかもしれないからって、居間のソファで寝ていたなんて。
こんなふうに誰かに好きになってもらったのは初めてだった。
盛大な歓声とハグの後、ユマは弾む声で言った。
「ね、何時までいられる?」
「六時くらいかな」
「もうちょっといいんじゃない?
暖炉の近くの隅の方に置かせておいてもらっていたスニーカーを履きながら、俊がいたずらっぽく笑う。
「そうだね。じゃあ六時半くらい?」
「だな」
「わあ!じゃ、ボートに乗ろう?私、着替えてくるね」
猛ダッシュで居間を飛び出したユマをうふふと笑って見送る。
「好かれてるなあ」
「女の子のああいうパワーってすごいよね」
俊とリオが感心したように首を振る。
「俊ちゃんもボート乗る?」
「いや、遠慮しとく。お邪魔だろ」
リオがくすくす笑って、
「じゃ、この辺を案内しようか。六時半まであるんなら、町の中心地まで行って帰ってこられる。朝市なんかもあっておもしろいよ」
「ほんとに?時間いいの?」
「もちろん」
俊が春花を見る。
「構わない?」
「もちろん」
リオの真似をして答える。町ならいつかまた見ればいい。もしかしたらユマと一緒に。
着替えたユマが居間に駆け込んできた。鮮やかな赤いパーカーがよく似合っている。
「ママがよろしくって。後で帰る前に会いましょうって」
居間の淡いグレイグリーンのカーテンとフランス窓を開けて外に出ると、外は爽やかな光のきらきらする春の朝だった。四人とも申し合わせたように深呼吸して、清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。
「じゃ、僕たちは町まで行ってくるよ」
リオが言うとユマは、
「そう。じゃあ後でね」
これ以上気にならないことはないというようにあっさりそう言うと、春花の手をとって、
「行こ」
嬉しそうに言って湖のほうへ歩き出したと思う間も無く、
「あ、本!ちょっと待っててね」
家の中へ駆け込んでいった。
「なんだか栗鼠を見てるみたいだ」
リオがくすくす笑う。
「じゃ、ルカ、後で。水に落ちないように気をつけろよ」
「はあい」
庭を横切っていく二人に手を振って見送っていると、綺麗な水色とベージュのタータンチェックのブランケットと薄い本を抱えたユマが戻ってきた。
「お待たせ。スカートじゃ寒いかもしれないからブランケットも持ってきた」
「ありがとう」
よく気がつくなあと感心する。小さな桟橋に向かって歩きながらブランケットを受け取って、春花は傍をスキップするように歩いているユマを見下ろした。
「ユマ、もしかして学級委員とかやってるでしょ」
「うん、もう昔からずっとやってる」
やっぱり。
「しっかり者なんだ」
「そんなこともないけど」
ユマはちょっと照れたように肩をすくめ、
「あ、それからこの本はね、ママが見せてあげてって。潤さんの絵本。出版されたのじゃなくて、大学のクラブ活動みたいので作ったんだって。朗読して聞かせて?」
「了解」
手渡されてみると、確かに出版されたものという感じではない。ソフトカバーで、紙の質もどちらかというとペラペラしているし、印刷もなんというか商品らしくない。絵は水彩らしかった。タイトルは「春のおはなし」。表紙には柔らかいタッチで春の森らしい風景が描かれている。
「そうだ、昨日メラニーに会ったんでしょ?」
ユマがしかめっ面をして言ったので、春花はくすくす笑って、
「あんまり気が合わないんだって?」
「嫌いなの、あの子」
いかにも慣れた動作で春花を手助けして真っ白な小船に乗り込ませながらきっぱり言って、ユマは鼻を鳴らした。
「ものすごい我儘なんだよ。世界中のものはみんな自分のためにあるって思ってるタイプ」
「そうなんだ」
春花は柔らかい肌触りのブランケットを膝の上にかけた。温かい。湖の上を渡ってくる朝の風は明るい日差しの中でもまだ少し冷たく感じられて、ユマの心遣いに感謝する。
「悪口言いたいわけじゃないけど、」
見事な手際でオールを操ってスムーズに小船を漕ぎ出しながら、ユマは少し気がかりそうに春花を見やった。
「あの子、もしかして俊に手を出すかもしれない。だから忠告したくて」
