電線サル

北見崇史

電線サル

「あんちゃん、あんちゃん」

「あずみ、休むな。とにかく走れ」

「あんちゃん」

 年のころ十五くらいの少年が、十歳にも満たない少女を叱咤していた。休むな走り続けろと叫び、人の気配がない廃墟の街中を、必死になって走っていた。

「あんちゃん、きたよー、きたよー」

 手を引かれて走りながら、少女は何度も後ろを振り返った。薄雲が伸ばされた朱色の夕焼け空を見上げながら、キャンキャンと子犬のように吠えていた。 

「くっそー。しつこいぞ、クソサルめ」

 兄妹のやや後方上、いたるところに張り巡らせた電線に、数匹のサルがぶら下がっていた。異様とも思えるほどの長い両手で電線を掴み、だらしなく突き出したぼっこりお腹を見せながら、空中を伝っている。「キョエーキョエー」と、うるさく吠えていた。

 それらの存在は不吉で危険、致命的であった。

 サルは電線にぶら下がりながら、眼下の獲物を物色していた。ちょっとでもスキを見せると、すぐさま電柱を伝って降りてきて、化け物じみた腕力で弱った肉を捕まえる。そして上まで持っていくと、電線にぶら下がりながら喰うのだった。

「さっきの人は」

「あの婆さんは喰われた。おまえも見てただろう」

 トラックが横転していた交差点で、老婆がサルに捕まってしまった。兄妹に、ここから去るように警告した矢先だった。すぐに上に連れていかれ、生きたまま毟られ喰われてしまった。

「あんちゃん、つかれた。休みたい」

「ダメだ。あいつらは獲物が弱ったと見るや襲ってくる。止まるな、殺されたいのか。生きたまま喰われてしまうぞ。走れ、走れ」

 サボろうとする妹を、兄は手厳しく促す。ぐいぐいと手を引っぱり、女の子の足がもつれて転ぼうが、コンクリートの瓦礫にくるぶしをぶつけようが、お構いなしだ。

「いたいよう、あんちゃーん」

 土埃で汚れた足首から血が出ていた。女の子は兄の躊躇いを誘う目線を流した。少年はやむなく立ち止まり、出血した部分に布っ切れを巻いて応急処置とした。 

「ほら、あんちゃんの背中にのれ」

「うん」

 妹をおんぶした時だった。なにかが、すぐそばで弾けた。 

「うわっ」

 少年の足元に落ちてきたのは、人の頭部だった。それがコンクリートの瓦礫にぶち当たり、まるでスイカ割りをしたかのように砕けた。

 見上げると、真上の電線にサルがいた。キョエーキョエーと甲高く啼き、サルにしては分不相応なほど長い腕でぶら下がっている。さく裂した人間の生首は、先ほどの老女であった。

「くっそう」

 少年は走り出した。妹の両足をしっかりと抱え、できうる限りの全速力で瓦礫だらけの街を疾駆する。

 サルは、電線にぶら下がりながら追いかけてきた。ときどき奇怪な声で啼き続け、逃げるものの心理を恐慌状態にしている。

「あんちゃん、あんちゃん、あんちゃん」

「わかってる、わかってるって」

 あらゆるものが崩壊したこの街だが、電線と電柱だけは、その堅牢さを保持していた。林立するコンクリートの柱に張り巡らされた電線は、空を縦横無尽に、狂ったように張り巡らされていた。蜘蛛の巣よりも、濃密なネットとなっていた。 

