第8話 フィナンシェにはストレートティーを
「九条くん」
突然横から名前を呼ばれて、椿は硬直した。
声のしたほう、向かって左のほうを見る。
巨大なトルコ石のついた銀細工のピアスを耳からぶら下げている女が立っていた。ぐりぐりとした大きな黒目、肉感的な厚い唇、ぱっつんに切られたまっすぐの黒髪の南国の女、池谷向日葵である。
驚いた。こんなところで出会えるとは思わなかった。広いキャンパス、多すぎる学生、同じ学部でも偶然に遭遇するのは難しい。それが人のごった返す三限前の生協の自動販売機前で顔を見られるとは僥倖だ。運がいい。今日のみずがめ座の順位は相当高いのではなかろうか。椿は都合よくこれも運命だと思った。
ブリックパックのジュースが取り出し口に落ちてくる、がこん、という音がした。
「何か飲む?」
ついついおごってあげたくなってICカードを自販機にかざそうとした。
「ある」
向日葵が右手に持っていた500ミリリットルの紙パックを見せてきた。リプトンのレモンティーだ。購入したてのほやほやのようで口が開いておらずストローを別に持っている。
「九条くんそれココアだよ」
かがんで自販機の取り出し口に手を伸ばす。明治のココアである。きょとんとした目でココアと向日葵の顔を交互に見る。
「何かおかしい?」
「いや、間違いじゃなくて意識して買ったんならいいんだけど」
「よう買うてるけど」
「そうなんだー」
向日葵が愛嬌のある笑顔で笑った。
「よかったぁ。九条くんわりとマチズモなこと言う人だから、外でココアなんて甘いもの飲めないんじゃないかって心配しちゃっただよぉ」
「まち……? えっ、なに?」
「えーと、英語ではマッチョイズムって言うのかなぁ。男ジェンダーをすごく意識する人のこと。男らしさへのこだわりが強いっていうか」
指摘されて初めて気づいた。がん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。自分はどちらかといえばフェミニストであり、女性に迎合するタイプで、自分自身も男らしさとは程遠い容姿をしていると思っていた。
とはいえ心当たりがまったくないわけではない。なぜなら椿が家の外でも着物を着始めたのは洋服を着ることで女性に間違われることを防ぎたいと思ったからだった。和服は男物と女物が明確に違う。ジェンダーフリーなパンツスタイルが嫌だったのである。
それでも認めたくなくて目を泳がせながら呟くように反論した。
「そうかな。僕女性差別なんかには明確に反対している立場やと思ってたんやけど」
「そういうのとはちょっと違うんだよ。自分で自分に呪いをかけてるというか。男なんだから強くたくましくしっかりしてなきゃいけない、みたいなさ」
図星だった。無意識だったが、彼女の言うとおりだ。強くもなく、たくましくもなく、しっかりもしていない自分自身へのコンプレックスはすさまじい。長男としてリーダーシップを取らなければならないのにそうできない自分が嫌いだった。
無言でブリックパックのストローをビニールから出し、パックの頭に突き立てた。
「
ちなみにパチとは
そう考えてから、はっとした。
可愛らしいニックネームに反して、剣道部出身で、高身長筋肉質――これこそ自分の男ジェンダーへのこだわりで劣等感の原因なのではないか。
「でも誰に会うかわかんない大学生協でココア買ってるんじゃ安心だ」
向日葵が微笑む。
彼女は鋭い。観察眼が優れている。真に頭がいいというのはこういうことだと思う。椿は彼女のこういうところに惹かれる。それでいて椿を否定しないでくれるところも――椿の弱点に気づいてもひとに言いふらさずこっそり椿本人に伝えてくれるところも、彼女が世界で一番信頼できる人間であることを感じさせられた。
「三限あるの?」
「ない」
「んじゃ二人でおしゃべりしよ。今日天気いいしそのへんで二人でジュース飲もうー」
「紫外線大丈夫なん?」
「PAぷらぷらぷらぷらの日焼け止め塗ってるからだいじょうぶ! むしろ梅雨前の今に日光浴しとかないと、向日葵さんは太陽の子だからね!」
そのとおりだ。彼女は空に輝く太陽のように――万物のエネルギーのみなもとかのように何よりも誰よりも明るい。
――という四年前の出来事を、向日葵が会社で貰ってきたフィナンシェを家族で山分けにしてくれている時に思い出した。
「アーモンドとバターたっぷり。椿くんの好きなやつー」
義父がすっとんきょうな声を出す。
「椿はこういうのが好きなんだ」
「そうだよー。椿くんは甘い洋菓子が大好きなんだよ。フィナンシェ、カヌレ、マドレーヌ……」
「わかる。お父さんもダックワーズ好き。あとバターケーキとサーターアンダギー」
「そう、そういうやつ。サーターアンダギーは洋菓子じゃないだけどね」
そんな父娘の会話を聞いていると、彼女の思想を形作っているものが何なのかがわかってきて、この家庭の優しさと温かさ、そして先進性を思うのだった。
「さすがにフィナンシェはストレートティーかな……」
ココアではなく、と言いかけて、椿は一人で忍び笑いをした。なつかしい、心地よい思い出。
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