胸の奥に、何かチリッと不快な感じがあったけれど、春花はとりあえず微笑んでみせた。
「ありがとう。でも、俊ちゃんは恋人とかじゃなくて幼馴染だから」
ユマは気がかりそうな表情を崩さなかった。
「うん…。でも、あの子がアリにベタベタくっついてた時、私すごく嫌な気持ちがしたんだ。アリは私の恋人なんかじゃなくてお兄ちゃんだし、私、別にアリにべったり、っていうんじゃ全然ないんだけど、でも、なんていうのかな、あの子、アリを独占しようとしたから…だから嫌だったんだと思うんだ」
整然としたフォームで漕ぎながらユマは続けた。
「最初はね、私、自分が変に嫉妬深いんじゃないかと思ったの。そんなの嫌だから、自分で色々考えてみて、自分の気持ちを客観的に分析してみたり、メラニーのやることとか言うこととかもできるだけ冷静に観察したりして、それで仮説を立てたの。こんなに嫌な気持ちになるのは、私が嫉妬深いからじゃなくて、メラニーがアリを独占しようとしてるから、他の誰ともアリをシェアしようとしないからだろう、って」
ユマのあどけなさの残る丸い唇から、客観的だの分析だの仮説だのという言葉が飛び出したので、春花はちょっと驚いた。
「そしたらそのうちアリの恋人っていう比較対象ができて、私の仮説が正しかったことは証明された。だってアリの恋人——セシルっていうんだけど——に対しては、私、全然嫌な気持ちにならなかったんだもの。セシルは、アリを私やママから引き離そうとしなかったし、私たちを敵視したりしなかったし、アリを自分一人のものにしようとしなかった。だから私もセシルのこと嫌だと思わなかったんだと思うんだ」
淡々と語られた解説に思わず聴き入ってしまって、春花はほうっとため息をついた。
「…そっか…。なるほどね…」
ユマはにこりとして、
「だからね、一応忠告」
「ありがとう」
頷いて、少し迷った後春花は口を開いた。
「メラニーは…俊ちゃんに興味があるみたいだった。『今度あなたのこと色々聞かせて』って言ってたし…」
ユマは不快そうに鼻に皺を寄せた。
「やっぱり。俊は恋人いないの?」
「いない、と思う」
「うーん、アンカーなしか…。ちょっと危ないかも」
「アンカー?」
リレー?
「錨のこと」
「ああ…なるほど…つなぎとめる錨、ね」
妙に感心する。ユマって…とても年下とは思えない。
ユマはさらに年下とは思えない大人びた様子でちょっと肩をすくめると、
「でもまあ、俊の好みっていうものもあるからね。メラニーがいくら気を引こうとしたって、洟も引っ掛けないかもしれないし」
と笑った。
「そうだよね」
春花も笑ってみせた。俊がメラニーのことを美人だと言っていたことやメラニーに同情していたことは、なぜか口にできなかった。
ボートは滑らかにすいすい進んで、ひんやりした清々しい風が額や頬を撫でていく。思わず目を閉じて顔を上げる。目を閉じても、朝のまだそれほど強くない太陽の光と、湖のきらめきが感じられる。
「気持ちいい…」
「でしょ!」
「本当に上手ね、漕ぐの。すごいなあ」
「春花だってすぐ漕げるようになるよ。でも今日のところはやめておいた方がいいかな。やっぱりスカートだとちょっとやりにくいと思うから」
「そうだね。じゃ、朗読といきますか」
「待ってました!」
そう言ってユマはオールを漕ぐ手を止め、さもわくわくするというように膝の上に両腕で頬杖をついた。
春花は水飛沫がかからないようにブランケットの間に入れておいた絵本を取り出し、そっと表紙をめくった。
初めて読む本をゆっくりと朗読するのはとても好きだ。初めて目にする物語の言葉たちを丁寧に音にしていくとき、何かが——気配のような、魂のようなものが——本から立ち上るような感じがするのだ。
それは、子供向けの童話というよりは、もう少し詩的な、春の森のあちこちで起こっている出来事や会話をいくつか書いたスケッチのようなものだった。
ご近所さんの栗鼠同士の会話。久しぶりに他の森から親戚を訪ねてきた小鳥の一家の話。山桜の花びらを集めて糸を紡いで布を織る蜘蛛のおばあさんの話。森の奥に湧く泉の伝説。春風と蝶々たちの会話。
そして最後に、木とその根元に咲く花の会話があった。その中に、こんな箇所があった。