「あんちゃん、くさいよう」

「なに」

 少女の肩に、べったりと汚いものがついていた。

「クソだ。あんにゃろう、クソを投げやがったな」

 臭い臭いと背中が泣くので、いったん止まって妹を下ろした。すかさず上を見ると、サルがキョワキョワと叫びながら電線を行ったり来たりしている。

「ここなら降りてこれないだろう」

 そこは電柱と電柱の中間部分で、上から降りてくる足場がなかった。それでも警戒しながら、妹の肩にある不浄物を取り除こうとする。

「うわあ、指だ」

 糞の中に未消化の指があった。骨がむきだしとなったそれには指輪がくっ付いている。

「あんちゃん、くさいから、早くとってえ」

「人を喰ってるから、死ぬほど臭いんだ」

 ねっとりとして柔らかい茶色を、少年はムキになって擦り落とす。大方はぬぐい取ったが、服の生地にしみ込んだ分は無理だった。

「臭いけどガマンしろ。あとで洗ってやるから」

「あんちゃん、シカだよ」

 二十メートルほど先にシカがいた。木々が枯れ果てた森に見切りをつけ、いくばくかの雑草が点在する街に希望を見出してきたのだ。 

「やっぱり山を下りていたか。いくら探してもいないはずだ」

 少年と少女は、この街から遠く離れた山間部で狩りをして暮らしていたが、シカやイノシシはおろか、ウサギやリスといった小動物までいなくなってしまった。食料を求めて街へとやってきたが、電線を行き来する狂暴なサルに追い立てられていた。

 シカは、電柱と地面が接している部分に生えたタンポポをむさぼっていた。痩せてあばら骨が浮き出た身体で、警戒心など忘れてムシャムシャと口を動かしている。

「キョエーキョエー」と狂ったように叫びながら、頭上のサルが電線を伝わっていく。自分たちから離れていくのでホッとしていたが、次の光景を目撃して、兄妹の背中に戦慄が走った。

 電線を伝ってその電柱までやってきたサルは、体勢を逆さまにすると、あっという間に降りた。シカの頭部にしがみつき、すかさず齧りつくと、鮫歯のような犬歯で頭蓋骨をかみ砕いた。

 真っ赤な眼をギラギラさせながら、電柱を逆さになって登ってゆく。獲物をがっちりと咥えているさまは、とてもサルには見えない。別の惑星に生息する未知の肉食獣みたいだった。

 電柱を登りきったサルは、足場のある場所ではなくて、再び電線にぶら下がった。片手で獲物と自重を支え、もう一方の手でシカを持っていた。凶悪な歯と一本の手を使って、血肉をまき散らすように喰っていた。

「ほら、あんたたち。いまのうちだよ。こっちにいらっしゃい。早く早く」

 倒れた自動販売機の陰から、誰かが呼び掛けていた。

兄は上を見る。サルがシカをバラバラに引き裂きながら喰っている最中を確認してから、妹を背負って、ぱっと走り出した。。

「キョエンキョエン」と頭上がうるさい。殺気を感じた少年が急ブレーキをかけて、咄嗟に身を屈めた。

 どしゃっと降ってきたのは、デタラメに喰い散らかったシカの死体だった。大きなコンクリート片の角に当たり、さらにくちゃくちゃになった。 

 猛烈な勢いでサルが接近している。兄妹は電柱のすぐ脇にいた。

「そんなとこにいたら、あいつに捕まるぞ。走れ」

 サルは例のごとく逆さになりながら、素早く電柱を降りてきた。地上に近づくと、鬼蜘蛛のように長い手を、ブンっと振って兄妹を捕まえようとした。

「うわっ」

 少年は寸前のところでかわすことができたが、背中におぶさっている少女は違った。

「ぎゃあー、あんちゃん」

 髪の毛を掴まれてしまった。千馬力ある重機のごとく、もの凄い力で引っぱってくる。少女の髪の毛が、その柔らかな頭皮ごと引き千切られようとしたが、とっさに兄がナイフを振って妹の髪の毛を切った。

 髪が半分ほどになった当人はわんわんと泣くが、少年はそれどころではない。あの毛むくじゃらの長腕に取り込まれたら最後なのだ。さっきのシカのように、絡め取られたうえに空中でバラバラに引き裂かれてしまう。

