二万円、懐の紙入れから取り出す指は震えていた。

 師を裏切るような気がした。真澄が誰を抱いたところで、師がなんの感情も持たないことは百も承知だけれど。

 差し出された二枚の紙幣を、直巳によく似た男は適当に折りたたむと、スウェットのポケットに押し込んだ。

 「こっち。」

 男の冷たい指が真澄の手首に絡みつき、部屋の中に招き入れる。

 売れっ妓花魁が住むには、質素すぎる部屋だった。広めの1Kはきれいに片づけられ、フローリングには塵一つ落ちていない。この男が掃除なんかするとは思えないから、浮舟花魁がしているのだろう。

 飾り気はなく家具も最低限だが、いかにも幸せな同棲生活が行われていそうな部屋だった。

 その部屋の奥にあるダブルベッド。男は躊躇うことなく服を脱ぐとベッドに腰を下し、真澄の帯を慣れた手つきで解いた。

 「名前は?」

 「……真澄。」

 「そうじゃなくて、俺の。」

 「え?」

 「だれか、いるんだろ、俺に似たのが。」

 「え?」

 なぜ分かった、と、半裸の真澄は全裸の男を見おろした。

 すると男は、さぞ面白そうに口の端を曲げて笑った。

 「浮舟と同じだよ。直巳って男?」

 浮舟と同じ。

 真澄は唖然としながらその台詞を繰り返した。

 「初音も蛍も六条もそうだ。ここに来てから俺は、直巳って男のおかげで大分稼いだぞ。」

 男は笑った唇のまま、直巳って呼んでいいぞ、と言った。

 「浮舟だって、俺の本名なんかしりゃしないんだ。」

 直巳さん、と、口の中で真澄はその名を呼んだ。

 好きな人だった。どうしても手が届かない人だった。

 それでも、なぜだかその男を直巳とは呼べなくて、

 「本名、教えてくれ。」

 問えば男は意外そうに軽く眉を上げた。

 「……潤。」

 なぜだかやや躊躇いながら告げられた名前。

 廓の女が源氏名で呼ばれたがるのと同じだろうか、と真澄は思う。

 源氏名の自分でならばなんでもできる。どんな屈辱的なセックスにでも耐えられる。

 残酷なことを訊いたのかもしれない。本名が知りたいなんて。

 「直巳はお前をなんて呼んだ?」

 「……真澄。」

 「話し方は、直巳に似てるだろ? 仕込まれたんだ。」

 誰に、とは潤は言わなかったし真澄も聞かなかった。

 「潤を抱かせてくれ。」

 その言葉は自然と真澄の口から零れた。

 師を汚したくなかったからかもしれないし、目の前の男が海猫みたいに寂しい目をしていたからかもしれない。

 潤は驚いたようにふと黙った後、軽く眉を顰めて困惑を示した。

 「忘れたよ。潤の抱かれ方なんて。」




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