第2話

 と、わたしが深いため息を吐いた、そのときだった。突然、どたどたと小走りに駈け寄って来る音がして、部屋の扉が音を立てて開いた。


 一瞬、ドリューヴ王子が帰って来たのかと思ったが、そうではなかった。


 そもそも上品なかれはこのような騒々しい音を立てない。そこにあらわれたのは、不幸にも、わたしがこの世でいちばん見たくない顔だった。


「よっ、帰ったぜ! メロディア」


「……ルーファウス。なぜ、ここに?」


 その言葉が一瞬遅れたのは、反射的に何か物を投げてやろうかと思ったからだ。


 しかし、運悪くかれにぶつけられるものは何も見あたらなかった。これからは護身用に武器のひとつも用意しておく必要があるかもしれない。こんなろくでなしが平気で入って来れるのだから。


 しまった。かれから家の鍵を奪っておくことを忘れていたらしい。


 その男、ルーファウスは何を云われたのかわからないと云わんばかりのとぼけた表情を浮かべた。わたしがこの世界で最も我慢ならない顔だ。


 かれはわたしの手のなかに銃がないことを感謝するべきだろう。もしあったらまちがいなく撃ち放っていたから。


「なぜとはひどいな。ここはおれの家だぞ。帰って来て何が悪い?」


「いつからわたしの家があなたの家になったのかしら? この家は父から受け継いだもので、わたし個人の所有物なのだけれど」


「冷たいことを云うなよ。おれたちは婚約者だろ」


「ふざけないで。おまえは強い女だから平気だろうなんて云って、浮気し、婚約破棄をしたのはあなたでしょう!」


 わたしはケモノのように獰猛に歯を剥いた。


 そうなのだ、このルーファウスこそ、わたしの恋心を一方的に利用し、わたしからさんざん金をだまし取り、その果てに捨て台詞を残してべつの女のところに去っていった、その人物に他ならないのである。


 ドリューヴ王子が去った直後にあらわれるとは何という偶然。いや、偶然のはずがない。きっとドリューヴが立ち去るところを待っていたのだろう。


 なんて奴!


「まだそのことを怨んでいたのか? あれはただのちょっとした気の迷いじゃないか。男は船のようなもの、いくつもの港を巡るのさ。だが、最後に帰って来るのは、いつだっておまえのところだけだよ、メロディア」


 ゾッと寒気がした。


 何と自分に都合の良い理屈! ああ、この男といくら話しても無駄だ。単なる無駄どころか有害ですらある。


 いま、このようなときに登場したのには、それなりの理由があるに違いないのだ。


 わたしは心のなかで警戒感を最大値にした。可能なかぎり冷たく聴こえるよう云い放つ。


「帰って」


 そのひと言以外に云うべきことは何もなかった。めちゃくちゃに利用され尽くしたあげくに捨てられた怨みは根深いが、いまさらそのようなことをぶつけても益はない。ただひたすら関わりたくない。それだけだった。


「だから、冷たいことを云うなって。今日からおれもここに住むよ。また仲良くやろう? おれのこと、まだ愛してくれているんだろ、メロディア?」


 ルーファウスは当然のようにわたしのほうに歩み寄り、腕を掴んだ。ナメクジが這ったようにおぞけがする。


 わたしは、掴まれていないほうの手で思い切りかれを平手打ちした。かれはその場でたたらを踏む。


「出て行けと云っているのがわからないの! この上、わたしに触れるようなら人を呼ぶわよ!」


「わかった、わかったよ。怖いことを云うなよ」


 かれは降参を示すように両手を見せながらわたしから離れた。


「今日はこれで退散するとしよう。だが、おれはおまえのことを忘れたりしないぞ、メロディア。そのことを憶えていろよ」


 おぞましい捨てゼリフを残して、かれは立ち去っていった。わたしはいつまでもルーファウスが消えたその扉をじっと睨みつけていた。

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