項垂れる真澄を見ながら、花魁は薄い苦笑を唇に刷く。

 「どちらにしろ、会わないつもりだったんじゃないの?」

 確かにそうだ、確かに会わないつもりだったけれど、それでもここに直巳がいるといないとでは大違いだ。

 真澄にとって桜町は直巳の町だったし、だからそこから離れられず、未練がましく橋向こうの私娼窟にとどまっている。

 「直巳さんは、どこに行ったんですか?」

 問う声は微かに震えた。その震えを感じ取ってだろう、野分花魁は、真澄を憐れむように切れ長の目をすいと細めた。

 「さあ。知らないわ。」

 野分花魁が知らないのならば、この廓町に直巳の行方を知る者は誰もいないのだろう。

 真澄は絶望して口をつぐんだ。師が自分になにも言わずに消えてしまうなんて、思ってもいなかった。

 野分花魁は、それ以上真澄の内面に踏み込もうとはしなかった。そういう突き放した優しさが、彼女にはある。

 「今日あなたを呼んだのは、住み替えをしたいからよ。」

 「住み替え?」

 聞き間違えたのかと思って問い返せば、花魁はするりと頷いた。

 「そう。この町を出たいの。どこか紹介してくれるでしょ?」

 「紹介って言ったって……。」

 真澄は驚きをまだ噛みしめきれないまま、視線をあちらこちらに彷徨わせた。

 「俺がいるのは私娼窟ですよ。松風楼が一番大きい廓ではあるけど、格は晴海楼よりずっと落ちる。」

 「いいのよ。」

 「でも、どうして。」

 晴海楼で看板を張るほどの花魁が、わざわざ私娼窟に住み替えをする意味が分からなかった。

 すると花魁は剃刀の刃より薄く笑い、浴衣の襟をつかむと大きく開いた。

 「わかる? 黄色くなっているの。肝臓をやられちゃってね。」

 肝臓をやられる。

 そう言って黄疸に罹り、廓から消えていく娘たちは少なくなかった。

 どうしても毎夜、客と酒を飲まねばならぬ仕事だ。それを10年も続けていれば身体を壊すのも当然だ。

 「……だったら、もうこの商売自体辞めるべきですよ。たしかにあっちの店じゃあ、酒こそ飲まなくていいだろうけど、身体を酷使するのは同じなんだから。」

 そうね、と野分花魁は言った。言っただけで、真澄の言葉などまるで聞き入れるつもりはないのであろう態度だった。

 この花魁は、死ぬまで廓を離れるつもりはないのだ。

 「なんで、命をかけてまで廓に執着するんですか。もう前借金はないんだし、お金だってそれなりに溜まったでしょう。」

 そうね、と、花魁はそれだけを繰り返した。真澄は苛立って、自分の膝に拳を振り下ろした。



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