アンダンテ ~茉梨と勝~
宇月朋花
恋人未満学生編
第1話 ドボン!
梅雨明け宣言は今日か明日の予定。
もう夏は目の前まで来ている。
団扇片手にうだる暑さに辟易しながら蒸し暑い教室でぼんやりと天井を眺める少女が1人。
矢野茉梨の肩下までの髪を、生ぬるい風がふわふわと揺らしながら通り過ぎていく。
高校生最初の夏休みを前に、気分は最高潮と言いたいところだが、梅雨明け前からこの暑さだと今年の夏は外出できるのか?と不安になってくる。
「あーづーいー・・・」
「もうすぐ夏だからねー」
さっき購買で買ってきたアイスキャンディに齧りつきながらひなたが苦笑交じりで返した。
「梅雨明けまだでしょ?ってことはまだ初夏でしょ?なのになんでセミがもう鳴いてんのーお」
「んー・・・せっかちだから?」
生真面目な答えを返したひなた。
その言葉に茉梨と勝が一緒になって吹き出した。
「ひなた、それ最高!!」
団扇で机をバンバン叩いて笑う茉梨。
勝は涙目になって手にしていた汗をかいた炭酸の缶を煽った。
「そ・・そんな笑うとこ?」
「いやー。癒されました。かぁーいぃねーぇひなちゃん」
よしよしと頭を撫でられてひなたは訝しげな顔で唇を尖らせる。
「茉梨ちゃんが訊いたから答えたのにー・・」
「ごめんごめん。でも、それ正解だよ。せっかちなセミさんはもう夏が来たと思って早々に鳴き始めたんだよ。そうゆう事なら色々許せるよね」
「・・・」
ひなたの手にあるソーダ味のアイスに齧りついて茉梨が美味しい、と呟いて笑う。
「それにしたってミンミン五月蠅いねェ」
「セミが鳴くと余計暑く感じるよな」
勝が茉梨の後ろに回り、下ろしっぱなしの髪を手ぐしで梳き始めた。
「ポニーテールやって」
首元で溜まった髪がなんとも不快指数を押し上げているのだが、団扇を手放すのが惜しくてそのままにしていたのだ。
「ゴムは?」
「シュシュあるもん」
手首に着けている赤に白の水玉のシュシュを勝の前に翳して見せた。
「んー」
適当に返事を返して、勝が慣れた手つきで茉梨の髪を結いあげる。
散々文句を言われて、最近漸くそれなりになった髪結い師はいつか有料にしてやろうと思いつつ、茉梨に団扇の風を要求した。
ぶおんと嫌味のような強風が来て、一瞬だけ勝が顔を顰める。
「で、望月」
耳元の後れ毛を避けながら、勝がアイスを食べるひなたに向かって呼び掛けた。
「なぁに?」
「ほかの連中は?」
授業が終わった教室。
すでに16時を回ったので残っているのは茉梨たちと数人のクラスメイトのみ。
仲良くしている同級生のうち、竜彦たち4大進学組は夏期講習の説明会に出席中。
けれどそれも16時前には終わるはずなのだ。
まだ戻らないメンバーを思い浮かべつつ勝は視線を窓の外に向けた。
まだ太陽は随分高く、夕暮れにはほど遠い。
小学生の頃、いつまでも遊び続けていたいと思ってた夏特融の強くて青い空。
高校生になっても、少しも変わらない。
夏は子供の味方だ。
「寄り道してるのかな?」
「えーズルイ!うちらを除け者にするなんて!!」
ダンと団扇の柄を机に叩きつけた音で、残っている数人のクラスメイトの視線がほんの一瞬こちらに向けられて、茉梨の暴挙を察して苦笑いと共にすぐに離れていく。
一学期の間にすっかり定着した矢野茉梨に対するイメージは、当分覆りそうにない。
夏休みを目前にして、あれこれ予定を立てるのに忙しい生徒たちの楽しそうな話し声がすぐに復活した。
「こら、茉梨暴れんな。手」
呆れ口調で勝が言って、拳を突き上げた茉梨の手首からシュシュを外す。
と同時に茉梨がカエルが潰れたような悲鳴を上げた。
「ぎゃ」
重力に負けた団扇の柄がぐにゃりと曲がってしまっている。
商店街の文房具屋で貰ったおまけの団扇。
茉梨の好きなキャラクターが描かれていたそれは彼女のお気に入りでもあった。
「おまえが悪い。直すなら自分で」