 だから、とにかく走った。うわあ、うわあ、と喚きながら、倒れた自販機までやってきた。

「あんたら、この辺じゃあ、見かけない顔だね」

 兄妹を迎えたのは中年の女性だ。みすぼらし身なりで、指の先が露出した軍手で、少年の肩に触れた。

「山から下りてきたんだ。森がダメになって、獲物がいないから食うもんがない」

「ここだって同じさ。しかもさ、電線のあいつらに狙われるから、おちおち外を歩けやしない」

 年のわりに白くなった頭髪には、シラミが存分にたかっていて、それらは目視できるほどに大きかった。珍しいものを見るように、少女が蠢くそれらを見ていた。

「いったい、あのサルはなんなんだ。この街にきてからずっとつけてきやがる。しつこいったらありゃしねえ」

「さあねえ。研究所で飼育していた実験用だとか、なんかの毒で狂暴になっちまったとか、いろんな噂があるけどさ、とにかく人喰いの化け物だってことだよ」

 この場に留まるのは危険だからと、女は腰をかがめて歩き出した。兄妹も同じ姿勢で後に続く。

 サルの叫びがひっきりなしに聞こえてくる。切迫感が尻を蹴飛ばすので、上が気になって仕方がない。小走りに進みながら、少年はいろいろと質問する。

「山には、もう誰もいない。ここにはどれくらいの人がいるんだよ」

「多くはないよ。飢えて死んだり、病気で死んだり、あの電線サルに捕まって喰われちまったりでね」

「この街は、なんだってこんなに電線があるんだ」

「あんたら、ずっと山の中にいたのかいな」

「そうだよ」

 なにがうれしいのか、女はケタケタ笑いながら話していた。

「地球がぶっ壊れて、どこもかしこも滅茶苦茶になったからね。電気がないから生活がままならなかったんだよ。この街は発電所が無事で、電気が使えたんだ。そしたら、どこからか生き残ったやつらが集まって来て、電気を使おうとして、勝手に電線を網の目のように張り巡らされたわけさ。それもずいぶん昔のことだよ」

 話しながらも、女は止まる様子がなかった。

「どこに行くんだ」

「とりあえず、安全なとこだよ。少しだけども、食い物があるんだ。あんたら腹すいてるだろう」

 少年は、初対面の相手を信用してよいのか迷っていた。このまま離れたほうがいいのかと考えたが、サルにしつこく追いかけられて腹がへっているし、ゆっくりと休みたかった。妹は泣きそうな顔で、あんちゃんあんちゃんと言っている。

「来るのか来ないのかい、はっきりしなよ。お腹すいてるんだろう。食べれるときに、食べたほうがいいよ」

「食い物があるのか」

「肉があるよ。まだ腐っちゃいないから、腹いっぱい食べさせてあげる」

「わかった、ありがとう」彼女の隠れ家に行くことになった。

 妹は喜び、「お肉が食べたい」としきりに言っていた。三人は瓦礫だらけの地面を這うようにして進んだ。

 頭上では、数匹のサルが電線を忙しく伝っている。ときどき不気味な叫びを発しながら、小便をたれたり糞を落としたりしていた。女と兄妹は、いつの間にか這いつくばっていた。

「ばか、上を見るんじゃないよ。あいつらは、人の視線に反応するんだから」

「いつのまにか増えてるぞ。どこから来たんだ」

「ああ、そうだよ。うじゃうじゃいるさ。上から人を捕まえて喰ってるから、増えて増えて、ここいらは、あいつらでいっぱいだよ」

 女は瓦礫からトタン屋根の破片をとって、それを頭に当てていた。視線を投げかけないどころか、それでサルから睨みつけられないようにするためだ

「おばさん、鉄板で頭を隠したって意味ないだろう。身体は丸わかりなんだから」

「そんなことないよ。さっきも言ったけど、あいつらは人の目を見て襲ってくるんだ。目の奥にある美味しそうな汁を、ちゅるちゅると吸いたくて仕方ないのさ」

 四つん這いになりながら前進していた少年は、やはり傍に落ちていたトタン屋根の破片を拾った。二枚あるうちの大きいほうを後ろにいる妹に、小さいほうを自分のオデコの前に掲げた。