「…木は、ほほえんで花にいいました。『ぼくは大きいからね。だからいつもきみを守ってあげる。嵐のときでも、ぼくの足元に咲いていれば、だいじょうぶだよ。』花は、心配そうに木を見上げました。『でもそれではあなたがぬれてしまうでしょう。かぜをひいてしまわない?』木は、むねをはって元気よくこたえました。『ぼくは大きな木だもの。ぬれたってどうってことないよ。』…」
最後まで読み終わって本を閉じた春花は、なんだかぼうっとしてしまった。
「ブラヴィッシマ!」
ユマは頬を紅潮させて夢中になって手を叩いた。
「すっごい上手!お話に引き込まれちゃった。こんな気持ちになったの初めて!」
「…ありがとう」
ストレートな賞賛が嬉しくて微笑んだけれど、ユマはすぐに春花の様子に気がついたようだった。
「…どうしたの?」
「うん…」
膝の毛布の上に置いた本の裏表紙をそっと撫でる。端の方に、さっきの木と花が描かれている。
「最後の木と花のお話。あの会話の一部がね、ハルと私が小さい時に交わした会話とそっくりで…。ハルも言ったの。僕は木でルカは花で、僕は大きいからルカを守ってあげる。嵐が来ても僕の根元に咲いてれば大丈夫、って。私が、でもハルが濡れちゃうじゃない、って言ったら、僕は男の子だし木だから…大きいし強いから大丈夫、って」
「……そうなんだ」
「この絵本、私は見るの初めてだけど…。家にもあったのかな。ハルは小さい時にこの絵本を読んだのかな…それとも…」
それとも偶然?
でも偶然にしてはぴったりしすぎているような気がする。もちろん、ここに書かれていた会話のほんの一部分にしかすぎないけれど、でも…。
知ることはできない。ハルに訊くことはできない。
——僕の根元に咲いてれば、嵐が来ても大丈夫だよ。
不意に、嵐の中、独りぼっちで縮こまっている花の絵が頭に浮かんだ。
木がいなくなっちゃって、花はこれからどうなっちゃうんだろう…。
顔を上げると、ユマが同情溢れる目でじっと春花を見つめていた。青空のような目が潤んで、湖の水面のようにきらきらしている。
「春花…お兄さんに会えなくて寂しい?」
真っ直ぐに訊かれて素直に「うん」と頷いたら、涙が出た。本が濡れてしまわないように、慌てて指先で拭う。
会いたくて会いたくてたまらない。ハル。
急に声を上げて泣きたい衝動が大波のように押し寄せて、春花は渾身の力を込めてその波を押さえ込もうとした。息を止める。ユマが静かに動いて船底に膝をつき、絵本の上できつく握りしめた春花の拳をそっと両手で包んだ。
「泣いていいよ。我慢しないで」
こちらを見上げるユマの思いやり深い眼差しを見たら、膨れ上がった心をぎりぎりと締め付けていた鎖が、音を立てて弾け飛んでしまった。
太陽が上るにつれて湖は輝きを増し、春花は鼻をかみながら目を細めた。規則正しいオールの音。水の音。泣いた後の上気した顔を撫でていく風がさっきよりも柔らかく感じられる。
ユマは春花から目を逸らすようにしてゆっくりとボートを漕いでいたけれど、春花が名前を呼ぶと目を上げた。オールを漕ぐ手を止める。
「ありがとう」
春花は心からお礼を言った。
「思い切り泣けて、ずいぶん楽になったみたい」
本当だった。
泣くのを我慢したり、「こんなふうに泣いてちゃいけない」と頑張って途中で泣くのをやめたりすると、胸とお腹の間の奥深くが気味悪く振動し続ける。今回はそれがない。
「よかった」
ユマがちょっと眩しそうな目をして微笑んだ。
「私ね、水の上にいる時って陸の上にいる時よりも楽に泣けるような気がするんだ。どうしてだかわからないけど、水の上にいる時の方が、自分の『泣きたい』って気持ちに正直になれるような気がするの」
静かに輝く青い湖を見渡して続ける。
「去年ママとパパが離婚した時、やっぱりね、ちょっと辛かった時期があったんだ。ママのこともちろん大好きだけど、でもパパのことだって私、大大大好きだったから」
ふふっと大人びた様子で肩をすくめる。
「離婚の前にまず別居ってことになって、ママとアリと私でここに引っ越してきて…。あの頃はこのボートの上でいっぱい泣いた」