しれっと言って勝が手際よく髪をシュシュでまとめ上げた。
ふたりのこういったやりとりはいつもの事なので、ひなたは綺麗に無視して食べ終わったアイスの棒を捨てに立ち上がる。
今日は帰り道にある商店街の夜店にみんなで行く予定なので、どのみち夜まで時間を潰さなくてはならないのだ。
誰かと居るなら待つのは苦ではない茉梨だが、今年はお前と過ごす!と決めた団扇がこれでは、暑さをしのげない。
ちらりと背後を振り返るも、勝は素知らぬ顔だ。
カーテンが引かれていないので強い日差しはまっすぐ教室のモルタルの床を照らしている。
影を探すように机と机の間を歩き始めたひなたは、ふと眼下に見えるグラウンドに視線を送った。
そして、声を上げた。
「あ!!」
ひなたが大きな声を出すのは珍しい。
大慌てでひなたの方を見たふたりが口を揃えて返した。
「「どーした!?」」
その問いかけにひなたは右手の人さし指で窓の外を指し示す。
「・・・・え?」
グラウンドか?と視線を送った茉梨の隣で勝が先にそれに気づいた。
「あいつら・・・」
次の瞬間茉梨も勝の視線を追いかけて、ひなたが声を上げた原因を知る。
「え?・・・あーっ!!!」
まるで逃走犯でも見つけた時のような大声を上げて、そのまま猛然と教室を飛び出していく。
要望通り高く結われた髪がふわふわと揺れる。
教室のドアを過ぎたところで茉梨が叫んだ。
「行くよっ!!」
「・・・ま・・茉梨ちゃん・・」
「あーいい、いい。どーせ目的地一緒だ。走らせとけ」
馬車馬のように走って行った友達の後姿を見送るひなたに向かって勝が言って茉梨と自分のかばんを掴む。
「全員揃ってるみたいだし、行こっか」
「うん」
ひなたが頷いて自分の席に向かう。
”行くよ!”と駆けだして行った茉梨。
”行こっか”とひなたを待った勝。
つくづくバランスの取れたふたりだ。
茉梨の習性を分かり切った勝ならではの対応。
茉梨に”とまれ”は通用しない。
停止信号を送っても、自動変換で発進信号に切り換えてしまう。
だから、こういう時の対処は今の”放置”が一番正解。
”楽しい”を見つけた時の茉梨には誰も敵わない。
けれど、茉梨の”楽しい”は間違いない。
なので、安心していられる。
自分も混ざること前提で。
★★★★★★
「ちょっとーぉ!?」
フェンス越しに揺れる水面を覗き込んで、茉梨が右足を遠慮なく金網に引っ掛けて、よじ登りながら問いかける。
「あれ、来たの?」
背後からの呼びかけに驚いたように声を上げたのは多恵だった。
プールに足を浸けて、バシャバシャと水しぶきを上げながら、こちらを振り返る。
「矢野。ひなたは?」
学年一のクールビューティーと称される京(みやこ)が、手にした日傘をくるりと回して付け加えた。
すでに男子はプールに飛び込んだ後だ。
がしゃんがしゃん揺れるフェンスを何とか上まで上り切ろうと必死の形相のまま、茉梨が問いかけた。
「あんたら着替えはー?」
「俺ら置きジャージあるし」
部活をしていたメンバーならではの発言。
「ずるいー!」
「あ、でもうちら体育あったから着替えはあるよね」
「ほんとだ!」
「え、じゃあ泳げば?」
「泳ぐわけないでしょ・・ばかなの」
「つか、矢野危ないから・・」
フェンスは結構な高さがある。
少し遠回りになるがプール沿いに歩けばちゃんと更衣室から続く入り口があるのだ。
スカートにローファーで2メートル弱あるフェンスを必死に上る女子高生に、その場にいた一同が物凄く残念そうな視線を投げる。
「目付役は?」
柊介に続いて竜彦が問いかける。
口を開きかけた茉梨の前に回答を述べたのは実だった。
「来た」
言うなりガシャンと再びフェンスが鳴る。
茉梨の暴挙を見て慌てて駆けだしてきた勝だ。
「こら!おまえはー・・・」
体力もあるし運動神経も上。
さらにスニーカーの勝があっという間にフェンスを越えて先に飛び降りる。
反動でフェンスが五月蠅く音を立てて揺れた。