「あいつらは電線伝いにすばしっこいが、地面に降りてくればぜんぜんダメさ。足がなまっちまってるから、ロクに歩けやしない。よちよちの赤ん坊のほうがまだマシさ」

 いい情報だと思った。もしもの時は、電線のない場所まで誘い込んで、地上に降りてきたところを嬲り殺せばいいと、山の狩人である少年は皮算用する。

「あんた、電線のないところで殺せばいいと思ってるだろう」

 だが中年女は、そんな経験不足の少年の楽観を見抜いた。

「この街は電線だらけさ。たまにちょっとした空き地があるだけで、どこに行ってもあいつらの縄張りだよ」

「だったら、どこに行くんだ。どこでも捕まるんだろう」

 少年のやや不機嫌がかった問いに、中年の女は尻をフリフリ振って答えた。

「建物の中さ。いくらバカ力なサルでもこじ開けられない頑丈な鉄ドアがあるからね。そこが、私たちのネグラなんだよ」

「おばさんのほかに誰かいるのか」

「まあね。さすがにね、私一人じゃ生きていけないよ」

 話は、そこで一区切りした。女の四つん這いが速くなった。慣れない歩き方でとても難儀していたが、兄妹は必死になって追従した。

「ほら、あそこだよ」

 先導者が指し示す先には、鉄筋コンクリートの建物があった。もちろん、周囲のビル同様たいがいに崩れ果ててはいるが、そこだけは損壊具合が多少ゆるかった。

「あんたら、早く来な。上のサルに気づかれるんじゃないよ。見上げたら、喰われるからね」

 少年少女は、女の言う通り上を見ないで這い進む。トタン屋根の破片を、しっかりと頭にくっ付けていた。

「ここはね、銀行だったんだよ。お金がたくさんあったんだ」

 瓦礫の隙間から中へと入った。銀行の内部は滅茶苦茶に荒れていて、汚れと埃がひどく、くつろげる状態ではなかった。天井も、ところどころ崩れて大穴が開き、空と電線が見えている。

「あんちゃん」

 ゆっくりと休める場所だと期待していた少女は、兄の名を呼ぶことで不満であるとの意思を示した。

「汚いなあ。荒れ放題じゃないか」

 ガラスの破片や死んだネズミや鳥、虫ケラの死骸だらけで、床に腰を下ろそうとする気持ちが萎えていた。

「ここじゃないよ。奥にね、とっておきの部屋があるんだ」

 もったいぶった感じで言うと、中年女は立って歩き出した。兄妹もつられて起立するが、トタン屋根の破片は頭にくっ付けたままだ。

「金庫室だよ。すごく頑丈な部屋だから、この扉を閉めたら誰も入ってこれないんだ」

「誰もって、あのサルでもか」

「サルでも幽霊でもなんでもだよ。ここに入っていれば、ぐっすりと寝れるんだ」

 女の顔が、ニヤリとする。

「あんちゃんっ」少女の声が期待でうわずる。

「ほらほら、入んな。食い物もいっぱいあるからねえ」

 頭にかざしていたトタン屋根の破片を放り投げて、少女は走る。兄妹は二日間なにも口にしていない。錆びついてはいるが巨大な鉄扉の向こうから、確固とした香ばしさが漂ってきた。程よく肉が焼けたニオイで、それはどうしようもなく食欲を刺激した。警戒心など、ふっ飛ぶほどの引力である。

 妹に続いて、少年も金庫室に入った。元は大きな銀行だったようで広かった。ただし、先に入った少女は圧倒されていた。広さにではない。

「ぎゃっ、なんだこれは」

 焼けたニオイが充満する部屋のあちこちに、肉の塊がぶら下がっていた。バラバラになった足や腕、どこの部位だかわからない肉が、鈎状の針金によって天井から吊り下げられていた。どの肉も切り口が黄色い脂身だらけで、脂の汁が床に滴っていた。

