第35話 キリストこそ真のルシファー(^^)ノ
上社から下社までは、20分程で到着するようだ。
ちなみに、諏訪の地は、中央構造線上の活断層に位置していると言う。
高天原(たかまがはら)から武甕槌神(たけみかづち)は地震を封じ込める神としても知られているが、武甕槌神(たけみかづち)が建御名方神(たけみなかた)を倒したエピソードは、活断層を抑え込み、地震を封じ込める意味合いも、あったのかも知れない、と夫が言うので、私は、何故、武甕槌神(たけみかづち)は、建御名方神(たけみなかた)にとどめを刺さなかったのか、聞いてみた。
夫は、最後の審判って、ルシファーが解き放たれる事で起きる訳だよね。
だとしたら、キリストこそが、真のルシファーなんだと思うよ、と言った。
私は合点がいかず、何故、ルシファーがキリストなのかと問うと、夫は、ある集団に属する人がその集団の正当性と力を維持するために、特定の人を悪者に仕立てあげて攻撃する事をスケープゴートと言よね。
イエス・キリストはスケープゴートとしてて屠(ほふ)られた訳だけど、普通に考えて、人々の恐れや憎しみを言い訳もせずに、ただひたすら受け続けて、地獄でこの世を支えている存在がいたとすれば、その存在こそが、この世で最も尊い者であるのは明白だと思うんだ。
私が、それがルシファーなんだ、と言うと夫は、頷き、そう考えるとさ、諏訪明神が表に出る時が、終末であり、キリストの復活なんだと思うよ、と言った。
諏訪大社下社の春宮に到着したのは、午後の2時半頃だった。
上社の張り詰めた空気感と比べると、春宮は、柔らかい春の日差しと言った感じだ。
私は、どちらの雰囲気も好きだと、夫に言うと、夫も同意してくれた。
諏訪大社は上社と下社は全く祭祀の形態が違うそうで、特に下社は、大国主神(おおくにぬし)の子で、建御名方神(たけみなかた)の兄である事代主神(ことしろぬし)を祀っている事から、下社は大和政権が上社を監視する為に建てられた神社であると言う説がある。
やはり、上社には、出て来られると困る神がいるのだろうか。
夫は、かごめかごめの唄を歌いながら、この歌って、とてもユダヤ的な歌だよね、と言った。
かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に鶴と亀が滑った、後ろの正面だあれ。
私は、それを聞いて、籠の中の鳥が出る事を恐れているような、出てきて欲しいような、そんな不思議な歌だよね、と言った。
かごめかごめの籠目紋は六芒星の形を表しているから、ユダヤ民族を象徴とするダビデの星になるよね。
籠の中の鳥は、今は閉じ込められているけれど、世の中が、最も暗い時に解き放たれる。
鶴と亀は、滑ったのか、統べたのか、僕には、どちらの意味なのかは分からないけど、御伽草子には、浦島太郎の物語の続きが記されているんだ。
太郎は老人になった後、鶴となり、蓬莱山へと飛び去った。
竜宮城のお姫様も、亀となり、蓬莱山へと向かって行った。
僕は、諏訪の神って、陰陽極まった存在だと思ってるんだ。
夫は、生命の木の実は、人に罪がある時には決して食べてはいけないとされているけど、人は生きて行く限り、必ずこの罪を背負う事になる。
罪とは、仏教で言うところの業(ごう)の事で、業(ごう)は偏った考えを持つ時に発生するものだ、と言う説明をした。
お釈迦さんは、偏らないで、中庸(ちゅうよう)が良いですよ、と言ったけれど、もしも、陰陽極まった諏訪の神が表に出たなら、人類を中庸に戻す為の浄化作用が、必ず起こると思うんだ。
これを祟りと取るか、祝福と取るかは、人それぞれの受け取り方だけど、これを耐えれば、人は永遠の生命を得る事になると思う。
まあ、永遠の命がどう言う意味なのかは、僕には分からないし、永遠の命が、どう言う形で、人類にもたらされるのかも、ちょっと想像がつかないけど、キリストの復活と、終末と、生命の木の実の秘密は、全て、この神が握っているんだと思うよ、と夫は言った。
その後、秋宮を参拝し、今回の宿泊先である塩尻のスパホテルへと向かった。
守屋山のハイキングで心地良く疲労していた私達は、サウナやジェットバスで、ハレルヤ、復活を遂げた。
夜は焼肉屋さんで、骨付きカルビを沢山食べた。
何か、ここの骨付きカルビ、ジューシーなビーフジャーキーみたいで、めっちゃ美味しい、と私は思った。
夫は、焼肉の脂っぽさは、マッコリで流すと、マッコリをまるで牛乳のように飲んでいた。
