ウド探偵事務所の日報

辻窪 令斗

誰からの手紙?(前編)

「所長、所長!」

 アルバイトの添田野乃花そえだののかは、少し怒っている口調で言った。彼女は白い布を頭に巻き、掃除用のワイパーを片手に持っている。

 夏の暑さが猛威を振るう午前十一時。エアコンの利いた一室。所長と呼ばれた男は、机に突っ伏して寝ていた。

「んー……もう昼か?」寝ぼけながら、自分を呼ぶ声の主に返事をする。

「もう昼か、じゃないですよ!仕事中でしょ?もっとシャキッとしてください!」

「そう言ったってなぁ……依頼も全然来ねえし」男はぼりぼりと頭をいた。伸びっぱなしの黒い髪は、もじゃもじゃして肩までかかっている。眼鏡をかけ、あごひげを触りながらつぶやく。

「野乃花ちゃんも、掃除とか適当でいいから……ってか、今日は帰っていいよ」

「なんで私を雇った!?」

「いやあ、探偵事務所たるもの一人くらいは助手がいないと、と思ってな」

「雑用以外の仕事なんてしたことありませんけど!?」野乃花は目を吊り上げて叫んだ。

 彼女は大学一年生だ。夏休みに何かアルバイトをしようとチラシを眺めていたところ、この事務所の求人を見つけたのだった。

 駅から徒歩五分、四階建ての雑居ビルの二階。一階に入っている喫茶店のこじゃれた雰囲気とは対照的に、無機質な階段、扉、室内。そこにいたのが、眼前にいる男、宇土進うどすすむだ。

 履歴書を渡すと、進は頭を掻きながら「はい、OK」と言って、そのまま採用に至った。えっ、えっ、と困惑している彼女をよそに、彼は事務所について簡単に話した。といっても、部屋の配置や勤務時間の確認といった些細ささいな説明だけで、探偵事務所が具体的にどんな仕事をしているのかは一切知らされなかった。

 それ以降、この事務所に来てはただ掃除をする、という毎日を繰り返している。

 進は腕時計をちらりと見た。

「少し早いが、昼飯にするか」

「はあ!?」野乃花は不機嫌のままだ。

「君に掃除以外の仕事を与えよう。お湯を沸かしてくれ」

 野乃花は手に持っていたワイパーを進の頭に振り下ろしたくなった。


 ピンポン、という音がした。

「え?」野乃花が驚いて玄関の方を向いた。

 進は小さく舌打ちをする。

「こんな時間にお客様か」

 営業中なんだからこんな時間も何もないだろう、と野乃花は心の中でつぶやいた。

「ほら、受付の仕事だよ」

「え、でも…」

「応接間に案内して、お茶を淹れる。俺はひげ剃ってくるわ」

 野乃花にそう言い残すと、進は奥の洗面所に向かった。

 彼女は扉を開ける。一人の年老いた女性が立っていた。

「すみませんねえ、突然お邪魔して」女性は気弱そうに言った。

「い、いえ。とりあえず、中にどうぞ」野乃花は女性を応接間に通す。

「あなたが探偵さん?ずいぶんお若いのね」

「いえ、私はアルバイトです。所長はもうすぐ出てくると……」

 野乃花が言い終わる前に、進が洗面所から出てきた。もじゃもじゃの髪は束ねてゴムで留めている。

「お待たせしてすみません。私が所長の宇土です」

「あら、すみませんねえ」女性は手を前に重ね、お辞儀をした。

「それで、どういった用件ですか?」進は女性に向かって座り、早速話を進めようとする。先ほどまでのぐうたらな進とは違った。野乃花が二人分のお茶を持ってきた。

「いえね、こんなこと、探偵さんに頼んでいいか分からないんだけど」と前置きをして、女性が話し始めた。

「人を探しているの」


「先週の朝、郵便受けにこの手紙が入っていたの」

 依頼人である高齢の女性が、封筒と数枚の紙切れを鞄から取り出した。

「差出人が書いていないのだけれど、私の故郷のことや、学生時代のこと、結婚から今に至るまで、色々書いてあってねえ」

「ふむ」進はその手紙を持ち、読みながら相槌あいづちを打った。

「あのー……それって、どういうことですか?」野乃花が口を挟んだ。進がちらりと彼女の方を見る。

「まあ、君もそこに座りなさい。一人だけ立っていても変だろう」

「あ、はい」応接間の横にパイプ椅子を持ってきて座る。

「手紙には、旧友との昔話のようなことが書かれていますね。心当たりはないですか?」

「ええ、私は故郷を離れて長いから、昔の友達とはずっと疎遠そえんでね……」

「もしかして、ストーカー?」野乃花が手を口に当てて言う。

「こら、めったなことを言うんじゃない」進がたしなめた。野乃花は口にチャックをする仕草をしてうなずいた。

「そうすると、用件っていうのは、この手紙の差出人を探してほしい、ということですね?」

「ええ。ごめんなさいね、お忙しいだろうに」女性が申し訳なさそうに言う。どう見ても閑古鳥が鳴いているこの事務所のどこが忙しそうに見えたのだろう、と野乃花は思った。

「いえ。ただ、手がかりがこうも少ないと、何から探していいか分かりませんね」進は苦笑した。

「気になったこととか、最近変わったこととか、ありますか?」

「そうねぇ……」依頼人は目線を上にやり、考えている。

「そういえば、ご主人はどうされているのですか?」立て続けに進が聞いた。

「主人は、昨年がんで亡くなりましてねえ」女性は前を見て穏やかに、ただ少し寂しそうに言った。

「主人の葬儀に来てくれた親戚とも、私はそんなに仲良しではなかったから、あまりお話ができませんでした」

「あなたのご家族は、他には誰が?」

「息子が一人いますけれど、都会で働いていますから。今は私一人で住んでいます」

「なるほど。息子さんには、この手紙の話はしたんですか?」

「ええ。だけど、息子は知らないって」

「ふうむ……」

 進は考え込む。野乃花は探偵事務所で働き出して初めてとなる依頼を、どきどきしながら聞いていた。

 しばらく沈黙が続いたが、依頼人の女性がぽつりと言った。

「このお手紙の主は、私のことをとてもよく知っているの。誰なんだろうって。きっと、私と友達になれるんじゃないかって思って」女性は下を向いた。

「分かりました。依頼をお受けします」進ははっきり言った。依頼人が顔を上げる。

「可能な限りお調べして、必ず探し出します。何か分かりましたら、連絡しますね」

 そう言うと、進は微笑んだ。

「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」女性も少し笑顔を見せ、頭を下げた。



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