第2話 クジラが浜に上がった日
池谷家は基本的に家族全員で夕飯を取ることにしている。参加できなくても怒られはしないが、ずっと昔からこの生活リズムで暮らしてきたので、なんとなくみんなこの習慣を保っている。婿に来た椿も例外ではない。最近彼が主体的に夕飯を作る機会が増えたこともあって団欒を律義に守っていた。
今日も一家は午後七時からの夕飯に備えて食事の支度をしている。
食事の支度を担うのは主に料理が好きで台所にいるのを好む母だが、台所から料理や食器を運ぶのはその場にいた人間で手分けをする。誰かが決めたわけではないが、池谷家は何年も、それこそ二十年くらい前からこんな感じだ。
しかしこの間居間ではテレビをつけっぱなしにしている。台所に三人も四人もいても邪魔になるので、隠居の身である祖母だけは息子夫婦や孫夫婦に支度を託してテレビを眺めているのだ。普段からずっとテレビを見ているわけではない。あくまで店を閉めてから夕飯までの三十分ほどの時間だ。しかし彼女はこの時間帯好んでローカルニュースを見ていた。
今日も祖母がニュースを眺めている。
そのわきで、いつの間にか休憩モードに入ったらしい椿も一緒に食い入るようにしてテレビ画面を見つめている。
向日葵は母が作ったきのこご飯を運びながら椿の様子を見守っていた。今日は向日葵も父もいるのでたまにはいいのだ。最近ずっと家事を任せていたし、この程度でどうこう言うほど狭量な人間はここにはいない。
椿がぽつりと呟いた。
「クジラ」
ちょうどお茶用のコップを座卓に持ってきたところだった父も椿の隣にしゃがみ込み、テレビに映る地元のニュースを見た。
「クジラ」
熱海市の海岸にクジラの死骸が打ち上がったというニュースだった。ザトウクジラだろうか、白い腹を見せたクジラが砂浜に仰向けに転がっている。レポーターが体長推定五メートルと報じている。この辺ではたまにあることだ。
「何か珍しいか?」
父が椿に尋ねると、椿が目をぱちぱちしばたたかせた。
「静岡の海にはクジラさんがいはるんや」
「太平洋だからな」
「大きいなあ。五メートルって、二階建てのビルより大きいんやないですか」
「ザトウクジラだからな」
「こんなん泳いでたら漁師さんびっくりしはるやろ」
「そりゃぶつかったりなんかしたら大変よ、小型船なら引っくり返るからな。しかもクジラって硬いの、皮膚がタイヤみたいなの。勝てねぇわ」
「そうなんや。哺乳類なのに」
「脅威よ脅威。まあクジラは賢いからよっぽどのことがなければ突っ込んでは来ねぇら」
男二人の仲が良さげな背中を眺めて、向日葵は密かに笑いながら台所に引っ込んでいった。
二人の会話はまだ続く。
「イルカもいるぞ。イルカは駿河湾の中にも入ってくるぞ」
「ほんまですか? その辺にいるってことですか?」
「そうそう。味噌煮にして食うの」
「イルカを!? 食べるん!? 静岡県民野蛮!」
「そんな珍しいか?」
「京都は盆地やもん。大阪は内海やし、舞鶴は日本海ですわ」
「そっかあ」
父が間の抜けた声を出す。
「じゃあクジラ見に行くかあ」
「一般人も見られるんです?」
「下田に行けばホエールウォッチングができる」
「生きてるクジラさんですか?」
「そう。人間が船で沖合に出る」
父の大きな手が椿の頭を撫でた。
「お前にも俺がさせてやれる経験全部やらせてやるからな。大樹もひまもそうやって育てたんだ。俺はそういう覚悟でお前を引き取ったんだ」
椿が少し間を置いてから小声で言った。
「僕もう二十三ですよ」
父がすぐに続ける。
「十歳でも三十歳でも一緒。お前も俺の子だ」
また少し、椿は黙っていた。
向日葵は知っていた。
椿の実父は体が弱くて喘息を患っていた椿を家から連れ出さなかった。椿には三つ年下の弟がいて、二人の父親はその健康で負けん気の強い弟のほうを連れ回して可愛がった。
彼は静岡に引っ越してきてから劇的に体調が改善して活動的になった。最近は食事量も増え血色も良くなり安心して見ていられるようになった。
これならクジラも見に行ける。
「見に行きたいです」
椿が言った。
「生きてるクジラ。見てみたいです」
父が「よーし」と背伸びした。
「調べといてやるからちょっと待ってろ」
少なくともその日まで彼はこの家にいられる、と思うと向日葵は嬉しくて泣けてくるのだった。
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