「あん、」

 少女の言葉が詰まる。幼いながらも、目の前にぶら下がっているモノが、どれほど穢れているのかを理解していた。

「人だ、人の肉だ」

 吊るされていたのは人肉であった。部屋の真ん中に一斗缶があり、少しばかりの煙を出していた。人間の身体を解体し、この部屋で燻しているのだ。

「おい、これはどういうことだ。俺たちは人喰いじゃないぞ」

「あんたらが人喰いじゃないのはわかっているさ」

 いつの間にか、金庫室の入り口に人が集まっていた。人数にして六人、全員がボロをまとったおばさん連中だ。

「あたしたちが人喰いなんだよ」

 ウヒヒと、出刃包丁を持った女が笑う。上下とも歯の偶数列が欠けていて、残った気数列は黄色く汚れていた。それほど年寄りでもないのに、百歳なみの白髪だった。

「この街にはもう食い物がなくてねえ、子供を食うしかないんだよ」

「そうだよそうだよ。だってさあ、あんたらガキんちょって、肉が柔らかいだろう。関節も折れやすいから捌くのが楽なんだよ」

「大人はサルどもにとっ捕まってしまったけどさ、ガキは、ちらほらいるからね」

「そうそう。瓦礫のすき間に隠れてんだよ。あいつら、ネズミとか食ってるから美味いんだ」

 女たちの手には、出刃包丁のほかに骨を砕くハンマーやノコギリなどがあった。子供を食い過ぎて肝臓でも悪くなったのか、黄色くなった目玉がギラギラしている。

「クソババア、おめえらなんかに食われてたまるか。ぶっ殺してやる」

 少年は激高した。生き残るために、毎日山野を駆け回ってきたのだ。体力は野生児なみであり、根性も据わっていた。

「やだー、やだよー、あんちゃんあんちゃん」

 だが常に庇護されてきた少女は、その幼さもあって性根がすわっていない。兄を呼びながら、わあわあと泣き喚くだけだ。

「ウヒヒ、諦めな、坊や。抵抗するだけムダだって。まあ、おとなしく首を差し出しても、楽に死なせてあげないけれどもね」

「そうそう。子供はねえ、苦しめたほうが肉の味がよくなるんだ」

 垢だらけの煤けた顔が、天井からぶら下がっている肉塊を指さして言う。

「この子はねえ、十歳くらいの男の子だったけれど、そりゃあ暴れたねえ。痛い痛いって、一晩中泣き叫んでいたさ」

「一晩中?」

 かまうつもりはなかったが、少年は思わず訊き返してしまった。

「そうさ。できるだけ苦しむように、足の先から少しずつ刻んだからねえ」

 ニヤつく悪辣な顔は、もはや人間ではない。地獄の餓鬼だと、少年は思った。

「あたしゃあ、へそまで頑張るんじゃないかと思ってたけど、太もものあたりで死んじまったさ」

 ミリ単位で切り刻まれる可哀そうな男の子を想像して、兄妹は心の底から慄いた。

「とにかくなあ、子供は柔らかくてうめえんだよ」

「そうそう」

「嬢ちゃんは、どうしようかねえ」

 顔中切り傷だらけの女が、左斜め上を見ていた。少女をどういう具合に解体しようか考えているのだ。

「まんずは目ん玉をくり抜いたら、この針金を尻から突っ込んでグリグリするかねえ。そしたら血がいっぱい出てくるからさ」

 五寸釘ほどの太さの針金の先には、十数枚ものカミソリの刃が雑に取り付けられていた。

「血抜きは肉を美味しくする基本だからな」

 女たちは、獲物に手を触れることなく散々に痛めつけていた。少女の小さな心はすでに破裂している。喚くことは止めて、ああ~ああ~と、うつろな声を絞り出すだけだ。

「じゃあ、そろそろやるかな」

 黄色い目をした人喰い女たちが、ジリジリとにじり寄ってきた。少年は、ふところから短刀のようなナイフを取り出して構えた。片方の手で妹をかばいながら戦う覚悟だ。

 人喰い女たちは少年のナイフを恐れていなかった。反撃されることも慣れているのだ。

