野分花魁
野分花魁が桜町を出る。
それは私娼窟まで鳴り響いてくる重大ニュースだった。
晴海楼きっての売れっ妓であり、とうに前借金を払い終わっても、廓の主のようにその身を苦界に沈め続けた花魁。彼女が桜町を出る。
そのニュースを、真澄は桜町の住民達より数日早く知った。野分花魁が面倒を見ている禿、こはまが長屋にやってきたのである。
14歳になるうつくしい禿は、野分花魁の趣味だろう、渋い紺色の小袖を身に着けていたが、その色味は彼女の怜悧なうつくしさを見事に引き立てていた。
「野分花魁がお呼びです。」
「野分花魁が?」
桜町にはもう二度と足を踏み入れるつもりがなかった真澄は、その呼び出しに従うべきか少しの間迷った。
しかし、晴海楼で右も左も分からなかった真澄を女衒として仕込んでくれたのは、厳しく冷たい花魁の視線だった。今ならあの視線はすべて真澄のためだったと分かる。かつては、それが分からず野分花魁の気配がすればこっそり廓を抜け出したりしていたのだけれど。
「行こう。」
真澄が素足を下駄に突っ込むと、こはまは年相応の幼さで安堵の息をついた。
「真澄さんは来ないかもって、花魁は言ってました。」
少女の素直な口調に、直巳は思わず苦笑した。
「いや、行きたくはないけどな。怖いし、野分花魁。」
「優しい方です。」
静かに真澄をたしなめる口調は、いっそ真澄より大人びていて、野分の仕込みの確かさを物語っていた。
「知ってるよ。知ってるけどね……。」
人気の少ない真昼の私娼窟。こはまは真澄の横顔を見上げてさも可笑しそうに笑った。
切れ長の目がうつくしい少女だ。師が買い付けてきた禿だが、水揚げが終わればすぐに看板を張るような花魁になるだろう。
私娼窟を抜け、桜橋を渡るとき、真澄は一瞬だけ眩暈を覚えた。
渡りたくても渡れない橋だった。それを、先導の少女さえいればこうもあっさり渡れてしまうのが不思議だった。
「……今日、直巳さんは?」
問えば、こはまは真澄を首だけで振り返り、ちょっとだけ唇の端をつりあげた。困ったような、それは微笑の出来損ないだった。
「直巳さんなら、もういませんよ。」
耳を疑った、こはまがなにを言っているのか分からなかった。
「いない?」
問い返せば、桃割れに結った髪の項を軽く押さえながら、こはまは小さく頷いた。
「町を出て行かれました。昨日の夜。」
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