「……そうじゃない。」

 喉の奥でひしゃげる声を、辛うじてひっぱり出す。じゃあ、どうした、と、直巳は平然と問い返してきた。

 どうしたもこうしたもない。あなたの声が聞きたかったし、あなたの許しが欲しかったし、あなたの隣に戻りたかった。できればあなたの思い人が自分ならと、そんなことさえ考えて胸やら腹やら頭やらを痛めていた。

 真澄は身体のどこからともつかない痛みに耐えるために、きつく眉を顰め、直巳の手をそっと自分の肩から外させた。

 そう力の入っていない掌は、あっさり外れてそのまま直巳の懐に突っ込まれた。

 思いの温度が違いすぎて、話にもならない。

 「あなたは、いつでも遠い。」

 なんとか絞り出せた言葉は、真澄自身の耳にもほとんど恨み節のように聞こえた。

 「なんの話だ。」

 と、直巳は怪訝そうに首を傾げた。

 真澄はたまらなくなって、自分の心臓あたりをぎゅっとつかんで息を整えた。

 「詫びくらい、まっとうに入れさせてくれてもいいじゃないですか。」

 今度の声もまるっきり恨み節みたいで、直巳は首を傾げたまま真澄をじっと見据えていた。その眼差しにあるのはただただ戸惑いで、直巳は師と自分との距離の遠さに眩暈すら覚える。

 「ようやく勇気振り絞ったんですよ、これでも。いつかは謝らなくちゃって、ずっと思ってて。」

 それ以上、言葉が見つからなかった。なにを言っても直巳には届かないのだと分かっていた。

 たった一度のセックスは、真澄にとっては一生に一度の情交であっても、直巳にとっては一度男に抱かれた後の身体を、ついでに投げ出したに過ぎないのだろう。

 それを分かって付けこんだのに、今になってそのことがたまらなく虚しい。

 ぐっと息を飲んだ真澄は、師の身体に触れないように慎重に身を引きながら立ち上がり、長屋を離れて歩き出した。

 小雨が肩を濡らす。師の眼差しが追いかけて来る。ただあっけにとられ、それでもなお真澄の身を案じている優しい師の眼差し。

 そのまま真澄は、桜橋を渡った。

 数時間前に夕顔花魁が駆けた桜橋。真澄の場合、取り押さえられることもないが引き留めてくれる人もいない。

 忘れよう、と思う。

 師のことは忘れて、桜町のことも忘れて、そう、橋の向こうの私娼窟にでも女を卸して暮らせばいい。

 多分直巳は数日中には真澄が町を出たことを知り、素直に真澄の身を案じるのだろう。

 耐えられない、と思った。

 抱かなきゃよかった。

 抱かなきゃ、よかった。

 直巳は心持顔を仰向け、目じりを濡らす熱いものを、雨の冷たい雫で誤魔化した。



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