3
二万円、懐の紙入れから取り出す指は震えていた。
師を裏切るような気がした。真澄が誰を抱いたところで、師がなんの感情も持たないことは百も承知だけれど。
差し出された二枚の紙幣を、直巳によく似た男は適当に折りたたむと、スウェットのポケットに押し込んだ。
「こっち。」
男の冷たい指が真澄の手首に絡みつき、部屋の中に招き入れる。
売れっ妓花魁が住むには、質素すぎる部屋だった。広めの1Kはきれいに片づけられ、フローリングには塵一つ落ちていない。この男が掃除なんかするとは思えないから、浮舟花魁がしているのだろう。
飾り気はなく家具も最低限だが、いかにも幸せな同棲生活が行われていそうな部屋だった。
その部屋の奥にあるダブルベッド。男は躊躇うことなく服を脱ぐとベッドに腰を下し、真澄の帯を慣れた手つきで解いた。
「名前は?」
「……真澄。」
「そうじゃなくて、俺の。」
「え?」
「だれか、いるんだろ、俺に似たのが。」
「え?」
なぜ分かった、と、半裸の真澄は全裸の男を見おろした。
すると男は、さぞ面白そうに口の端を曲げて笑った。
「浮舟と同じだよ。直巳って男?」
浮舟と同じ。
真澄は唖然としながらその台詞を繰り返した。
「初音も蛍も六条もそうだ。ここに来てから俺は、直巳って男のおかげで大分稼いだぞ。」
男は笑った唇のまま、直巳って呼んでいいぞ、と言った。
「浮舟だって、俺の本名なんかしりゃしないんだ。」
直巳さん、と、口の中で真澄はその名を呼んだ。
好きな人だった。どうしても手が届かない人だった。
それでも、なぜだかその男を直巳とは呼べなくて、
「本名、教えてくれ。」
問えば男は意外そうに軽く眉を上げた。
「……潤。」
なぜだかやや躊躇いながら告げられた名前。
廓の女が源氏名で呼ばれたがるのと同じだろうか、と真澄は思う。
源氏名の自分でならばなんでもできる。どんな屈辱的なセックスにでも耐えられる。
残酷なことを訊いたのかもしれない。本名が知りたいなんて。
「直巳はお前をなんて呼んだ?」
「……真澄。」
「話し方は、直巳に似てるだろ? 仕込まれたんだ。」
誰に、とは潤は言わなかったし真澄も聞かなかった。
「潤を抱かせてくれ。」
その言葉は自然と真澄の口から零れた。
師を汚したくなかったからかもしれないし、目の前の男が海猫みたいに寂しい目をしていたからかもしれない。
潤は驚いたようにふと黙った後、軽く眉を顰めて困惑を示した。
「忘れたよ。潤の抱かれ方なんて。」
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