彼女は知らない。

荒廃

彼女は知らない。

「雨か」呟くとほぼ同時に、窓際にもたれかかった僕の恋人が、突然窓際に置かれていた植木鉢を外へ向かって投げ捨てた。少し間があって、植木鉢の割れる音が、外から小さく響いた。それは以前、僕が浮気相手から貰ったイカリソウの植木鉢だった。それを思い出して、僕はひやりとする。

 でも大丈夫。

 僕が浮気をしていることを、彼女は知らない。

 

 きっと何かむしゃくしゃすることがあって、それで僕の恋人は窓の外へ向かって植木鉢をぽいと投げ捨ててしまったのだ。

 今夜隣町で花火大会があるというのに、あいにくの雨模様だったせいかもしれない。ソファーに座って、雑誌をめくる手を止めたまま、僕はそう思った。

 女性っていうのは、時折理由もなくヒステリックになる生き物なのだ。それは自然災害にも似ている。

「お昼はパスタでいい?」やがてようやく窓の近くから離れた恋人が僕に向かって言う。

「もちろん」と僕は頷く。「トマトソースのパスタがいいな」

「はいはい。じゃ、今から作るね」

 会話の途中、何度か僕は恋人の表情をうかがっていたが、もう彼女は苛立っていないようだった。僕はようやくほっとして、雑誌の続きに戻った。


 夕暮れ近くなると、雨は止んだ。その夜、僕らは予定通りに隣街の花火大会へ向かった。第一部から第四部まである、地方では有名な花火大会だ。道はひどく混んでいる。普段は寂れた小さな町だというのに。

 慎重に車を走らせながら、時間をかけて駐車場を探した。時間には余裕を持って出てきていたから、特に焦ってはいない。

 会場まで歩いて十五分程度のところにようやく車を停めて、僕らはゆったりとした足取りで会場まで歩いた。途中で、フランクフルトを買って歩きながら食べた。

 辺りには楽しそうな人々が、それぞれに夏の夜を満喫していた。

 すぐ近くで浴衣を着た女の子達がはしゃいでいる。道の向こう側ではカップルが手をつないで歩き、長年連れ添ったと思われる夫婦が屋台で並んでビールを買っている。

 浮かれた子供たちは走り回り、その母親が危ないよ、とやや焦った様子で注意している。そんな喧騒の中に僕はふと浮気相手を見つけた。

 一瞬ぎくりとしたが、平静を装って、フランクフルトを口に運ぶ。一瞬目が合ったが、すぐに逸らした。浮気相手を見かけたのは二週間ぶりだった。

 さりげなく僕の隣を歩く恋人の様子を伺ってみたけれど、特に変わった様子はなかった。

 

 花火大会の夜から一週間後のある日、僕が仕事から戻ると、窓際に見慣れない植木鉢が置かれていた。近くで眺めると、紫色の花が咲いている。

「こないだ私が植木鉢を割っちゃたから、その代わりだよ」と彼女は言った。「この間は、ごめんなさい」

「いいよ、大丈夫」僕は窓際の花を間近で見つめる。「いいね、この花」

「そうでしょう」そう言って、彼女は小さく笑った。「アザミっていうのよ」

「あまり聞きなれない花の名前だ」と言いながら、僕は脇の下に冷たい汗がにじむのを感じた。 

 僕の浮気相手の名前がアザミだということを、彼女は知らない。

 

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