「あらあら、かわいいねえ。反抗する気かいな」

「じゃあ、足撃っちゃいなよ」

 一人が散弾銃を持っていた。上下二連なそれを少年の足に向けると、ぺろりと下唇をなめた。無駄だと承知だが、兄が飛びかかろうとした時だ。

「な、なんだい」

「地震だ」

 初期微動が数秒間続き、その後に巨大な地震がやってきた。

 床面が割れて、天井や壁が崩れてきた。丈夫な金庫室を破壊するほどの揺れで、さしもの人喰い女たちも、頭をかかえながら出て行った。

「あずみ、こい」

 少年はそのスキを逃さず、そこからとび出した。妹の手を引いて銀行からの出口を探すが、それは西側の一か所のみで他にはなかった。

「くっそ」

 そこには人喰い女たちがいた。揺れが収まって一安心し、飢えた目線を兄妹に突き刺していた。

 少女が小さく悲鳴をあげた。その瞬間、天井が崩れてなにかが倒れ込んできた。

「うわあ、電柱だ」

 巨大地震で何本もの電柱が折れて、天井をバリバリと破壊したのだ。

 銀行の中だけではなく外も同じで、電線を引っぱったままドタンドタンと倒れていた。いたるところ、電線が網の目のようにクロスしていた。

「あひゃあ、サルだあ」

「きゃあ」

「あぎゃあ」

 電線を伝ってサルどもが降りてきた。餌食になったのは人喰い女たちで、包丁や銃での抵抗もむなしく、とっ捕まってしまった。

 ぎゃあぎゃあと泣き叫ぶが、サルはお構いなしに電線を登ってゆく。上でぶら下がると、人喰い女の手足を一本ずつ引き千切って食べていた。

「あずみ、音を立てるなよ」

「だって、あんちゃん」

「しっ」

 兄妹は、ふたたび瓦礫の間を這い進んでいた。

 人喰い女たちが喚きながら逃げ惑うので、サルたちの注意はそちらに向いている。その間隙をついて、うまく脱出することができた。

「お~い、こっちゃだよ」

 銀行を出ると誰かが呼んでいた 向うのビルの真下に人がいた。なぜか上半身だけが路上に出て、お~い、お~いと声を張り上げながら手招きしている。

「やだー」

 少年はすぐに行こうとするが、妹はイヤイヤをしていた。また人喰いに捕ってしまうと怖がっているのだ。

「大丈夫だ、あずみ。あんちゃんを信じろ」 

 少年は自信ありげに言った。そういう時の兄は信用できることを、少女は経験的に知っている。

「うん」

 二人は身を屈めて走った。向こうで上半身が「こいこい」と手を振っていた。そこにつくと、マンホールから、十三、四歳くらいの男の子が身体の半分を出していた。左腕は肘から先がなかった。赤いバンダナを首に巻いている。

「食べられなくてよかったな。ババアたちはサルにつかまって、上で喰われてるよ。ザマアみろだ。友だちをたくさん喰って、オイラの腕も喰いやがったからな。ざまーみろ、今日はメシがうまいぞ」

 電線にぶら下がったサルに生きたまま解体されている女たちを見上げて、バンダナの少年は歓喜の声をあげていた。

「あんたは誰だ」と少年が訊く。

「人喰いじゃあ、ねえよ」

「そう願うよ」

 バンダナ少年を信じていいのか、本当のところは迷っていた。妹に余計な不安をさせたくなくて信用した態度を見せているが、用心する気持ちを持ち続けようと思っていた。いまは、彼しか頼るしか道がない。

「とにかくここはヤバい。ついてきな」

 兄妹は彼の後に従った。

「オイラは下水道に住んでるんだ。下は暖かいし、ドブネズミがたくさんいるから食い物にもこまんねえ。仲間がいたんだけど、ガキどもだから頭がアホでさ、ときどき地上に出てしまうんだ。そうするとサルに喰われたり、人喰いのババアどもに喰われたりするんだ。オイラ以外ぜんぶ喰われたよ。ガキはすぐ喰われる」とガキが言った。