夫は、内臓系が好きなようで、ホルモンやセンマイを食べていた。
ああ、幸せだなあ、と私は思った。
さて、新しい朝が来た。
希望の朝である。
今日は、戸隠でお蕎麦を食べる予定なので、私達は、スパホテルを七時過ぎに出来した。
もちろん、お昼の為に朝食は抜いた。
しかし、塩尻から戸隠は意外に遠いんだな。
と言うより、長野って思ったより大きい県だな、と私は思った。
私的には神も悪魔も、いるとも思ってないし、いないとも思ってない。
でももし、黙示録の悪魔が地獄から解き放たれたとしたら、陰陽師は、一体、どのように対応するのだろう。
ふと気になって、それを夫に尋ねてみた。
夫は、しばらく考えた後、個人としては出来る事なんて殆どないよ。
せいぜい、玄関に三峰山のお札を貼るとか、蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんかもん)の護符を貼るくらいしか出来ないかな、と言った。
夫が語るに、三峰の護符も、蘇民将来の護符も行疫神(ぎょうやくじん)に対して強い効力を持つと言う。
まだ菌やウィルスの存在が確認出来なかった時代は、民間信仰の中で、疫病は獣の悪霊が引き起こすと考えられていた。
風邪を引くと葱を首に巻いたり、肛門に葱を差し入れたりするのは、葱を苦手とする獣に対し、喉元や内臓を食い荒らされない為の呪(まじな)いであると言う。
安政5年(1855年)から甲斐や駿河でコレラが大流行した。
その際、コレラを引き起こすのは孤狼狸(ころり)と呼ばれる獣の妖怪であるとの噂が流れた。
この時代、獣を殺すのは狼の役割と、狼を眷属として祀る三峰詣りが大いに流行したと言う。
蘇民将来(そみんしょうらい)は、行疫神である素戔嗚尊(すさのお)を助けた事により、その後、素戔嗚尊(すさのお)によって引き起こされる疫病の難を免れた蘇民将来(そみんしょうらい)の逸話が基になった災厄払いの民間信仰である。
蘇民将来(そみんしょうらい)は安倍晴明(あべのせいめい)が編纂したと伝わる陰陽道の秘伝書、簠簋内伝(ほきないでん)にも記載があり、陰陽道との関連も深いとされる。
夫曰く、この日本における蘇民将来(そみんしょうらい)の伝承は、二本の門柱と、かもいに、子羊の血の付ける事で神の災厄を免れた事に端を発するユダヤ教の宗教的記念日である過越(すぎこし)がルーツだと言う。
夫は、疫神(やくじん)を宥(なだ)める方法はいくつかあるけれど、もしも僕に強い権限や権力があったとしたら、天の岩戸開きの神話をモチーフにして、僧侶を百人くらい集めて、法華経の読経をしてもらうかな、と言った。
私は何故、法華経なのか疑問に思い、その理由を聞いてみた。
夫は、般若心経や、真言、念仏と同じく法華経は、経そのものに霊力が宿る仏典だと語った。
更に、法華経の経文は、法華経を奉ずる者を助ける為に、あらゆる神々を召喚する経文であると言う。
そう考えると、聖徳太子は、本当に預言者だったのかもね、と夫が唐突に言うものだから、私は何で?と思わず聞いてしまった。
夫は、法華経には、唯一成仏を果たす、八歳の龍女が登場するんだ、と言った。
法華経が成立した当時も、畜身で、子供で、しかも女性が成仏するなんて、とても考えられなかった筈だよ。
でも、法華経では、そんな龍女が悟りを経て、成仏するんだよ。
つまり、法華経って、龍を成仏させる事が出来る世界で唯一の経典なんだ。
なので、しかるべき場所で、法華経の経文を唱えれば、龍を成仏させる為に、世界中から、あらゆる神々が集まって来るんじゃないかな。
聖徳太子は、恐らく、それを分かっていたから、この日本に法華経を持ち込んだのかも知れないね、と語った。
私は、真偽はともかく、夫の想像力にただただ脱帽した。
しかし、神も仏もいるのかな。
神や仏がいるのなら、世の中はもう少しマシな筈じゃないのかな。
そう思っていると、夫は、まあ、人の世は、人の世なんだから、基本的には、神も仏も助けてはくれないよね。
でも、真っ当に生きている人が、いよいよ危ない目にあった時、不思議な力が働く事があるんだよ。
それは、その人の生き方の結果なんだけど、それでも人は、自分一人の力だけでなく、何らかのお陰様で生きている訳だから。
その不可思議な現象を、昔の人は神や仏の力に喩えたのかもね、と独り言のように呟いた。
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