雨噦

M.S.

雨噦

逢坂おうさか君、明日からの学活のペア、組まない?」

 そのようにして彼女────古閑見白凪こがみはくなは僕に声を掛けた。その時が僕と古閑見、お互いの人生にけるお互いへの、初めての交わりだったと僕は記憶している。

 業後の教室で、二人。

 窓の向こうは濃い霧雨きりさめがグラウンドの先の景色を隠している。

 この日、僕と古閑見が二人だけ教室に残ったのは偶然では無く必然的な遇機ぐうきだった。

 

 後で知った話だが、古閑見の家のテレビは酒癖の悪い父親が叩き壊してからそれ以降買い替えていなかったらしい。

 僕の家の方は母親がテレビを嫌うから、捨ててしまった。母親は以前から「テレビに誹謗中傷の迷惑メールが絶え間無く届くから、テレビを捨てなければならない」と繰り返し訳の解らない事を言っていた。

 その日、午前の快晴は嘘のように、下校時間になると曇天どんてん何処どこからかやって来てこの街を濡らす事になった。急峻きゅうしゅんに天気が変化する日だった上、天気予報を知るすべを持たない僕達二人は傘を持参して来ておらず、教室に残って雨足が弱まるタイミングをうかがっていた訳である。

 声を掛けてきた古閑見を、僕は自分の前髪を間に挟んで見遣みやる。

 古閑見の左頬にはいつも痣があった────というか、その時の僕というのも〝左頬に痣がある女子〟だと分かったから古閑見と判別出来たのだ。でなければクラスの人の名前なんて覚えていない。

 いつもなら、人に話し掛けられるとその内容の如何いかんに関わらず足早にその場を離脱するという奇行を癖にしていた僕だったが、その時に関してはその場を離れようという気にはならなかった。

 傘が無かったから、教室を出てもしょうがないのもあったけれど────古閑見の左頬に痣があるのは、僕が事と、何か同じような種類の後ろ暗さがある気がしてならなかった。

 端的に言えばその痣に目を引かれ、惹かれていたんだと思う。

 三十数人居るクラスの中で僕達二人は確かに社会不適合者の烙印を持っていた。

 僕の場合はそれが病気で。

 彼女の場合はそれが痣だった。

「明日からの学活、二人ペアで作業をする事になったでしょ? でも、私は友達なんて居ないし、逢坂君も居ないよね」

 友達が居ない事を指摘されて腹を立てる程、僕は人間が出来ていなかった────というよりは人間が終わっていたというべきか。

 かく、自分で自分から「自分は友達が居ない」とおくびにも出さずに言えてしまう古閑見の精神構造を垣間見て、僕は少し、同情した。

「......」

 声が出せないのは何も僕の心が憐憫れんびんまみれて身動きが取れなくなった、というだけでは無い。

 もうその時の僕というのは

「そっか、逢坂君、んだっけ......、じゃあ────」

 古閑見は席に座っている僕から目線を外して教室の窓に向け、霧雨の中に次の言葉を探すような顔をした。

「じゃあ、私が今から『明日から一緒にペアになってくれる?』って訊くから、逢坂君は答えてね。沈黙は、了承したと見做みなします」

 そう悪戯に笑って古閑見は。

「明日から一緒にペアになってくれる?」

 僕にそう訊いた。

 そして僕は訳だから、沈黙以外に行動選択が無い。身振り手振りを使ってそれを拒絶する事は出来たかもしれないが、それをする理由も無く、僕自身も明日からの授業で二人組で活動する事には懸念があったし、あながち悪い話でもなかった。

「............」

 僕は息を止め、瞬きもせず、顔まわりの筋活動を止める事で〝沈黙〟を表して見せた。

 して、古閑見は何処か憂色ゆうしょくたたえた表情で。

「────ありがとう。明日から、よろしくね」

 そうして、それから僕と古閑見は、学校という僕達にとってたまれない環境で生き残るために、お互いの利害が一致した時には行動を共にするようにして、その日から共同戦線を結ぶ事になったのだ。


────


 緘黙かんもく症────精神病の一つで、発声器官には機能的問題が見受けられないのに関わらず、言葉を話す事が出来ない。心因性、不安症の一種。〝場面緘黙症〟という病名でメディアに取り上げられる事は多々あるものの、知名度としては高くない。その字面そのままに、特定の場所で話す事が出来なくなるというのが主な症状────なのだが。

 僕は〝場面緘黙症〟ではない。

 〝場面緘黙症〟の上位として〝緘黙症〟と呼ばれるもの。それが僕の持つ症状を的確に説明できる病名の正体。〝場面緘黙症〟の人が家庭内や親しんだ人達を相手には話す事が出来るのに対して〝全緘黙症〟の人────僕はあらゆる場所、場面で口を開く事は出来ない。話せない。

 小さい頃、もう原因は忘れてしまったけれど母親にぶたれて何日も話さなかった事がある。母親を刺激しないよう部屋にこもっていると、いつの間にか話せなくなっていた。

 母親と二人暮らしだから、話し相手は他に居なかった。

 確か小学二年生の時だった。


────


 家のインターホンが鳴った。

 鳴った理由も誰が鳴らしたかも解る。

 布団から出なければならない。

 インターホンの音を聴くと条件反射のように、脳の底に溜まった汚い煮凝りみたいな憂鬱さが起居動作によってぶわっと撹拌かくはんされて水面に浮かび上がる。

 だからインターホンの音は嫌いなのだが、インターホンを鳴らしたあるじの方までは、嫌いになれない。

 脱ぎ散らかした制服を床から拾い上げて手足を通し、顔だけさっと洗って玄関を出た。

「おはよう。〝音無おとなひこ〟様」

 玄関を出ると、古閑見はご機嫌な挨拶で僕を迎えた。

 〝音無し彦〟というのは古閑見が考えた僕の渾名あだなで〝大人しい〟と掛かっている。彦とは男性に対する美称であるから、中々皮肉が効いている。

 一見、そんな差別じみた穿うがった呼び名を許しているのは信頼度の表れである────と言うのは少々前向きに捉え過ぎか。

 初めて言葉を交わした日から、僕達は不離一体ふりいったいと言うようにお互いの傷を舐め合って生きて来た。それは小学校を卒業した後も継続していて今に至る。

『音無し彦は止めてくれ。君も阿修羅姫あしゅらひめって呼ばれたら嫌だろう』

 僕はその情けない渾名を定着させようとしている古閑見に抗議してそう言った────言ったというのは言葉の綾で、話せない僕はポケットに忍ばせていたメモ帳にその文言を殴り書きするようにして、古閑見の目線に押し付けた。

 顔右半分の皓々こうこうとした肌、左半分はどす黒いあざに、学校では猫をかぶっているから三つの顔で阿修羅というわけだ。これもこれで、中々侮蔑的ぶべつてきだが、お返しとしてはこんな所だろう。

「ほう、そう来ますか。傷付くなぁ」

『傷付くような殊勝しゅしょうな心、持ち合わせていないだろう』

「分かる?」

『分かるよ。心に色素沈着があるとしたら、もう真っ黒なんじゃないか?』

「それ、私もだけど、君もじゃない?」

『......確かに』

 お互いに、下らない自虐を言っている間だけが、心から────真っ黒な心から笑える時間だった。

 テレビより、学校での出来事より────のだから、そうなるのも仕方が無い。

「......今日も一日、無事に過ごせると良いね」

 校門が近づくと、古閑見はそう呟く。

 それこそ南無妙法蓮華経ではないが、毎日校門をくぐる時にその定型句を題目のように呟く。

 祈るように。


 四限の業後、校舎の屋上で雲の形を何かに見立てるという一人遊びをして時間を潰している内に、塔屋入り口の建て付けが悪い扉がきぃ、と鳴って────古閑見が姿を見せた。

 僕達にとって教室とは言わずもがな居心地の良い場所では無い。教室以外の居場所を探すにあたって校舎の屋上がその一つに挙げられるのは自然の成り行きだった。

「はい、これ」

 古閑見は、柵に腕を乗せて呆けていた僕に寄ると、紙パックの飲料────スムージーをこちらに手渡した。僕はそれにストローを挿してちまちまと、吸水器から水を飲むハムスターのように吸い込んだ。

 口が開けないという事は、何も話せなくなる────という問題だけではない。

 のだ。

 だから、昼食は古閑見にコンビニでスムージーを買って来てもらうようにしている。これなら口を開く必要も無いし、手間的にも栄養的にも効率が良い。

「じゃあ、今日の所の復習、お願い」

 そしてその代わりと言ってはなんだが、この時間に古閑見が唯一の苦手科目である数学の復習を手伝っている。数学以外だと筆談で力になれそうに無いから、古閑見が苦手なのが数学で、本当に良かった。


 見本の途中式を書いている途中、不意に塔屋の扉が鳴った。明らかに第三者だった。

 ────この場所も、もう使えないな。

 そんな事を考えながら音の出所へ目を向けると、素行が悪い事で有名な男子と、その腰巾着の男子を見た。こちらへにやつきながら寄ってくる。

「おやおや、不純異性交遊は死刑だって、母親に習ってないのか?」

 その男子はおどけた様子で絡んできた。

「その母親が居ないの。貴方あなたは母親がいる癖に、無闇に人に絡むなって教わらなかった?」

 古閑見は意趣返しをしながら盾になるように、僕と男子生徒の間に入った。

「教わってねぇな。けど、こうは教わったぜ。〝片親の奴は例外無く頭が可笑おかしい〟ってな────」

 ぱん、と乾いた音が鳴って、見遣みやると古閑見と向かい合っていた男子は顔を横に逸らしていた。

 どうやら古閑見が男子をはたいたらしかった。

「......はっ、やっぱりな。片親だからすぐ手が出るんだろ? これは〝正当防衛〟を行使するしかなさそうだな」

 いびつに笑うと男子は右手で古閑見の制服の襟を掴み寄せ────

 殴られた勢いのまま古閑見は地面に崩れ、それでも気丈に男子をにらみ返した。

「......っ、巫山戯ふざけないで!」

 暴力の矛先が僕に向かないよう声を上げたのだろう、けれどその古閑見の目に怯えの色と新しい痣を見た時。

 僕はその男子に向かって突貫していた。


 目が覚めた時は保健室のベッドの上だった。

 されて運び込まれたのだろう。良くある成り行きだ。

 口は出せないのに手は出せる所を見れば、彼の〝片親はすぐ手が出る〟という論も正鵠せいこくているのかもしれない。

「......起きた?」

 古閑見はベッド上の僕を覗き込んだ。その顔の右側には真新しいガーゼが貼り付けてあった。

 ────良くある成り行きではあったが、いつもと違うのは古閑見が殴られてしまった事。

 そのガーゼは、不可侵領域を無理矢理侵蝕しんしょくされたように、僕の気分を悪くさせた。

「その内、顔がパンダみたいになっちゃうよ」

 古閑見が自虐的な軽口かるぐちを叩いたので、僕も緩慢に制服のポケットからメモ帳を取り出した。

『明日から、動物園に行くか?』

「学校よりはマシかもね」

 無邪気に口角を上げるその顔にガーゼが不釣り合いすぎて、古閑見を殴った男子をどうしようもなく殺したいと思った。

 いつまで、こんな笑い方をしながら生きるんだろう。


 二人揃って早退し、家の前で別れた後。

 僕は古閑見に────書き置きを残す事にした。

『もう僕にかかずらわない方が良い』

 端的に書いた紙切れを古閑見の家の郵便受けに入れて、そのまま小走りで街に繰り出した。

 コンビニを四、五軒回ると、エンジンの掛かったままの準中型車を見つけた。運転手が外しているのを確認して、拝借した。

 その車で南に向かった。

 この街から南に瀟哭岬しょうこくみさきという名の、毎年二十人以上の自殺志願者を送り出す東尋坊とうじんぼうにも引けを取らない名所がある。そこを目指して車を走らせた。みちおぼ


 結局、中学に上がってからも僕の緘黙症は寛解する様子を見せないでいた。時間が解決してくれると医者は言ったが、その時間こそが僕には足枷あしかせに感じた。月日が経つに連れて、過ぎた時間がそのまま足枷の重さになる。

 その重石の犠牲になるのは僕だけでなければならない。

 ましてや古閑見を巻き込んで彼女の人生を時間的に取り返しがつかないものにするのは良い選択では無い。

 僕が死んで、古閑見が僕につかった今までの時間が戻る事は無いが、僕が居る事で無駄になるこれからの時間の浪費を、未然に防ぐ事は出来る。

 古閑見にはまだ人生を立て直せる器量があると、僕はにらんでいた。転校でもして、環境を一新すれば彼女はやり直せるはずだ。痣の事を帳消しにするくらいの気丈さが、彼女にはある。

 僕は何処へ行っても緘黙症だが。

 彼女は何処かへ行けばやり直す事が出来るだろう。


 瀟哭岬の海に面している崖は、日本でも有数の高さがある。また、安全柵の類も無い。他に名所として選ばれる理由は────夜空に浮かぶ螺鈿らでんのような星羅せいら達だろうか。死ぬ前に綺麗なものを冥土の土産にしたいという自殺志願者の心理はわかる────というか、自分もそうだ。口が開けなくても瞼を開ける事に感謝して、死ぬ事にしたのだが。

 その夜の緞帳どんちょうの下に。

 ────よく知る背中を見つけた。

 初めそれは死を目前にして怖気おぞけを感じた脳が作り出す幻覚か何かだと思ったが。

「遅かったね」

 と、見透かしたように、聞き慣れた声音で話すので自分の視力を疑わざるを得なくなった。

 制服のポケットに入れたままだったメモ帳を取り出して、僕は訊く。

『どうして』

「此処、自殺の名所でしょ? 死にたくなって来てみたら、君が居た。たったそれだけ」

『どうやって』

「タクシーで。ちょっとお金掛かったけど、片道分なら良いかと思って」

 その言い草からして僕がこれから敢行する事の予想も付いているようで、僕が口籠くちごもっていると。

「数学」

 と振り向いた────古閑見は呟いた。

「点数が悪いとまたお父さんに殴られちゃうから。それに」

 そこで言葉を区切って古閑見はスカートのポケットから古ぼけた紙切れを取り出した。

「小学生の時、この街を出て色々な所に連れてってくれるって、言ったでしょ?」

 その差し出された紙切れを見て、僕は

 それにはこう書かれていた。

『免許を取ったら、遠い所に連れてってあげる。それまで頑張ろう』

 それは遠い昔の約束、記憶の欠片だった。


────


 僕等が、お互いの馬鹿さ加減にお互いを笑っていると、ぽつぽつと雨が降り出した。

 自殺の名所で自殺未遂者が出るというのは、この場所にとって名折れのような出来事なのかもしれなかった。

「君の手紙────というか、まぁ、ほとんど遺書のようなものか。それを見て『あぁ、やっぱり駄目だったか』って思っちゃった。私としてはなんて言うか......、君をを生き甲斐にしていたような節があったからさ────っていうと照れ隠しみたいだね。いや、もう照れ隠しって事で良いよ。郵便受けから音が鳴ったと思ったら下手糞な手紙が入ってて動転しちゃって。すぐに玄関を出たけど君はもう居なかったし。......そういう時の行動は早いんだもんね」

 僕が乗ってきた車の助手席で古閑見は滔々とうとうと話し出した。

 その話に合いの手を入れてやりたいのも山々だが、今僕はハイエースのハンドルを握っているため、いつものように筆談をする事が出来ない。耳だけは傾けている形である。

「その後君の家に行ってさ。悪いけど、鍵掛かってなかったから勝手に入ったよ。まぁもぬけの殻だった訳だけれども。......けれど、君の机に置いてあった写真立てを見て思い出したんだ。────君が『いつか僕の車で星でも見に行こう』って言ってくれた事」

 昔の僕というのも勿論、話す事が出来なかったから、〝言った〟のではなく〝書いた〟というのが実際の所だったろう。その思い出のかすが、古閑見が持ち出してきた────今も膝の上で、両手で広げているその古く汚い紙切れがそれである。

 そして、僕の部屋の机、その上に飾ってある写真────父が撮ってくれたものだ。

 小さい頃、母との親権争いに敗れて家を去った僕の父。

 写真の内容は、小さい僕が父の所有していた大型トラックを背にして笑っている、というもの。

 自分の写真を自分の部屋に飾るというのははたから見れば気恥ずかしさそのものだが、その写真は僕の酷い人生の中で唯一奇麗なままである過去の遺物だった。

 異物ではなく遺物。

 遺ったもの。

 遺してもらったもの。

 どうせ僕以外の人が入る事の無い僕の部屋だと思っていたし、その写真に時偶ときたま慰めてもらう事も事実だった。

「ともあれ、良かったよ。この紙切れがあって私も死に場所をあそこにしようって思えたから。君が場所を選ぶなら此処ここだろうって公算も高かったし。これで来てくれなかったら、きっと君にとってこの紙切れの思い出は取るに足りないたわむれだったんだと思う事にして、この紙で窒息しようとしたと思うよ────まぁそれは難しいから吞み込んで崖から飛んでたか。......でもまさか────車で来るなんて思わなかったよ」

 フロントガラス越しの前方に、篠突しのつく雨が信号機をうんざりさせているのを見た。伏し目がちに赤く灯っている。

 それに伴って車を停止させたタイミング────を見計らって、古閑見は僕に今更ながらも、だが初めに問うべきでもあった質問を、呆れ笑いと共に寄越した。

「なんで、運転できる訳?」

 僕はサイドブレーキを引いて両手をハンドルから離し、ポケットに手を突っ込んでメモを取り出す。

『昔、父さんのトラックの助手席によく乗せてもらってた』

「いや、説明になってないよ」

『意外と、簡単なんだ』

「ふぅん」

 信号が青に変わり、僕はブレーキから足を離した。

 そこからは僕達は自分の街に帰るまで終始無言だった。

 心地の良い沈黙もあるのだと知った。家の寂寥せきりょううるさいくらいなのに。

 古閑見も同じように思ってくれていたら────という妄想をもたげてしまう程に、その車内の静けさは優しいものだった。


「眠くなってきちゃった」

 僕達の街の境に差し掛かる頃、古閑見は唐突にそう呟いた。

 搭載されているナビに表示された時刻を見ると午後の十一時を回っていた。

 適当な場所で停車してハザードランプをいた後、メモを取り出して僕は

『後、二十分もすれば着くと思う』

 けれど僕の回答に満足しなかったのか、古閑見は眠そうに、俯いたまま緩慢に首を振って見せた。

 解せずに古閑見の横顔を見つめていると、ゆっくり顔を持ち上げた古閑見は親指で後ろ────荷台を指して、

「もう、ここで寝ちゃおうよ」

 と言った。

 僕は少し逡巡しゅんじゅんした後、メモに文言を追加していく。

『この車を元の場所に戻そうと思ってる』

「いいよ、そんなの。今更だよ。どうせもう持ち主も警察に言っちゃってると思うし。どうせならもうちょっと借りとこうよ」

 今度が僕が呆れ笑いをする番だった。

 けれど僕はそれに賛成の意を示して二十四時間営業のスーパーに車を入れて入店し、不要な段ボールとして集められていたそれをかっぱらい、荷台に敷いて簡易的なベッドとした。

「うん、上等上等」

 その処置に古閑見はそう評価を下して、バックドアから荷台に乗ってそのまま横になってしまった。

 それを見て取り、僕はドアを閉めようとすると。

「来なよ」

 横になったままそう言って、古閑見は僕の行動を制した。


 あからさまに古閑見に背を向けて横になるのもなんだか悪い気がするし、かといって向かい合う状態で横になるのも面映おもはゆい。結局僕の姿勢は仰向けに落ち着いた。

 僕の思惑を知ってか知らずか、古閑見はこちらに顔を向けて横になっていた。けれど、身動みじろぎする度に右頬────昼間に殴られた頬が段ボールに当たる際に痛むのか、顔をしかめる様子を視界の端で見た。