「…そう」
春花は思わず涙ぐんだ。今より少し小さなユマが、湖の上の白い小舟の上で独り膝を抱えて泣いているのが見えたような気がした。
「…今はもう大丈夫?」
「うん、今はもうね、ちょっと諦められるようになったかな」
ユマは頬杖をついて小さくため息をついた。
「パパはね、他の女の人のことが好きになって、ママやアリや私よりも、その人と一緒にいるほうを選んだの。私やアリは関係ない、確かにママよりもその人の方を好きになったけど、でも私やアリよりもっていうわけじゃない、ってパパもママも言ったけど、そんなのきれいごとでしょ。事実は事実。私やアリの方がその人より大事だったら、その人のところに行ったりしないはずだもの。パパは私とアリよりその人の方が好きだから、その人の方を選んだんだよ」
きっぱりと言い放って、ユマは唇の両端をきゅっと上げてみせた。
「今でも許せないって思ってるし、怒ってるし、悲しいし、その女の人のことだって大っ嫌い。でも、『仕方ないな』って思えるようになってきたのも本当。怒ったって泣いたってどうしようもないし、パパはもう私のパパじゃないんだ、もうパパはいないんだ、仕方ない、諦めよう、って」
「…ユマのお父さんであることに変わりはないよ」
春花がそっと言うと、ユマは首を振った。
「ううん。もう私のパパじゃない。別の女の子のパパだもの。こないだ、赤ちゃんが生まれたんだ…」
口元には気強く笑みを浮かべたままだったけれど、ユマの空色の瞳は見る見る涙でいっぱいになった。
春花からティッシュを受け取って、ユマは濡れた目でおどけたように笑ってみせた。
「ほらね?ボートの上だと泣いちゃう。いつもはこんな泣き虫じゃないんだよ」
春花はきらきら光る青い水面を目を細めて見つめた。水がボートと戯れるかすかな音。
「湖の水たちがね、涙に『大丈夫だよ、出ておいで』って言ってるのかもね。『僕たちが受け止めるから、安心して出ておいで』って」
春花がそう言うと、ユマは目を丸くし、次いで小さく「わお」と言って微笑んだ。
「それいいな!すごい素敵」
うふふと笑って、
「さすが潤さんの娘。春花は物語書かないの?」
「ううん。朗読の方が好き」
ユマはうんうんと何度も頷いた。
「すごいよ。学校の先生だってあんなふうに読めないもの。うちのクラスにもいつも先生に朗読を褒められる子がいるの。すごく大袈裟に抑揚つけて読むし、セリフとかも感情がこもってて、確かにうまいとは思うけど、でもなんていうか、聴いててこっちが恥ずかしくなっちゃう感じ。でも春花のは全然違った。静かで、すごく気持ちのいい声で、聴いてるうちにいつの間にかお話の世界の中に入っちゃってた。将来、朗読家…っていうの?そういうのになりたい?」
春花は目をぱちくりさせた。
「朗読家ねえ……。そんなこと、考えたこともなかったけど…」
ユマがおかしそうに笑って膝の上に頬杖をつく。
「ねえ、春花ってね、お姫様みたい」
「え」
「なんていうか、ふんわり生きてるの。あれがしたいとかこれになりたいとかあんまり考えないで」
「ふんわり…」
確かに、将来何になりたいかなんて、真剣に考えたことは一度もない。
将来の夢は、と聞かれると、小さい頃はお花屋さんと答え、小学校高学年くらいからは植物関係の仕事と答えていたけれど、それだって本当にそうなりたいと思っているわけではなかった。うんと小さい頃に春樹に、
「ルカは、お花屋さんになったらいいよ」
と言われて、そのままそういうことにしていただけだ。
「ユマは?将来レガッタの選手になりたい?」
「今だって選手だもん」
ユマはちょっと胸を張って笑ってみせた。
「なりたいのはね、ただの選手じゃなくて、一番速い選手!どんな大会でも絶対に勝てる、無敵の漕ぎ手になりたいの!」
「そっか…」
きらきら光る湖を背景に頬を紅潮させて拳を握りしめたユマは、煌めく水よりももっと眩しかった。昨日と同じような思いが込み上げる。いいな、私もこんなふうに何かに夢中になってみたい。こんなふうに何かを好きになってみたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます