真澄の苛立つ姿をじっと見ていた花魁は、やがてふわりと口を開いた。

 「あんたと同じよ。」

 「……同じ?」

 「私にも、廓に骨をうずめてでもいいから会いたい人がいるの。」

 あんたに直巳がいるみたいにね、と、野分花魁は静かに微笑んだ。それは、常の凛と冷たい彼女らしからぬ、やわらかな微笑だった。

 「誰ですか、それは。」

 「私をここに売った人。」

 歌うように、野分花魁が答えた。

 「直巳の師匠だった人よ。あんたがここに来たときにはもう死んでたから、知らなくて当然ね。」

 「死んだ?」

 「過労死。すぐその辺で倒れて、病院に運ばれたんだけど、死んだわ。」

 すぐその辺、と、野分は座敷の隅の方を示した。

 そこでようやく真澄は、野分花魁には忘れられない恋人がいると噂されていたことを思い出した。だから野分はこの廓を離れないのだと。

 「恋人、だったんですか?」

 問えば、困ったように花魁は少しの間黙った。

 「恋人っていうのが正しいかは分からない。ただ、私はあの人に全てを預けたわ。」

 全てを預けた。

 真澄は師の顔をそっと思い浮かべた。

 真澄の全てを受け入れてはくれなかった人。それでも、今でも忘れられない人。

 「……話してくれませんか。その人のこと。」

 「話したら、松風楼を紹介してくれる?」

 「……はい。」

 頷けば、野分は低く絞り出すように笑った。表情は崩れない、ただ声だけの笑み。

 「いいわ。大した話じゃあないんだけどね。」

 どこから話せばいいのかしら、と、野分花魁は小首を傾げる。どこからでも、と、真澄は彼女に先を促した。

 「じゃあ、ここに買われてくる前の話から。……ここに買われてくる前、私は母親と二人で小さいアパートに暮らしていたの。貧乏だったわ。母親は観音通りで立ちんぼをしていた。私もいずれは母と同じ稼業に足を踏み入れるんだと思っていた。そしたら母がね、立ちんぼよりは廓暮らしの方がましだ、少なくとも三度の飯は食べられるからって言って、私を売ったのよ。7歳の時だった。」

 そこで野分はいったん言葉を切った。

 真澄は自分の母のことを思い出していた。彼の母もまた、立ちんぼであったから。

 「私を買いに来たのが、直巳の師匠の忍さん。七歳じゃまだ禿にするにも早いって言ってたけど、母が無理やり私を売りつけたのね。」

 お茶でも入れましょうか、と、野分が言ったが、真澄は首を横に振った。

 話の先を聞くことの方が、真澄にとっては最優先だったのだ。


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