『痛むなら、あちら向きに横になったら』

 僕はメモを介して提案する。

「......じゃあ、私が寝るまで、私の背中をメモの代わりにして」

 僕のその提案のメモを不貞腐れたような顔で見つめた後、古閑見はそんな風に逆提案をした。背文字遊びをしようというらしい。

 して、古閑見は向こうへ寝返り、その後に僕は古閑見の背中に向いた。

 特に書く事が思い付かなかったので、僕は今日の謝意について書く事にした。

 〝ありがとう〟〝うれしい〟〝たすかった〟〝ごめん〟

 そして試しに〝好〟と書いてみた所。

 古閑見は素早くこちらに寝返り────向かい合ったかと思うとそのまま唇をくっ付けてきた。

「ふん」

 したり顔で鼻を鳴らした古閑見はぐに元の姿勢に戻って僕に背中を向けた。

 僕はその背中────古閑見の右肩を床に向かって押し付けるようにして無理矢理仰向けにさせて、お返しした。

 このハイエースがフルスモークで本当に良かった。

 そうでなければこんな事をする勇気は無かったかもしれなかったから。

 ルーフを叩く雨音が、いつまでも僕の勇気を賞賛し続けていた────。

 

────


 中学を卒業後、僕は工業高校へ、古閑見は商業高校へ入学した。

 進路は別々になったが、何か上手くいかない事、不都合、不条理があった時はどちらかが、どちらかの家を訪れるという形でお互いを慰め合った。

 高校へ上がってからは自分達でアルバイトが出来るようになった事で自己効力感が生じて、中学の頃よりは心とお金に余裕が出てきた。

 アルバイトはあの日のスーパーで、僕は品出し、古閑見はレジ打ちをした。

 面接してくれた人も、僕達が過去にこのスーパーにハイエースで訪れて、警察を動員して騒がせたその時の中学生とは思わなかったみたいだった。

 休憩時間が被った時に一緒に食べた余り物の惣菜は、とても美味しかった。

「高校を出たら、どうする?」

『働くよ。大学に行くお金なんて、元より無いし。......喋れなくてもあまり支障が無い仕事となると、選択肢があまり無いけど、長距離配送とかなら何とかなりそうだと思ってる。そっちは?』

「丁度今、学校で経理をやってるから、君の財布を管理してあげるよ」


────


「起き、て、時間」

 僕は隣で寝ている古閑見にそう

「もう、そんな時間?」

 寝惚け眼で古閑見が応じる。

「う、ん。は、やく」

 寝床から起きて簡単に支度を済ませ、安普請やすぶしんのアパートの錆び付いた階段を二人で降りる。駐車場に停めてある軽に乗って、二人で僕の職場へ向かった。

 職場の敷地の外に古閑見を降ろして待ってもらい、敷地内では軽から本日の夜勤で使う大型トラックに乗り換え、準備を終えた後に敷地から出してハザードを焚く。するとそれを合図にトラックに向かって駆けて来る古閑見の姿を左サイドミラー越しに見る。運転席から身を乗り出して助手席のドアを開けてやり、乗り込もうとこちらに伸ばしてきた古閑見の手を掴んで席まで引っ張り上げてやる。

「よっこいしょっと......。それで、本日は何処まで?」

「九州ま、で」

「そりゃあ、また長旅だね。......あ、じゃあ帰りにでも博多ラーメン食べようよ」

「た、ぶん、時間、無い」

「えー。じゃあさ、この前のサービスエリアまた通るでしょ? あそこで食べたまっずい牛丼あったじゃん? あれ、また無性に食べたくなってきた」


────


 つたなく、訥々とつとつとだが話せるようになった僕でも、未だに古閑見に言えていない台詞がある。それが病気の後遺症の所為せいか、唯々ただただ勇気の不足なのかは、判断が難しい所だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨噦 M.S. @MS018492

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