「その腕も喰われたのか」

「友だちを助けようとして、オイラもババアどもにつかまったけど、腕を切られたところで逃げたんだ」

 バンダナ少年の話を聞きながら下水道を歩いた。コンクリートの破片やゴミだらけで歩きにくく、兄は妹を気づかっていた

「おい、いったいどこに行くんだ」

「さっきの地震で、ここいらが崩れてしまったからな。橋を渡ってとなりの街に行くんだ」

「安全なのか」

「ああ。橋の向こう側は地下街があるんだ。地下に道がたくさんあって、人間が大勢いるって話だ」

「だったら、なんでこっちに住んでるんだ。さっさと橋の向こうへ行けばよかったのに」

 化け物サルや人喰い女がわんさかいる街に、好んで住むやつはいない。なにか理由があるのだろうと兄は推測していた。

「橋を渡れたら、そうしてるさ」

「サルがいるのか」

「ああ、橋がサルどものネグラだからな。吊り橋だから上に鈴なりになってるよ」

「だったら、下から行けばいいだろう」

 橋の裏側の鉄骨部分を通るという意味だ。

「下にもいるよ。何十匹も橋桁にぶら下がってるさ」

 その巨大な吊り橋には、上にも下にもサルがいた。サルたちの基地といっていい。

「じゃあ、泳いでいくのか」

 少年は泳げるが、妹のほうはまったくのカナヅチだ。おぶっていくしかないと決心する。

「あほう。渦潮に呑み込まれて、魚のエサだ」

 吊り橋は海峡に架かっていた。下の海は流れが激しくて、渦を巻いている。人が泳いで渡ることはできない。

「ならどうするんだ」

「橋の下には水道管があって、向こうの街まで繋がってるんだ。その中を通っていくのさ」

 話をしているうちに、三人は吊り橋のそばまで来た。

「あの扉が水道管の入り口だよ」

 大きな橋の下に水道管の円柱トンネルがあった。入り口部分は点検用の連絡口で、扉は開いていた。

「おい大丈夫なのか」

「大丈夫じゃない。少しでも音が洩れればサルどもに気づかれる。あいつらの爪は鉄よりも硬いから、薄っぺらな水道管なんて簡単に突き破ってくるからな。そうしたら、生きたまま引き裂かれて喰われるぞ」

 バンダナ少年はニヤッと笑う。

「オイラの仲間は間抜けなガキばかりでよう。とてもじゃないが一緒に行けなかった。あいつら、バカだから途中で音を立てるんだ。あんたらは人喰いババアから逃げたくらいだから、そのへんは大丈夫だべ」 

 使われなくなった水道管は狭かった。大人が這って進むには窮屈すぎるが、子供ならばなんとか可能だ。バンダナの少年を先頭に、三人は音をたてないように入管した。

「静かにな。絶対に大声を出すな」

 息詰まる狭小な空間で、汗だくになりながら這い進む。

「なんだ」

 突然、揺れ始めた。先ほどの余震が続いている。

「あんちゃ~ん」

「しっ、声を出すな」

 先頭にバンダナ、真ん中に少女、しんがりは少年となった。中は真っ暗で、先を行く者の足の裏すら見えなかった。手探りで進んでいる。

 外が騒がしかった。橋桁に巣食っているサルたちが喚き散らしていた。地震で神経質になり、気持ちが高ぶっている。中には、腹立ちまぎれに水道管を蹴ったり叩いたりするやつがいた。

 吊り橋の三分の二ほどまで来た。バンダナが、その極端に柔軟な身体を畳んで音もなく半回転する。

「おい、どうした。早くいけよ」

 最後尾から押し殺した声がした。妹は進もうとしているのだが、バンダナが動かないのでつっかえていた。

「なあ、なしてオイラが、おまえたちを連れてきたかわかるか」

 真っ暗闇の中で、バンダナの声が静かに言う。その声色に、イヤな予感をおぼえたのは少年だけではない。

「あんちゃん」

「ここまでは前にもオイラ一人で来てるんだ。だけど、この先に止水栓があって閉まってんだよ。でも、さびさびに錆びているから、何度か蹴れば壊せそうなんだ」

 そこまで言った時に、ぽっと光が灯った。小さなペンライトであり、電池が寿命すれすれなのか光量が乏しかった。

 だが、そのわずかな光に浮かび上がったバンダナ少年の顔はとびっきり気色悪くて、悲鳴が出そうなほどのニタリ顔だった。

「おまえ、まさか」

 勘のいい少年は気づいてしまった。自分たちが囮として連れてこられたことを。

「ぎゃっ」

 バンダナ少年の放ったパンチが、少女の鼻に炸裂する。短い嗚咽を出して悶絶し、痛さのあまり足をバタつかせてしまった。

「そーれ、そーれ、それそれ」

 水道管の内部を、バンダナ少年が拳で叩き、足で蹴っていた。狭苦しい管の中が、太鼓を鳴らしたように騒々しくなった。

「やめろやめろ」

「きゃあきゃあ」

 兄妹は、それでも押し殺した声で叫んだ。

 バンダナ少年は、音を立てることが楽しくて仕方ないというように叩きまくる。すでにペンライトを消しているので見えないが、兄と妹の表情は崩れ放題になっていた。

「キョエーキョエー」

 不吉と絶望の吠え声だ。

 湾曲した薄っぺらな鉄板一枚だけが、人喰いサルと彼らを隔てでいる。それとて化け物たちの硬質の爪で簡単に破られてしまうのだ。

「あひゃひゃ、あいつらに喰われて死ねや、マヌケ」

 バンダナ少年が、最後に強烈なる蹴りを少女の顔面に叩きつけた。

「ぎゃっ」

「あずみ」

 きりきり舞いしている妹を、兄が必死になって介抱しようとする。 

 外のサルたちが水道管を攻撃し始めた。殴打したり頭突きするたびに、兄妹を包む空気が揺れ動く。

 真っ暗なので、妹の正確な状態を把握できない。手探りでなんとか触り、とにかく先に進むように促した。

 その頃には、バンダナ少年は止水栓に到達していた。錆びついた遮断壁を蹴飛ばして、向う側への回廊を確保しようとしている。

 バリバリと、やけに金属的な音が響いた。真っ黒だった管内に一筋の光が差し込んできた。いや、二筋も三筋にもなった。

「あきゃあ、あんちゃんあんちゃん」

「あずみ、行け、早く行け」

 サルたちが、その凶悪なる爪で水道管を突き破っていた。きゃあきゃあと、鼻血を垂れ流しながらパニックに陥っている妹の尻を、今度は兄がぶっ叩いている。

「わーっ」

 半狂乱になった少女が高速の四つん這いを発揮した。まるで機械仕掛けのような、猛スピードのハイハイだった。

「行け行け」

 二人はどんどん前へと進む。後方では、サルたちが「キョエーキョエー」啼きながら、水道管の鉄板を引き千切っていた。それらの爪に捕まれば、あっという間に肉片にされてしまうだろう。

「こ、こんにゃろう、こんにゃろう」

 兄妹をエサにしている間に、自分は止水栓をぶち壊わして先に行く目論見だったが、遮断壁の表面は錆びだらけなのに中は意外としっかりおり、容易に壊れてくれなかった。

 バンダナ少年は渾身のキックを連発し、足首をねん挫しながら、ようやく人が通ることのできる穴を開けた。

「うっわ」

 だがしかし、彼は音を立てすぎた。兄妹たちのいる場所にいたサルとは別のやつらが止水栓の周りに集まり、その容赦のない爪を突き立ててきた。

「やめろう、うわ、あぎゃあ、ぐああ」

 あっという間に鉄板が剥がされて、バンダナ少年が外へと引きずり出された。サルたちがよってたかって彼の肉をつまみ、なんら遠慮することなく引き千切り始めた。

「ぎゃあああ」

 生きたまま解体された。

 筋肉だけではなく、内臓もほじくりだされた。激痛の地平を味わったバンダナ少年の悲鳴は、サルたちの吠え声にかき消されていた。

「いまだ」

 サルたちがバンダナ少年をバラバラに引き裂いている間に、兄妹は水道管の中を突き進んだ。幸運にも、サルどもに悟られず対岸へたどり着くことができた。

「ふう、これでもう大丈夫だ。あずみ、がんばったな」

「うん」

 水道管の長いトンネルを抜けて、二人は隣街の地下道に入った。そこは地下鉄やら地下街へ通じていて、結構な広さと奥行きがあった。しかも太陽光発電が生きているのか、薄暗くはあるが、照明器具がわずかばかりの明かりを落としていた。

 この町の地下ならば、人喰いサルにおびえることなく眠れると、兄弟はホッとする。

「あんちゃーん、誰かくるよ」

「ん」

 長い地下道を歩いていると、前方から人がやってきた。

「逃げろ、喰い殺されるぞ」

 そう叫んで、何人かの大人たちが走り去った。呆気にとられていると、血だらけの男が兄妹を見て立ち止まり、息を切らせながら言う。

「この街はもうダメだ。いますぐに脱出しないと喰われるぞ」

「喰われるって何にだよ。だって、ここにサルどもはいないんだぞ」

「ほうら、キタキタキター。地下道イヌだ」

 真っ黒くて巨大な犬たちが牙を剥き、激しく吠えたてながらやってきた。

兄妹は走った。人喰いの地下道イヌに追われながら、果てしなく続く地下の道を必死になって逃げるのだった。


                                  おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

電線サル 北見崇史 @dvdloto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る