「わ・・」
「ったく・・」
焼けたコンクリートにスニーカーのラバーが擦れる音がする。
「ひなたは?」
「当然向こう回った」
「だよねー」
「あんたくらいのもんでしょー。男子顔負けでそっから上るのなんて」
「頼むから落ちないでよね」
多恵と京が揃って言った。
「はいよーう。検討を祈って」
「「ばか」」
呆れたようにふたりが笑う。
「落ちて来たらなんとかするけど、とりあず、そっち側で落ちんな。腕だけで上んなって、先に足かけろ。そのほうが危なくないから」
降りろといって素直に従うような性格をしていないことは承知のうえ。
木登りだってろくすっぽしたことない癖にこういうこと怖がらないから不思議だ。
茉梨の場合おそらく恐怖心より、好奇心の方が勝つんだろう。
とりあえず、怪我だけさせない方向で勝が指示を出す。
茉梨は滑るローファーで何とかフェンスを上り切る。
「ふいー・・・わぁ・・いー風」
フェンスに腰かけて目を閉じた茉梨が、優雅に深呼吸なんて初めて、勝は思い切り顔を顰めた。
「頼むから早よ降りろ・・心臓に悪い」
突き刺さるような日差しに目を眇めながら勝が降りてこいと手を振る。
「はいはーい・・・あ、そっか」
何かを閃いたらしい茉梨がおもむろにぽぽいっと靴を脱いだ。
ぼとんと遠慮なくコンクリートの上にローファーを落とす。
続いて、紺色のハイソックスも脱いだ。
「裸足だったら絶対滑んないしね」
自信たっぷりに言って茉梨がフェンスから身を躍らせる。
冷や冷やしながら見守る多恵と京と、いつ何時でも手を伸ばせるように構えた勝の心配を他所に、器用に体を捻って左足をフェンスに掛けた。
「おー全然安心じゃん」
「じゃあ次から木登りする時は裸足な」
「らじゃー」
「冗談だ、馬鹿」
苦笑した勝の声に続いて、プールサイドから別の声がした。
「茉梨ちゃん大丈夫なの?」
ちゃんと入り口を通って(先にやってきた京たちが開けっぱなしにしておいた)やってきたひなたが心配そうにフェンスを降りてくる茉梨を見上げる。
「おーひなちゃーん」
調子よく片手を離した茉梨が視線を下げてひらひらと手を振った。
フェンスに掛けていた片足がずるりと滑り落ちる。
次の瞬間、茉梨の体がフェンスから離れた。
「ぎゃ・・・」
茉梨が必死にフェンスに向かって手を伸ばすが届くはずもなく。
「茉梨ちゃ・・!!」
思わず目を瞑ったひなたが叫ぶ。
「矢野!?」
多恵が大声で名前を呼ぶ。
声を上げなかったのは勝だけだった。
すぐ目の前に傾いて落ちてきた茉梨の身体をどうにか受け止める。
勝の頭の片隅に何かの映像が過った。
なんかこの前もこんなことがあったような気がする・・
落ちる、転ぶ、は茉梨にとっては結構な日常の一部だ。
「やると思った・・・」
肩に回された腕。
しっかり抱え込んだ茉梨の確かな重みにほっとする。
「あーそうかい」
まるで人ごとのような返事にどう説教してやろうかと、勝は頭を悩ませ始める。
恐る恐る目を開けたひなたが、茉梨の無事を認めて息を吐き出した。
「だ・・・だいじょうぶ・・?」
「んー平気ヘイキー」
あっけらかんとピースサインを繰り出した茉梨が勝に下ろして、と頼む。
「・・・・」
けれど、無言のままで、勝は茉梨を抱えたままプールサイドへと歩き出した。
「ん?」
きょとんとしてこちらを見上げる茉梨を見下ろして、勝が言った。
「ほれ、行って来い」
言うなり、プールに向かって茉梨の身体を放り投げる。
「っきゃあああー!!」
悲鳴とともにドボン!!と派手な水しぶきが上がった。
全身びしょ濡れになった茉梨がプールの中から犯人を睨みつけた。
「あんたねェっ!鼻に水入ったぁ!」
「着替えあるし、どーせ泳ぐ気だっただろ?」
しれっと言い返した勝に向かって茉梨が思い切り水しぶきをかけた。
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